表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
よろず料理店 ほろほろ日乗  作者: 枕川うたた


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/50

第43話 許しと受容の煮込み料理

伊織が十年の時を経て語り終えた告白は、厨房の空気を、重く、しかし清らかなものに変えていた。

結は、伊織の冷え切った手に重ねた自分の手を、そっと握りしめたまま、しばらく言葉を失っていた。


伊織の苦悩は、料理の技術の失敗ではなかった。

それは、「愛が届かなかった」という、料理人にとって最も残酷な、そして最も根深い絶望だった。

彼は、自分の最高の技術が「泥」と化した瞬間から、このよろず料理店を自己処罰の場所に変えていたのだ。


結は静かに口を開いた。

声は小さかったが、確かな決意に満ちていた。


「伊織さん。奥様が『泥と同じ』だと仰ったのは、あなたの料理に対してではないと思います」


伊織がハッと顔を上げる。


「それは、『味わうことができない』自分自身に対する、奥様の悲しみと絶望の言葉です。あなたは、妻が望んだ『普通の喜び』を、病気が奪った現実を、あなたの技術のせいにして、十年も苦しんでいたのですね」


結は立ち上がり、伊織の目をまっすぐに見つめた。


「あなたの料理の技術は、愛そのものです。それを無意味なものだと罰し続けていたのは、奥様を愛するあなた自身です」


結は、伊織が自ら課していた「よろず料理」の定義を、彼の目の前で打ち砕き、再構築しようとしていた。


「伊織さん。あなたが、この店で『よろず料理』を続けてきた理由が分かりました。それは、完璧なもの、愛したものから、逃げ続けるためだった」


結は深呼吸した。


「でも、私が考える即興料理(よろず料理)は、違います」


結の瞳に、強い光が宿る。


「即興料理とは、目の前の誰かが、その瞬間、心から『食べたい』と感じたものに、誠実に応えることです。それは、豪華さでも、洗練された技術でもない。『今、あなたを温めたい』『今、あなたに笑ってほしい』という、最も純粋な願いを、最短距離で形にすることです」


「あなたの奥様が、最期に本当に望んだのは、あなたの技術ではなく、あなたの隣で、あなたが作ってくれた温かいものを、ただ安心して食べられるという日常だったはずです。それは、フレンチの完璧さからは、遠い場所にある」


「伊織さん。もう、自分を罰するのは終わりにしましょう。あなたが今、本当に食べたいのは、何ですか?そして、私が今、あなたに食べさせたいのは、何ですか?」


結は、返事を待たずに動き出した。

彼女が向かったのは、伊織が使っていた、店の隅の小さな家庭用コンロと、最低限の調理器具だ。


結は、冷蔵庫の奥から使い残しの豚肩ロースの分厚い端肉と、無造作に転がっていた人参、じゃがいも、玉ねぎを取り出した。

伊織の店の最高級のナイフを使いながらも、結の切り方は豪快だった。

玉ねぎは芯を残したまま四つ切り、人参は角の残る乱切り、じゃがいもは皮つきのまま大きく半分に割る。

その意図的に不揃いな形こそが、彼女の意図する「受容」を象徴していた。

まな板の上で具材が打ちつけられる、リズミカルで荒っぽいトントンという音が、伊織の洗練された過去の調理音とは対照的だった。


豚肉は、最高のフレンチシェフなら必ずやるはずの「焼き付け」を一切せず、分厚いまま大鍋の底に沈められる。

鍋に具材が並び、昆布出汁をベースにした水が張られる。

ジューッという肉の焼ける音ではなく、具材が水面に触れる静かな音だけが、厨房に響く。


結は、日本の調味料、醤油、みりん、酒、少量の砂糖を、嗅覚と直感に頼って加えていった。

それは、伊織の知る複雑なブイヨンとは全く異なる、素朴で直感的な味付けだった。


火にかけると、すぐにその場に立ち込めるのは、どこか懐かしい、田舎の台所のような温かい香りだ。

最初に出てくるのは醤油のシャープな香りとアルコールの揮発。そして、野菜からゆっくりと甘みが染み出し始めると、湯気は甘くまろやかな煮込みの香りへと変わっていく。

煮込み特有の、時間だけが作り出すことのできる、丸い、安心する匂いが、伊織の凍りついた心臓を直接温めているようだった。


結は火加減を最低限に落とし、蓋をして言った。

「これは、許しと受容の、温かい煮込み料理です。具材を、敢えてバラバラの形と硬さで煮込みます。全部の具材が、それぞれのタイミングで、ゆっくりと、一つの鍋の中に溶け込んでいく。これは、完璧ではない、不完全な人生そのものの味です。全部、受け入れて、温かくなる味です」


数十分後、煮込み料理が完成した。


『心の闇を溶かす煮込み』


蓋を開けると、鍋の中では、豚の肩ロースがホロホロに崩れかけている。

じゃがいもは、皮際こそ形を保っているが、中心はとろりと煮崩れてスープに溶け出し、全体に優しいとろみと旨味の層を作り出していた。

玉ねぎは飴色になり、人参は煮込まれて透明なオレンジ色に輝いている。


結は、それを粗末な木皿ではなく、普段客に出している、温かな色合いの皿にたっぷりと盛り付けた。

乱雑に切られた具材は不揃いで、味付けも均一ではないかもしれない。

しかし、その深みのある茶色と、絶え間なく立ち上る湯気の匂いは、圧倒的な安心感を伊織に与えた。


「どうぞ、伊織さん。召し上がってください。これは、誰の期待にも応える必要がない、あなたのためだけの、不完全な一皿です」


伊織は震える手でスプーンを握り、目の前の煮込みをすくった。口に運ぶ。


熱い。


口に入れた瞬間、その熱さが、十年間の心の凍結を一気に溶かしにかかった。

豚肉は、煮込まれて繊維がほろほろと崩れ、人参は滋味深く、じゃがいもはスープに優しいとろみを加えていた。


味は、完璧ではない。

ある部分は少し味が濃く、ある部分は薄い。

だが、そのムラこそが、伊織が過去の料理で完全に排除しようとした「人生の不完全さ」そのものだった。


伊織の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。


これは、彼の妻が、最後に望んでいた味だったかもしれない。「

世界一美しい泥」ではなく、ただ「隣にいる愛する人が作ってくれた、温かい、いつもの味」。


「…うまい」伊織は嗚咽混じりに言った。

「これは…俺の…過去の、どの完璧な料理よりも…魂に届く」


結の即興料理は、伊織の過去の呪いを完全に打ち破った。

彼は、最高の技術を愛の凶器としてではなく、誰かの「食べたい」に誠実に応えるための道具として、改めて受け入れることができたのだ。


伊織は顔を上げ、涙を拭った。

彼の目には、以前のような死んだ光ではなく、料理人としての闘志が漲っていた。


「結。ありがとう。俺はもう、逃げない。この店は、俺の過去を清算するための『罰の場所』じゃない。これは、俺の人生と、俺の料理を、再び始める場所だ」


「立ち退きの件。俺の最高の技で、相手を黙らせる一皿を作ろう。よろず料理店の名の下に、最高の、そして最も誠実な一皿を」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ