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よろず料理店 ほろほろ日乗  作者: 枕川うたた


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44/50

第44話 最後の通告、料理人の誓い

伊織の過去の重荷は消え、彼は今、料理人として、そして結と共に生きる男として、この店を守る覚悟を決めた。

しかし、法的な期限は迫っている。


その日の昼下がり、店に似つかわしくない黒いスーツの男が一人、静かにドアを開けた。

その男、黒崎は地上げ専門のコンサルタントで、冷徹なビジネスマンの顔をしていた。


「あなた方がよろず料理店の経営者ですね。こちらは最終的な立ち退き合意書です」

黒崎は一切の感情を排した声で、分厚いファイルをカウンターに滑らせた。

「ご存知の通り、法的にはこれ以上抗う術はありません。サインし、立ち退き料を受け取れば、穏便に済む。明日をもってこの契約は強制執行に移行します」


結は青ざめた顔で書類を見つめた。

これまで避けてきた現実が、冷たい紙切れとして突きつけられたのだ。


「待ってください」

伊織は厨房から静かに歩み出た。その顔には、かつてあった自嘲や卑屈さはなく、ただ真っ直ぐな、料理人の目があった。


「穏便に、ですか。あなたの仕事は理解しています。しかし、この店は私にとって、人生をやり直す場所だ」伊織は静かに言った。「そして、この場所が、どれほどの価値があるか、あなたはまだ知らない」


黒崎は表情一つ変えない。

「価値ですか?市場価格で計算済みです。あなたの個人的な事情に、当社の事業を妨害する権利はありません」


伊織は、黒崎の言葉に反論しなかった。代わりに、彼は厨房に戻り、結に言った。

「結。今から俺は、この店の『すべて』をかけた一皿を、この方に捧げます」


数分後、伊織は黒崎の目の前に、小さな皿を置いた。


それは、飾り気のないシンプルな『親子丼』だった。

だが、ただの親子丼ではない。

湯気は静かに立ち上り、ふっくらとした卵は宝石のような輝きを放ち、優しく、それでいて力強い出汁の香りが、冷え切った空気さえも温めるようだった。


「これは、私の人生で初めて、人のために、心の底から誠実に作った料理です」伊織は言った。

「過去に、私は人々に嘘をつき、騙し、傷つけた。その罪を償うために、私はこの一皿に、生きる意志と、店を守りたいという誓いを込めた。食べてください」


黒崎は、書類を前に、一瞬ためらった。

しかし、目の前の料理から放たれる真摯な熱量が、彼の手を止めさせた。


彼はフォーク(伊織はあえて彼のビジネススタイルに合わせてフォークを添えた)を取り、立ち退き合意書から視線を外した。


最初のひとくち。黒崎の無表情な顔が微かに歪んだ。

まず彼の心の奥深くに届いたのは、計算も偽りもない、ただ純粋な出汁の優しさだった。

それは、彼の冷え切った日常では決して味わうことのない、温かい感情の逆流のようだった。

彼は長年張り続けていた鉄壁のビジネスマンの仮面の下で、ひどく満たされていない人間の渇望を感じていた。


黒崎は無言で、ほとんど勢いよく次のひとくち、また次のひとくちと食べ進めた。

彼は冷徹なビジネスマンとしての意識を忘れ、過去の案件や書類の山ではなく、今この瞬間の「温かい命」に一心不乱に向き合っていた。

湯気がスーツに染み込み、額にうっすらと汗をかきながら、最後の米一粒まで、まるで儀式のように綺麗に完食した。


完食した黒崎は、深く息を吐き出し、まるで重い枷を外すかのように静かにフォークを置き、きつく締めていたネクタイを緩めた。

「…美味い。私は年間何百件と、立ち退き案件を扱ってきた。だが、料理人に食で反論されたのは、初めてだ」


彼は立ち上がり、合意書を手に取った。

「残念ながら、私の仕事は感情で変わらない。あなたの料理は素晴らしい。だが、契約は契約だ」


結は絶望の表情を浮かべた。

しかし、黒崎は立ち去る直前、伊織の方を振り返った。


「…だが、あなたには猶予を与える。この料理への敬意だ」彼は言い放った。

「来週の月曜、午前10時。それが最終期限だ。それまでに、あなたがこの店を法的に、あるいは常識を覆す力で守る証拠を提示できなければ、私は容赦なく実行に移す。それが、あなたに与えられた最後の勝負の時間だ」


黒崎は、名刺の裏に「親子丼、素晴らしかった」とだけ書き残し、冷たい雨の中、店を後にした。


伊織と結に残されたのは、彼の言葉と、来週月曜日の午前10時という、あまりにも短い期限だった。

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