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よろず料理店 ほろほろ日乗  作者: 枕川うたた


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40/50

第40話 日常の崩壊を告げる、味が定まらない薄い焼き魚

 店の空気は、以前よりもわずかに温かく、そして引き締まっていた。

 結は言動だけでなく、掃除の隅々、食材の選別の一瞬にも「温もりを宿す確実さ」を追求し、伊織はその無言の献身を、重いまなざしで受け止めていた。


 日常は、静かな約束のように繰り返されるはずだった。

 しかし、その約束は、突然の訪問者によって、予期せぬ形で破られた。


 午後の仕込みが一段落した頃、店先に一台の黒い車が停まった。

 スーツ姿の男が二人。

 彼らは、静まり返った店内に、場違いなほど硬質な革靴の音を響かせながら入ってきた。


 彼らの用件は、建物の持ち主である大家との契約に関するものだったが、その言葉の端々には、「老朽化」「再開発」「立ち退き」という、穏やかではない単語が散りばめられていた。


 伊織は、その間、終始無言だった。

 ただ、作業台の前に立ち、彼らに背を向けたまま、まるで時間が止まったかのように動かない。

 結は、彼らが去った後も、伊織の背中から発せられる冷たく、重い沈黙を感じ取り、胸の奥が締め付けられるのを感じた。


「伊織さん…」


「賄いにする」伊織は結の呼びかけを遮り、低い声でそれだけを告げた。

 その声は、いつもよりも一オクターブ低く、抑揚がない。


 その日の賄いは、銀鱈の西京焼きだった。


 普段、伊織が銀鱈を扱う手つきは、精密機械のようだった。

 まず、切り身の繊維を読み込み、一切れずつ完璧な長方形に切り分ける。

 次に、指先で摘んだ塩をまるで雪が降るように均等に、かつ過不足なく打ち込む。

 この「確実な塩打ち」こそが、身の余分な水分を抽出し、西京味噌の芳醇な旨味を芯まで吸い込ませるための、彼の譲れない工程だった。


 漬け込みも然り。白味噌に酒、味醂を合わせる味噌床は、伊織の無言のレシピに従い、とろりと、魚の身を優しく包み込むような艶を放つ。

 結は、彼が指定した正確な漬け込み時間、湿度、温度を完璧に管理することで、この料理の「確実性」を担保してきたのだ。


 しかし、今日は違った。


 伊織は、切り分けた魚を雑な手つきでバットに並べ、塩を当てた際も、場所によって粒が偏っているように結には見えた。

 味噌床も、いつもなら濃厚な光沢を放つのに、今日は水っぽく、どこか白さが際立っているように感じられた。


 そして焼きの工程。


 通常、伊織は魚を網に乗せる前、炭火に手をかざし、匂いを嗅ぎ、音を聞き、網の温度、魚の水分、炭火の熾り具合、その全てを瞬時の計算で把握する。

 この一連の儀式を経て初めて、魚は網に載せられる。


 しかし、この日の伊織は、火加減を確かめることなく、まるで物を置くように魚を網に載せた。


 チリチリ、ジュウ!と、水分が瞬時に蒸発し、香ばしさが立ち上がるような軽快な音ではなく、ジリジリと、湿気を帯びた重い熱に押されたような「ジットリ」とした音が立ち上る。


 結は反射的に火力を上げようとしたが、伊織の手がそれを制した。


「そのまま、にしておけ」


 伊織は、魚を焼いている間、一度も手を加えず、裏返さなかった。

 結が西京焼きの最も美しい瞬間だと知っている、焦げすぎない黄金色の味噌の皮膜が、いつまでも現れない。


 配膳された焼き魚は、皿の上で日常の崩壊を如実に物語っていた。


 まず、香りが薄い。西京味噌の芳醇な香りや、焦げた醤油の香ばしさが立たず、どこか生臭さが残っている。


 身は、一部が焦げ付く直前のような乾いた色を帯びている一方で、反対側は白く水気を残していた。

 火の通りが均一ではない。

 伊織の料理において、これほど味が定まらないことは、ありえなかった。


 二人は無言で箸を取った。


 一切れを口に運んだ結は、すぐに異変を感じた。


 味が薄い。


 魚の表面には味噌の風味があるものの、奥まで塩気が浸透しておらず、銀鱈本来の硬質な旨味がどこかぼやけている。


 伊織は、その薄い、不安定な味の焼き魚を、一切の表情を変えることなく静かに食べ進めた。

 彼は、この失敗作を罰を受けるように受け入れているように見えた。


 結は、箸を置いた。

 そして、正面で目を伏せている伊織に、静かに問いかけた。


「伊織さん。あの人たちの話は…」


 伊織は、一度だけ深く息を吸い込み、冷たく、乾いた声で答えた。


「この店は、終わりになるかもしれん。建物の老朽化だそうだ。数ヶ月のうちに、我々はここを出なければならない」


 その瞬間、結の心臓は冷たい水の中に沈んだように感じた。

 しかし、同時に、彼女は目の前の薄い焼き魚と、伊織の揺らぐ背中を思い出した。


 結は立ち上がり、伊織の正面に身を乗り出した。

「伊織さんの築き上げてきたものを、老朽化という理由で失わせたりはしません。何か、方法があるはずです」


 彼女の決意に満ちた瞳は、不安に曇った店の空気に、一筋の熱を灯した。

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