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よろず料理店 ほろほろ日乗  作者: 枕川うたた


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39/50

第39話 静かな決意を固める、大地の力を感じる滋味豊かな煮付け

剣三郎から聞かされた伊織の過去は、結の胸の内に深く静かに沈殿した。


その日、結は厨房に入ると、伊織の定位置から半歩離れた隣に立った。

それは、弟子として仰ぎ見る位置ではなく、対等な一人の伴走者としての、遠慮のない立ち位置だった。


賄い料理は、滋味豊かなブリと大根の煮付け。


結は、伊織の教えどおり、いや、それ以上に執拗なまでに正確な下処理に取り組んだ。


大根は、切った後に数分間だけ澄んだ冷水に浸し、細胞を引き締めた。面取りは滑らかで、一切の角を残さない。

隠し包丁は、煮崩れを防ぎ、味を深く吸い込ませるための、正確に均一な十字。

その作業は、トントン、カツカツという心地良い音を響かせ、工房全体に儀式のような静けさをもたらした。


そして、ブリのアラ。

結は熱湯にさっとくぐらせる「霜降り」を施した。熱にさらされた皮がキュッと白く縮み、すぐに冷水に浸して引き締める。

彼女は指先に冷たい水の感触と、ブリの骨の隙間に潜む血合いの存在を刻み込み、通常の倍以上の時間をかけて、微細な血合いの塊まで徹底的に洗い流した。

彼女の動作は静かで、しかし、伊織の技術が求める再現可能な正確さをそのままトレースしているようだった。


「結。その作業にこだわりすぎる必要はない。賄いだ」伊織が、結の異常なまでの丁寧さに、硬い声で問いかけた。


結は顔を上げず、手を動かしながら答えた。

「確実で、揺るがない。伊織さんがその優しさを追い求めた理由も、その孤独も、私は知りました。私は、この確実さを心の鎧のままで終わらせません。私が、その確実さを包む温もりになります」


結の言葉には、伊織の「絶対的な確実性」を否定せず、それを心の鎧としてではなく温もりを宿す土台として受け入れ、寄り添うという強い意思が込められていた。


煮汁の味付け。

結は、伊織のレシピから純米酒を増やし、さらに全体の味を引き締めるために少量の麦味噌を隠し味に加えた。


煮汁が静かに沸き立ち始めると、結は丁寧に浮いてきたアクを、一切の濁りを残さぬよう掬い取った。

大根とブリを入れ、中火でコトコトと煮詰めていく。

煮汁が少しずつ減っていくにつれて、ブリの皮は照りを増した琥珀色に輝き始め、大根の白い断面は透明感を帯びて、優しく色づいていく。


最後に、結は少量の麦味噌を繊細に溶かし入れた。

麦味噌独特の、どこか懐かしい、乾いた土の香りが立ち上る。

それは、シャープな醤油の香りを丸め込み、ブリの持つ硬質な旨味に、大地のような深い安堵感をもたらす。


土鍋の蓋を開けると、艶やかな琥珀色に染まった煮付けから、優しく温かい湯気が昇った。

湯気は、結の整った顔立ちをわずかに濡らし、彼女の意志の強さを隠すように揺らいでいる。


伊織は無言で箸を取り、一切れの大根を選んだ。


彼は、箸先で大根の表面をわずかに押した。

抵抗もなく、指先にじんわりと熱を伝えながら、大根が二つに割れる。完璧に火が通り、柔らかな煮込み加減。

この崩れる寸前の完璧な柔らかさは、結が正確な時間管理と火力調整を行った証であった。

伊織は、その一切れをゆっくりと、静かに咀嚼した。


最初の瞬間、舌を支配したのは、彼自身が追求してきた醤油と味醂の精確で無駄のない、硬質な旨味だった。

しかし、それを追って、純米酒の芳醇な香りと、麦味噌の微かな塩気と深い甘みが、時間差で口内の隅々まで広がった。


大根の芯まで染み込んだ煮汁は、伊織の確実性がもたらす揺るぎない土台と、結が意図的に加えた麦味噌の静かな滋味が融合していた。

それは、ただの料理ではない。

彼の心の鎧が、結の温もりという布地で包み込まれるかのような味だった。

彼は、その安堵感にわずかに目を見開いた。


結は、その確実な土台の上に、あえて感情の余韻とも言える麦味噌の「温もり」を乗せてきた。


伊織は、ブリの身を口に運んだ。

こちらも血合いが完全に処理され、生臭さは皆無。

ブリの硬質な身の旨味は、麦味噌によって角が取れ、穏やかな丸みを帯びていた。


彼は、その味の中に、結が自分の抱える「確実性への執着」を理解し、その上で新しい価値(温もり)を創造しようとしている静かな決意を感じ取った。

結の料理は、もはや師の模倣ではない。

それは、伊織の確実な世界を、温もりのある目的に導こうとする者の味だった。

彼の胸の奥で、張り詰めていた何かが、微かに緩むのを感じた。


伊織は箸を置き、結をまっすぐ見つめた。

その眼差しは、いつもより長く、真剣だった。


「…この煮付けは、強すぎる」伊織は、静かに、しかし力を込めて言った。


結はその一言で理解した。

彼女の伴走者としての第一歩は、彼の心の奥深くに、確かに届いたのだと。

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