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第4話 作りかけの煮物

「料理とは、客の過去と未来を、その一皿で結びつけることだ」


 伊織のその言葉を聞いてから、ゆうの日常は劇的に変わった。


 客の表情、服装の皺、カウンターに置かれた荷物の重さ。

 結はそれらすべてを「情報」として集め始めた。

 伊織は結に、料理の技術は教えないが、客の心を読み取る術は徹底して教え込んだ。

 結のフレンチの経験は、ここでは完全に封印された。必要なのは、火力の調整ではなく、心の温度調整だった。


 しかし、この「よろず料理店」は、完璧な店主・伊織の存在とは裏腹に、ある種の異様な「欠落」を抱えていた。

 店全体が、伊織の静かな「今」で満たされている一方で、奥深くには「過去」という重い蓋がされているようだった。


 ある日の午後、結は伊織に命じられ、店の奥にある小さな物置の掃除をしていた。

 物置は店の明るい賑わいとはかけ離れた、湿った空気と埃が積もる、いわば「時間のおり」が溜まった場所だった。結は埃を払 い、古い段ボールを整理していくうちに、物置の隅、厚い布にくるまれた何かを見つけた。


 布を剥がすと、それは一本のフライパンだった。


「なんだ、これ……」


 結は思わずつぶやいた。

 それは、結が知る伊織の店のどの調理器具とも違っていた。

 伊織が使う鍋や包丁は、どれも手入れが行き届き、使い込まれてはいるものの、まるで美術品のように磨き上げられている。

 伊織の料理哲学そのものが、その道具に宿っているかのようだった。


 だが、そのフライパンは、全てを否定する存在だった。

 柄の部分は激しく焼け焦げ、鉄の表面は深く錆びつき、まるで何十年も前に時の流れから切り離されたかのように見えた。

 表面を覆う錆は赤黒く、ただの酸化ではなく、使い手の激しい後悔をそのまま固めたようだ。

 しかも、それはプロが使うには深すぎる、やや特殊な形状をしていた。結がフレンチで使っていたような、鋭利で完璧なパンとは似ても似つかない、家庭的な温かさとプロの苛烈な失敗が混在したような異物だった。


 結は好奇心と不吉な予感に抗えず、フライパンを手に取り、それをカウンター越しに見せようと厨房に戻ったときだった。


「結。何をしている」


 伊織は、その錆びたフライパンを一目見た瞬間、その表情を凍らせた。


 いつも優しく微笑んでいる、あるいは静かに客を見つめている伊織の顔から、一瞬ですべての感情が抜け落ちた。それは結が今まで見たことのない、深く、底知れない悲しみと、激しい自己嫌悪が混ざり合った、歪んだ表情だった。

 まるで、そのフライパン自体が、伊織にとって開けてはいけない箱であるかのように。


「これを……物置で見つけました。もう使えないようですが……」


 結が言い終わる前に、伊織は静かに、しかし有無を言わせない声で命じた。


「それをすぐに、元の場所に戻せ。そして、二度と触れるな」


 伊織はすぐに元の穏やかな表情に戻ったが、結の心臓は激しく打ち続けた。

 伊織の料理の秘密、そしてこの店の根底にある謎が、この錆びたフライパンに繋がっていることを確信した。

 あの完璧な伊織の、触れてはならない「傷」の存在を。


 その日、店にやってきたのは、退職後の計画を立てているという初老の男性客だった。

 彼は分厚い手帳とペンをカウンターに広げ、まるでそれが人生の羅針盤であるかのように睨んでいた。

 彼は今後の人生の「計画」にばかり気を取られ、今の生活の味を忘れているようだった。

 客は未来の地図ばかり広げ、目の前の水の味さえ感じていない。

 時折、手帳から顔を上げ、結に「この辺りに良いハイキングコースはあるか」などと、店の雰囲気とは無関係な質問をするが、結の返 答に耳を傾ける様子はない。

 伊織は、その客に「故郷の味を思い出す、素朴な煮物」を出すことにした。煮物は、時間をかけてゆっくりと味を染み込ませる、「今を大切にする」料理の象徴だ。


 伊織は静かに調理を始めた。


 まず、出汁。

 かまどの端でいつも静かに温められている土鍋から、黄金色に透き通った出汁を取り出した。

 それは、一晩かけて丁寧に引かれた昆布と鰹節の合わせ出汁であり、派手さはないが、静かな海の豊かさをそのまま閉じ込めたよう な、深みのある香りを放っていた。


 次に根菜の準備だ。

 大根は皮を厚く剥き、面取り(めんとり)を施す。

 その面取りの形は、単なる美しさのためではなく、煮崩れを防ぎ、出汁の通り道を確保するためだ。

 結がフレンチで見た、食材を均一にするための冷徹な切り方とは違い、伊織の包丁さばきは食材への限りない慈愛に満ちていた。

 人参は梅の形に、里芋は丸ごと丁寧に皮を剥かれ、ぬめりを取るための下茹でを施される。

 これらはすべて、「手間を惜しまない時間」が、最終的な優しさにつながることを示していた。


 具材が揃うと、伊織は土鍋にそれらを並べた。

 大根、人参、里芋、そして彩りとして隠元豆いんげんまめ

 上から、黄金色の出汁を静かに注ぎ込む。調味料は、ごく少量の上質な醤油と味醂みりん、そしてほんのわずかな砂糖。

 多すぎない調味料は、食材そのものの声を邪魔しないためだ。


 鍋が中火にかけられ、表面に小さな泡が立ち始める。

 伊織は蓋をせず、湯気がゆっくりと立ち上るのをじっと見つめていた。

 香り立つ湯気は、優しさに満ちていた。煮物は順調に進んでいるように見えた。

 しかし、煮込み始めてから五分ほど経った頃、伊織が突然、ぴたりと動きを止めた。


 伊織は、鍋の前に立ち尽くしたまま、手元の菜箸を握りしめ、遠い虚空を見つめている。

 彼の目は、まるで鍋の中に、過去の幻影を見ているようだった。

 過去の伊織が、この煮物を誰かのために作ろうとしていたのだろうか。


「伊織さん?」


 結は小声で尋ねた。

 伊織は微動だにしない。

 鍋の中では、煮物が激しく沸騰し続け、鍋底に焦げ付きそうな、微かな音が鳴り始めている。

 このままでは、せっかくの出汁と、客の心を満たすはずの「故郷の味」が台無しになってしまう。

焦げの匂いが、かすかに鼻腔を刺激し始めた。


 結は瞬時に判断した。


「熱、下げますね」


 結は伊織に一言断りを入れると、無言で火加減を最低限まで絞った。

 そして、静かに菜箸を取り、煮汁が全体に行き渡るよう、具材をそっと返した。

 それは、料理の知識ではなく、伊織の苦痛をこれ以上深めないための、結の「聞き役」としての優しさだった。

 結は、「客の過去に触れてはいけない」という伊織の不文律を、「料理を守る」という別の不文律で破ったのだ。


 数秒後、伊織はゆっくりと現実に戻ってきた。

 彼は深く息を吐き、結の行動に感謝するように頷いた。


「ありがとう、結。…少し、手が滑った」


 伊織はそう言って調理を再開し、見事に煮物を完成させた。


 完成した煮物は、深みのある藍色の小鉢に盛りつけられ、カウンターに静かに置かれた。

 鮮やかな里芋の白、梅の形に整えられた人参の朱、そして深い大根の白が、澄んだ琥珀色の煮汁の中で静かに輝いていた。


 伊織は静かにカウンターに器を置き、「どうぞ。今日の煮物です」と声をかけた。


 男性客はまだ手帳を見ていたが、伊織の声と、湯気とともに立ち昇る醤油と出汁の懐かしい香りに、思わず顔を上げた。

 彼は手帳を一旦閉じ、眼鏡を押し上げた。


 一口、大根を口に運ぶ。

 ハフハフと熱い湯気を逃がしながら、ゆっくりと咀嚼した。その瞬間、彼の目が見開かれた。

 それは、計画の数字やハイキングコースの地名を探していた目ではなく、四十年前の故郷の食卓を探り当てた目だった。


「……この、大根の味は」


 彼はそれ以上言葉を続けることができなかった。

 煮物は、時間をかけて中まで味が染み込んでおり、大根の中心まで出汁の旨みが深く、そして均一に行き渡っている。

 それは、焦る未来の計画とは対極にある、「待つことの美しさ」を体現した味だった。


 男性客は、その後、一切手帳を開くことはなかった。

 彼は箸を休めるたびに、静かに目を閉じて、その煮物がもたらす「今の時間」と「過去の記憶」を噛みしめていた。

 まるで、煮物の一口ごとに、彼自身の人生の地図が、計画ではなく、今この瞬間の幸福感によって上書きされていくようだった。


 その煮物は、客の心を温かく包み込み、計画だけに囚われていた客に「今」を大切にすることを気づかせた。


 しかし、結の心には重い疑問が残った。


 伊織は、なぜ、作りかけの煮物で手が止まったのか?

 あの錆びたフライパンと、この未遂の焦げつきは、過去に伊織が誰かに料理を届けられなかった失敗を示唆しているのではないか?


 結は悟った。

 伊織の料理が人の心を動かす秘密は、その完璧な技術の裏に隠された、何か大きな「失敗」と「後悔」にあるのではないか。

 その日から、結の修行は、伊織の過去を探るという、伊織自身も知らない「秘密の側面」を持ち始めるのだった。

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