第42話 伊織の過去の真実の告白
伊織が、粗末な賄いの皿に手を伸ばし、自らの不出来な料理を咀嚼した瞬間。
それは、彼が何年も背を向けていた過去の亡霊を受け入れた瞬間だった。
結は、彼のそばに静かに座り直した。伊織の顔は、長年の苦痛が和らぎ、どこか清算の予感を帯びていた。
「…話してくださいますか、伊織さん」結は問いかけた。
「あなたの、その重い荷物について」
伊織は、ゆっくりと皿から目を離し、遠い一点を見つめた。
彼の声は、乾いた砂を噛むように、重く紡ぎ出された。
「あれは、十年前のことだ」
「俺は、名の知れた高級フレンチのシェフだった。妻は、俺の料理を誰よりも愛してくれた。あの頃、俺の料理は、妻のためにこそあったと言っても過言ではない」
しかし、妻は難病に倒れた。
そして、病状の悪化に伴い、妻は完全に味覚を失った。
「医者からは『もう、舌で味を感じることはできない』と告げられた。だが、俺は一流の料理人としてのプライドがそれを認めなかった。俺の技術をもってすれば、感覚ではなく、魂に語りかける料理が作れるはずだと信じた」
伊織は、それまで以上に時間と手間をかけ、最高の技術、最高の香りと舌触り、最高の色彩を追求した料理を妻のために作り続けた。
「毎朝、毎晩、最高の食材で、完璧な一皿を作った。だが…妻の瞳は、いつも悲しそうだった。俺の人生を賭けた最高の料理が、一番愛する人に、二度と届かないという現実を、俺も妻も、突きつけられ続けたんだ」
ある日、妻は力なく笑って言った。
「伊織さん。あなたの料理は、世界一美しいわ。でもね…もう、私には、ただの『泥』と同じなの」
妻は、伊織の料理人としての魂が、最も大切にした愛情の証が、無意味になってしまった現実に耐えられなかった。
その言葉が、伊織の心を永遠に砕いた。
「俺の完璧な技術は、愛する人を救うことも、喜ばせることもできなかった。逆に、俺の完璧主義は、彼女に『自分がもう、あなたの料理を味わえない』という現実を突きつけ続ける凶器でしかなかったんだ」
妻は、伊織の最高の料理を味わえないまま、数ヶ月後、静かに息を引き取った。
「そして、妻を亡くしてから、俺はフレンチの店を辞め、このよろず料理店を、一人で始めた」
伊織が、フレンチという最高の舞台から、よろず料理という特定のジャンルも持たない道を選んだのは、自分への罰だった。
「俺は、完璧な料理が、無意味になる瞬間を知った。だから、この店で、最高の技術をあえて使わずに、特定のジャンルに縛られることなく料理を作り続けることで、あの夜の無力な自分を永遠に罰し続けているんだ」
粗末な賄いは、その罰の象徴だった。
最高の食材を、意図的に不味く、雑に調理する行為で、彼は「俺の技術は、いつでも『泥』になり得る」と自らに言い聞かせていたのだ。
結は、伊織の凍てついた心が、十年間、「無意味になってしまった最高の料理」の幽霊に囚われていたことを理解した。
彼の苦悩は、技術の失敗ではなく、愛が届かなかったことへの深い絶望だった。
結は、伊織の手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「わかりました、伊織さん」結の瞳は涙で濡れていたが、迷いはなかった。
「あなたの技術は、愛を証明するためにあるんです。誰にも届かなくていいなんて、そんなことはありません」
「私たちは今、このよろず料理店を失おうとしています。あなたの最高を、無意味にさせるわけにはいかない。もう、あなたの愛するものを、二度と失うのは終わりにしましょう」
「今、ここで、伊織さんの誇りを取り戻すために戦いましょう。フレンチでもよろず料理でもなく、伊織さんの料理を、最高の形で表現してください」
伊織は、結の温かい手の感触と、まっすぐな眼差しを受け止めた。
彼の心の中で、十年ぶりに、届かなかった料理の幽霊が、遠い場所に消えていく音がした。
伊織は決意を込めて言った。
「…分かった。俺は、戦う。この店を守るため、そして、俺の料理人としての、最後の誇りのために」




