第40話 日常の崩壊を告げる、味が定まらない薄い焼き魚
店の空気は、以前よりもわずかに温かく、そして引き締まっていた。
結は言動だけでなく、掃除の隅々、食材の選別の一瞬にも「温もりを宿す確実さ」を追求し、伊織はその無言の献身を、重いまなざしで受け止めていた。
日常は、静かな約束のように繰り返されるはずだった。
しかし、その約束は、突然の訪問者によって、予期せぬ形で破られた。
午後の仕込みが一段落した頃、店先に一台の黒い車が停まった。
スーツ姿の男が二人。
彼らは、静まり返った店内に、場違いなほど硬質な革靴の音を響かせながら入ってきた。
彼らの用件は、建物の持ち主である大家との契約に関するものだったが、その言葉の端々には、「老朽化」「再開発」「立ち退き」という、穏やかではない単語が散りばめられていた。
伊織は、その間、終始無言だった。
ただ、作業台の前に立ち、彼らに背を向けたまま、まるで時間が止まったかのように動かない。
結は、彼らが去った後も、伊織の背中から発せられる冷たく、重い沈黙を感じ取り、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
「伊織さん…」
「賄いにする」伊織は結の呼びかけを遮り、低い声でそれだけを告げた。
その声は、いつもよりも一オクターブ低く、抑揚がない。
その日の賄いは、銀鱈の西京焼きだった。
普段、伊織が銀鱈を扱う手つきは、精密機械のようだった。
まず、切り身の繊維を読み込み、一切れずつ完璧な長方形に切り分ける。
次に、指先で摘んだ塩をまるで雪が降るように均等に、かつ過不足なく打ち込む。
この「確実な塩打ち」こそが、身の余分な水分を抽出し、西京味噌の芳醇な旨味を芯まで吸い込ませるための、彼の譲れない工程だった。
漬け込みも然り。白味噌に酒、味醂を合わせる味噌床は、伊織の無言のレシピに従い、とろりと、魚の身を優しく包み込むような艶を放つ。
結は、彼が指定した正確な漬け込み時間、湿度、温度を完璧に管理することで、この料理の「確実性」を担保してきたのだ。
しかし、今日は違った。
伊織は、切り分けた魚を雑な手つきでバットに並べ、塩を当てた際も、場所によって粒が偏っているように結には見えた。
味噌床も、いつもなら濃厚な光沢を放つのに、今日は水っぽく、どこか白さが際立っているように感じられた。
そして焼きの工程。
通常、伊織は魚を網に乗せる前、炭火に手をかざし、匂いを嗅ぎ、音を聞き、網の温度、魚の水分、炭火の熾り具合、その全てを瞬時の計算で把握する。
この一連の儀式を経て初めて、魚は網に載せられる。
しかし、この日の伊織は、火加減を確かめることなく、まるで物を置くように魚を網に載せた。
チリチリ、ジュウ!と、水分が瞬時に蒸発し、香ばしさが立ち上がるような軽快な音ではなく、ジリジリと、湿気を帯びた重い熱に押されたような「ジットリ」とした音が立ち上る。
結は反射的に火力を上げようとしたが、伊織の手がそれを制した。
「そのまま、にしておけ」
伊織は、魚を焼いている間、一度も手を加えず、裏返さなかった。
結が西京焼きの最も美しい瞬間だと知っている、焦げすぎない黄金色の味噌の皮膜が、いつまでも現れない。
配膳された焼き魚は、皿の上で日常の崩壊を如実に物語っていた。
まず、香りが薄い。西京味噌の芳醇な香りや、焦げた醤油の香ばしさが立たず、どこか生臭さが残っている。
身は、一部が焦げ付く直前のような乾いた色を帯びている一方で、反対側は白く水気を残していた。
火の通りが均一ではない。
伊織の料理において、これほど味が定まらないことは、ありえなかった。
二人は無言で箸を取った。
一切れを口に運んだ結は、すぐに異変を感じた。
味が薄い。
魚の表面には味噌の風味があるものの、奥まで塩気が浸透しておらず、銀鱈本来の硬質な旨味がどこかぼやけている。
伊織は、その薄い、不安定な味の焼き魚を、一切の表情を変えることなく静かに食べ進めた。
彼は、この失敗作を罰を受けるように受け入れているように見えた。
結は、箸を置いた。
そして、正面で目を伏せている伊織に、静かに問いかけた。
「伊織さん。あの人たちの話は…」
伊織は、一度だけ深く息を吸い込み、冷たく、乾いた声で答えた。
「この店は、終わりになるかもしれん。建物の老朽化だそうだ。数ヶ月のうちに、我々はここを出なければならない」
その瞬間、結の心臓は冷たい水の中に沈んだように感じた。
しかし、同時に、彼女は目の前の薄い焼き魚と、伊織の揺らぐ背中を思い出した。
結は立ち上がり、伊織の正面に身を乗り出した。
「伊織さんの築き上げてきたものを、老朽化という理由で失わせたりはしません。何か、方法があるはずです」
彼女の決意に満ちた瞳は、不安に曇った店の空気に、一筋の熱を灯した。




