第43話 許しと受容の煮込み料理
伊織が十年の時を経て語り終えた告白は、厨房の空気を、重く、しかし清らかなものに変えていた。
結は、伊織の冷え切った手に重ねた自分の手を、そっと握りしめたまま、しばらく言葉を失っていた。
伊織の苦悩は、料理の技術の失敗ではなかった。
それは、「愛が届かなかった」という、料理人にとって最も残酷な、そして最も根深い絶望だった。
彼は、自分の最高の技術が「泥」と化した瞬間から、このよろず料理店を自己処罰の場所に変えていたのだ。
結は静かに口を開いた。
声は小さかったが、確かな決意に満ちていた。
「伊織さん。奥様が『泥と同じ』だと仰ったのは、あなたの料理に対してではないと思います」
伊織がハッと顔を上げる。
「それは、『味わうことができない』自分自身に対する、奥様の悲しみと絶望の言葉です。あなたは、妻が望んだ『普通の喜び』を、病気が奪った現実を、あなたの技術のせいにして、十年も苦しんでいたのですね」
結は立ち上がり、伊織の目をまっすぐに見つめた。
「あなたの料理の技術は、愛そのものです。それを無意味なものだと罰し続けていたのは、奥様を愛するあなた自身です」
結は、伊織が自ら課していた「よろず料理」の定義を、彼の目の前で打ち砕き、再構築しようとしていた。
「伊織さん。あなたが、この店で『よろず料理』を続けてきた理由が分かりました。それは、完璧なもの、愛したものから、逃げ続けるためだった」
結は深呼吸した。
「でも、私が考える即興料理(よろず料理)は、違います」
結の瞳に、強い光が宿る。
「即興料理とは、目の前の誰かが、その瞬間、心から『食べたい』と感じたものに、誠実に応えることです。それは、豪華さでも、洗練された技術でもない。『今、あなたを温めたい』『今、あなたに笑ってほしい』という、最も純粋な願いを、最短距離で形にすることです」
「あなたの奥様が、最期に本当に望んだのは、あなたの技術ではなく、あなたの隣で、あなたが作ってくれた温かいものを、ただ安心して食べられるという日常だったはずです。それは、フレンチの完璧さからは、遠い場所にある」
「伊織さん。もう、自分を罰するのは終わりにしましょう。あなたが今、本当に食べたいのは、何ですか?そして、私が今、あなたに食べさせたいのは、何ですか?」
結は、返事を待たずに動き出した。
彼女が向かったのは、伊織が使っていた、店の隅の小さな家庭用コンロと、最低限の調理器具だ。
結は、冷蔵庫の奥から使い残しの豚肩ロースの分厚い端肉と、無造作に転がっていた人参、じゃがいも、玉ねぎを取り出した。
伊織の店の最高級のナイフを使いながらも、結の切り方は豪快だった。
玉ねぎは芯を残したまま四つ切り、人参は角の残る乱切り、じゃがいもは皮つきのまま大きく半分に割る。
その意図的に不揃いな形こそが、彼女の意図する「受容」を象徴していた。
まな板の上で具材が打ちつけられる、リズミカルで荒っぽいトントンという音が、伊織の洗練された過去の調理音とは対照的だった。
豚肉は、最高のフレンチシェフなら必ずやるはずの「焼き付け」を一切せず、分厚いまま大鍋の底に沈められる。
鍋に具材が並び、昆布出汁をベースにした水が張られる。
ジューッという肉の焼ける音ではなく、具材が水面に触れる静かな音だけが、厨房に響く。
結は、日本の調味料、醤油、みりん、酒、少量の砂糖を、嗅覚と直感に頼って加えていった。
それは、伊織の知る複雑なブイヨンとは全く異なる、素朴で直感的な味付けだった。
火にかけると、すぐにその場に立ち込めるのは、どこか懐かしい、田舎の台所のような温かい香りだ。
最初に出てくるのは醤油のシャープな香りとアルコールの揮発。そして、野菜からゆっくりと甘みが染み出し始めると、湯気は甘くまろやかな煮込みの香りへと変わっていく。
煮込み特有の、時間だけが作り出すことのできる、丸い、安心する匂いが、伊織の凍りついた心臓を直接温めているようだった。
結は火加減を最低限に落とし、蓋をして言った。
「これは、許しと受容の、温かい煮込み料理です。具材を、敢えてバラバラの形と硬さで煮込みます。全部の具材が、それぞれのタイミングで、ゆっくりと、一つの鍋の中に溶け込んでいく。これは、完璧ではない、不完全な人生そのものの味です。全部、受け入れて、温かくなる味です」
数十分後、煮込み料理が完成した。
『心の闇を溶かす煮込み』
蓋を開けると、鍋の中では、豚の肩ロースがホロホロに崩れかけている。
じゃがいもは、皮際こそ形を保っているが、中心はとろりと煮崩れてスープに溶け出し、全体に優しいとろみと旨味の層を作り出していた。
玉ねぎは飴色になり、人参は煮込まれて透明なオレンジ色に輝いている。
結は、それを粗末な木皿ではなく、普段客に出している、温かな色合いの皿にたっぷりと盛り付けた。
乱雑に切られた具材は不揃いで、味付けも均一ではないかもしれない。
しかし、その深みのある茶色と、絶え間なく立ち上る湯気の匂いは、圧倒的な安心感を伊織に与えた。
「どうぞ、伊織さん。召し上がってください。これは、誰の期待にも応える必要がない、あなたのためだけの、不完全な一皿です」
伊織は震える手でスプーンを握り、目の前の煮込みをすくった。口に運ぶ。
熱い。
口に入れた瞬間、その熱さが、十年間の心の凍結を一気に溶かしにかかった。
豚肉は、煮込まれて繊維がほろほろと崩れ、人参は滋味深く、じゃがいもはスープに優しいとろみを加えていた。
味は、完璧ではない。
ある部分は少し味が濃く、ある部分は薄い。
だが、そのムラこそが、伊織が過去の料理で完全に排除しようとした「人生の不完全さ」そのものだった。
伊織の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
これは、彼の妻が、最後に望んでいた味だったかもしれない。「
世界一美しい泥」ではなく、ただ「隣にいる愛する人が作ってくれた、温かい、いつもの味」。
「…うまい」伊織は嗚咽混じりに言った。
「これは…俺の…過去の、どの完璧な料理よりも…魂に届く」
結の即興料理は、伊織の過去の呪いを完全に打ち破った。
彼は、最高の技術を愛の凶器としてではなく、誰かの「食べたい」に誠実に応えるための道具として、改めて受け入れることができたのだ。
伊織は顔を上げ、涙を拭った。
彼の目には、以前のような死んだ光ではなく、料理人としての闘志が漲っていた。
「結。ありがとう。俺はもう、逃げない。この店は、俺の過去を清算するための『罰の場所』じゃない。これは、俺の人生と、俺の料理を、再び始める場所だ」
「立ち退きの件。俺の最高の技で、相手を黙らせる一皿を作ろう。よろず料理店の名の下に、最高の、そして最も誠実な一皿を」




