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よろず料理店 ほろほろ日乗  作者: 枕川うたた


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第41話 過去を乗り越えなければ店は守れない

黒塗りの車が去ってから三日が経過していた。

店は営業を続けているものの、そこには以前のような「確実な温もり」は失われていた。


伊織は、朝から晩まで無言で魚をさばき、野菜を刻む。

その手つきは乱れていないが、まるで魂が抜けた機械のようで、料理に宿るべき「気迫」がない。

結は、この沈黙と無気力が、老朽化や立ち退きよりも遥かに店の未来を脅かしていると感じていた。


その日の賄いは「粗末なまかない」だった。


具材は、店で余った半端な魚のアラと、傷のつき始めた野菜。

しかし、それらは決して質の悪いものではない。

アラは、上質な天然の平目や鯛の、骨と身の間に凝縮された旨味の塊。

野菜は、形は不揃いでも、契約農家から仕入れた生命力あふれる瑞々しい大根や人参だ。

本来であれば、伊織の精確な技術にかかれば、それらは「至高の残り物」へと昇華するはずだった。


今日、伊織はすべてを乱雑に切り、大鍋に放り込み、大量の出汁と酒で煮込んだ。


彼は、アラを叩き、臭みを完全に断ち切るための霜降り工程を省いた。

代わりに、アラをそのままの状態で鍋に入れ、どばりと、多すぎるほどの日本酒を注ぎ込んだ。


グツグツと煮立つ鍋から立ち上る湯気は、魚の脂の甘い香りではなく、酒の鋭いアルコール臭と、抑えきれない魚の生臭さが混ざり合った、荒れた匂いを放っていた。

灰汁は丁寧にすくわれることなく、放置されたまま。野菜は、火の通りを計算した大きさに切られることもなく、大小不揃いのままゴロゴロと転がっている。


煮汁は、通常の伊織の料理が持つ透明感のある黄金色ではなく、乳白色に濁り、煮崩れた魚の膜が浮いていた。

その色も、香りも、伊織が料理にもたらす「優しさや美しさ」からかけ離れた、感情の濁りを映していた。


湯気が立ち上る雑なアラ炊きを前に、結は皿を凝視した。

魚のアラは豪快に、しかし荒々しく盛り付けられ、付け合わせの煮物には、味が染み込まず、硬い芯が残っている。

伊織の手は、その粗末な料理の横で、怒りと悔しさで微かに震えていた。

彼は目を合わせようとせず、無言で箸を取る。


「…食べられる味じゃないですね」結はあえて、静かに、しかし断定的に言った。


伊織の手が、一瞬止まる。


「食えるだろう」伊織の声には、諦念と苛立ちが混ざっていた。

「腹に入れれば、同じことだ」


結は箸を置き、静かに立ち上がった。


「違います。違いますよ、伊織さん」


結は、伊織の正面に立ち、両手を調理台に強くついた。

伊織は、初めて顔を上げ、結を捉えた。その眼差しは、凍てつき、抵抗を示している。


「伊織さんが作る料理は、ただの食材じゃない。伊織さんの料理の命です。でも、今のこの店も、この賄いも、約束を破っている。老朽化のせいで、建物のせいで、と嘆くのは簡単です。でも、本当に伊織さんの料理人としての魂を揺るがしているのは、あの黒い車を呼んだ人たちじゃありません」


結は、一歩踏み込んだ。


「それは、伊織さん自身の、過去の、乗り越えられていない何かでしょう?」


伊織の表情から、すべての色が失われた。

彼の顔に刻まれたしわが深くなり、数瞬の激しい沈黙が店を支配した。

結は、伊織が過去に経験した「失敗」や「挫折」、あるいは「失ったもの」が、この店の根底に常に横たわっていることを知っていた。

そして、この危機が、その古傷を抉り出しているのだと理解した。


「私たちは、もう数ヶ月でここを出て行かなければならない。立ち退きの話は、覆せないかもしれない」結は、声を震わせながらも、まっすぐ伊織を見据えた。

「でも、もし伊織さんが、今ここで過去を乗り越えなければ、たとえどこへ移転しても、心を持ったこの店は、二度と戻ってきません」


「…私を、どこへ行かせたい」伊織は呻くように言った。

その声は、重い石を吐き出すようだった。


「戦うために、過去の自分と決別してください」結は涙をこらえ、訴えかけた。

「この場所を守れなくても、伊織さんの料理人としての誇りを守りましょう。それが、この店を守る唯一の方法です」


伊織は目を閉じ、深く、深く、長い呼吸をした。

その呼吸は、まるで古い錠前が開く音のように、結の耳に響いた。

彼にとって、過去を掘り返すことは、包丁で自らの指を切り裂くよりも苦痛な行為なのだろう。

しかし、結の瞳に宿る揺るぎない熱は、彼に苦渋の決断を迫っていた。


数分後、伊織は静かに目を開け、その凍てついた瞳に、小さな、しかし確かな炎を灯した。


彼は、震える手で粗末な賄いの皿に手を伸ばし、その食べられない煮物を一口、咀嚼した。


それは、伊織が乗り越えられなかった過去の過ちと、店の運命を、初めて真正面から受け入れた瞬間だった。

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