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よろず料理店 ほろほろ日乗  作者: 枕川うたた


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第45話 再生と希望の色彩

黒崎が去り、残された猶予はわずか一週間。

伊織と結は、地上げに対抗する術を必死で模索した。

法的な専門知識がない二人が頼れるのは、この店の歴史だけだった。


「法的に、あるいは常識を覆す力で…」

伊織は黒崎の言葉を反芻した。

常識を覆すには、相手が調べ尽くした現在の土地権利ではない、過去の、誰も気に留めない記録に手がかりがあるはずだ。


二人は、近隣の区役所や郷土資料館に通い詰め、店の土地と建物の古い台帳を漁った。

この店を守りたいという一心で、二人は来る日も来る日も埃っぽい記録の山と格闘し続けた。

伊織も結も、お互いを支え合いながら、一筋の光を求めて集中力を注ぎ込んだ。


徹夜明けの金曜日。

埃まみれの戦いの末、結は一冊の古びた『地区協定書』を発見した。


「伊織さん、見て!」


その協定書は、この地区の商店主たちが約50年前に交わしたものだった。

その中の一文。

この土地の前の所有者が、店を売却する際に付けた『公共性保持のための特約』が記されていた。


その特約とは、「本土地は、地域の公共生活に資する店舗として存続することを第一義とし、純粋な営利目的のみによる急速な転売・再 開発は、地区評議会の承認なくして認めない」という、極めて古い時代の紳士協定に近いものだった。


現代の企業法務では無視される類のものだが、地上げ側のコンサルタントが、ここまでの地域の歴史を遡って調査しているとは考えに くい。

この特約を盾に、彼らの土地取得のプロセスに瑕疵があると主張できるかもしれない。


迎えた日曜日。

勝負の直前。


伊織は、勝利の証でも、最後の晩餐でもなく、自分自身の心の解放を象徴する一皿を、結のために作った。


それは、『再生と希望を象徴する、美しい色彩のサラダ』だった。


伊織が作り出したのは、命の輝きそのもののような一皿だ。

皿の中央には、伊織の過去の料理を打ち破るかのような、生命力の爆発的な色彩があった。


地元の農園から仕入れた、高潔で瑞々しい旬の野菜たちが、まるでモザイク画のように高低差をつけて構築されている。

深いルビー色の生ビーツと、太陽のようなオレンジ色の金時人参が、極薄のスライスで皿の土台を飾り、その上には、冷水でパリッと 引き締められたエメラルドグリーンのクレソンと、繊細なフェンネルの葉が、無造作でありながら計算された美しさで重ねられている。


さらに、紫キャベツの細いリボン、黄色い食用菊、そして真珠のようなラディッシュの薄切りが、カウンターの光を反射してキラキラと輝き、まるで皿の上で色と光の交響曲を奏でているようだ。


ドレッシングは一切使わず、伊織が厳選したフルーティーなエキストラバージンオリーブオイルをごく少量、霧のように吹き付け、削った雪のようなパルミジャーノと岩塩、挽きたての黒胡椒で、野菜そのものの甘み、苦み、そしてミネラル感を極限まで引き出した。

一口噛むたびに、「シャキッ」という純粋な音が響き、それは伊織の心が曇りなく自由になった証のようだった。


「綺麗…そして、すごくいい匂い」結は息を飲んだ。

伊織は、結の前に皿を置き、そして自分にも同じサラダを盛った。


「あの親子丼で、俺は嘘偽りなく、自分の全てを込めることができた。俺の心はもう完全に自由になったんだ。このサラダは、俺がこれからを生きる、色彩豊かな未来だ」


伊織の目に迷いはなかった。

彼は、このサラダのように、過去の闇を捨てて、今を生きることを選んだ。


翌月曜、午前10時。

黒崎は、約束通り店に現れた。冷たい視線は、前回と変わらない。


「期限です。立ち退き合意書にサインを」


伊織は、カウンターの奥から立ち上がり、黒崎の前に、古びた協定書のコピーと、それに関する弁護士の見解書を差し出した。


「これを見てください、黒崎さん。

我々はこの店の土地が、50年前に交わされた『公共性保持の特約』に縛られていることを突き止めました」

伊織は、自信に満ちた声で続けた。

「あなたの会社は、この特約を無視し、地域の評議会への通告も承認も得ていない。つまり、あなたの会社の取得手続きには、重大な瑕疵がある。この特約の無効を巡って裁判になれば、少なくとも半年、あなたの事業は完全に停滞する。これは、あなた方にとって最大のタイムロスでしょう」


黒崎の表情に、初めて驚愕の影が走った。

彼はすぐにファイルを手に取り、特約の条文を読み込んだ。彼の優秀な法務チームでも見逃した、あまりにも古く、ローカルな文書だった。


交渉が一時的に中断したその刹那、伊織はカウンターの下からもう一皿取り出し、黒崎の前に差し出した。

それは、昨日結に出したのと同じ、『再生と希望を象徴する、色彩豊かなサラダ』だった。


「これは、俺からあなたへの『料理』です」伊織は静かに言った。

黒崎は顔を上げ、伊織の目を見た。

その目は、昨日食べたサラダのように一点の曇りもない、希望の色彩に満ちていた。


「どういうつもりだ?」黒崎は警戒心を露わにした。

「勝負は、料理だけじゃありませんでした。ビジネス上の反撃、これはあなたの求めていた『常識を覆す力』です。でも、俺の料理人としての本気は、言葉や書類じゃなく、この一皿でしか伝えられません」


黒崎は躊躇したが、皿の上の爆発的な色彩――エメラルドグリーンのクレソン、ルビー色のビーツ、太陽のような金時人参――の組み合わせが、あまりにも鮮烈で、まるで伊織の魂そのものが形になったかのようだったため、フォークを手に取り、静かに一口食べた。


シャキッ。という、純粋で淀みのない音が店内に響いた。


その瞬間、黒崎の冷徹な仮面が一瞬崩れた。野菜そのものが持つ圧倒的な生命力と、極限まで引き出された甘み、そして僅かな塩気が、彼の舌の上で交響曲を奏でた。

それは、彼が普段、高級店で口にする技巧的な料理とは全く異質な、正直で、清々しい味だった。


彼は書類を仕舞った。

伊織の料理の熱意、ビジネス上の緻密な反撃、そしてこの一皿。


「…一本取られました」黒崎は小さく呟いた。

彼は冷静さを取り戻し、フォークを静かに置いた。


「わかりました。あなたの料理は、確かに本物だ。そして、あなたの行動は、私が求めていた『常識を覆す力』を体現している」


「我々の方針を再検討します。この案件は、一旦『保留』とさせていただきます」

黒崎は立ち退き合意書を破ることなく、しかし、テーブルの上に広げたまま、静かに店を後にした。

彼は、伊織が差し出したサラダの皿を一瞥し、その鮮やかな色彩が、自分の心のどこかに焼き付いたのを感じていた。


店の危機は、一時的にではあるが回避された。

二人の目の前には、伊織の心の解放によって生まれた、色彩に満ちた未来が広がっていた。

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