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よろず料理店 ほろほろ日乗  作者: 枕川うたた


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第38話 友情と訣別した、苦みと甘みが重なる、一枚のチュイル

フードブロガー、美月の指摘した、「退屈」という冷酷な言葉。


結はその冷たい評価を頭の中で何度も反芻した。

技術的には完璧だと認められながらも、「退屈」「時代への反抗精神がない」と断じられたのは、結が久美から学び、伊織の料理に加えようとした「感情」が、伊織自身の心の壁を崩すには至っていなかったからではないか。


「技術的な失敗では、この壁は生まれない」


結はそう確信した。伊織の過去の「失敗」は、料理の質ではありえない。問題は常に、「心」にある。


結は、閉店後の清掃中や、伊織が仕入れに出ている間に、店の常連客たちにさりげなく話を聞き始めた。


「伊織さんって、昔からああなんですか?」

「伊織の旦那?昔はもうちょい、笑うことが多かった気がするね。十年くらい前かな、あの時は本当に生き生きとしてて、料理も自由奔放って感じだった」

「あんなに硬い殻を被るようになったのは、あの高級レストランを辞めた後だよ。あの時のことは誰も深く聞けないんだ」


誰もが伊織の「技術の高さ」と「心の変化」を口にするが、核心に触れることは避けた。

彼らは伊織を愛しているからこそ、その領域には立ち入らない。


結は、彼らの言葉から、伊織が過去に勤めていた店の名前と、当時一緒に働いていた何人かの同僚の名前を断片的に拾い集めた。

そして、その中で最も伊織と親しかったと噂される一人の人物、剣三郎けんざぶろうという名前にたどり着いた。


結は、慣れないスマートフォンの操作で、彼の名前を検索した。

都内にある高級フレンチレストランのシェフである彼の顔写真を見た瞬間、結は数ヶ月前の、あの張り詰めた対話を思い出した。


あの時、伊織の店に現れ、「鶏肉のレモンクリーム煮込み」を作らせ、伊織を「逃げた」と断罪した、あの老紳士だ。

結は、彼こそが伊織の秘密の核心を知る人物だと確信した。


翌日、結は伊織に、「今後の甘味(和菓子)の質の向上と、伊織さんの料理に合う和のアクセントのインスピレーションを得るため、都内の老舗や菓子舗をいくつか回る」と告げ、剣三郎のフレンチレストランへと向かった。


剣三郎の店は、伊織の店とは対照的に、明るい光が差し込む内装で、活気のあるビストロのような雰囲気で溢れていた。

結が声をかけると、剣三郎は優しそうな目元をした、伊織と同世代の男性が奥から出てきた。

彼は結の店での立場を聞き、一瞬、複雑な表情を浮かべたが、人目につかない店の隅のテーブルへと招き入れてくれた。


結は、すぐに用件を切り出す代わりに、大切に持参した一枚の柚子と胡桃のキャラメリゼ・チュイルを、小さな皿に載せて静かに差し出した。


それは、結が徹夜で仕上げた、「友情と訣別した、苦みと甘みが重なる、一枚のチュイル」だった。


チュイルは、フレンチのデザートを飾る繊細な焼き菓子だ。

結は、通常のチュイルよりも薄く、極限までパリッと焼き上げ、そこに焦がした砂糖のキャラメリゼと、和の香り高い柚子ゆずの皮、そして香ばしい胡桃くるみを練り込んでいた。

完璧なキャラメリゼは、わずかな焦げが深い「苦み」となり、それが伊織の閉ざされた心を表しているようだった。


フレンチのシェフである剣三郎は、そのチュイルを見て、繊細な技術に感嘆したように、大きく目を見開いた。


「…これは。柚子と胡桃のキャラメリゼ・チュイルか。こんなに薄く、完璧な色で焼き上げるのは、並大抵の技術じゃない」

「これは、私が今、伊織さんの横で感じている味です」結は言葉を選びながら言った。

「完璧なのに、どこか手が届かないような。甘さの中に、何かを深く焦がしたような苦みが隠れている。それをどうにか、包み込みたいと思っています」


剣三郎は静かにチュイルを一枚口に運んだ。

口の中でパリッと砕け散る食感と共に広がるのは、キャラメリゼの深い苦みと、柚子の爽やかな香り、そしてそれを支える砂糖の洗練された透明な甘さ。彼は目を閉じ、深く息を吐いた。


「…ありがとう。伊織がどんな料理人になったか、この一枚で伝わってきたよ。和の素材のアクセントで、フレンチシェフの孤独を表現するなんて、本当に…」


剣三郎は、結のチュイルを食べ終えると、静かに過去を語り始めた。声は優しかったが、その中に深い悲しみがにじんでいた。


剣三郎と伊織は、修業時代を共にした親友だった。

二人は夢を語り合い、将来的に自分たちの店を持つことを夢見ていた。

伊織は当時、都内の高級フレンチレストランで、若くして副料理長として辣腕を振るっていた。


「伊織の才能は、当時から凄まじかった。でも、彼はその女性を救えなかったんだ」


剣三郎は続けた。


「彼の失敗は、料理の腕のせいじゃない。彼の技術は、当時から完璧だった。問題は、彼の心を許した愛する妻が、難病によって完全に味覚を失ったことだ。伊織は、その愛する人のために最高の料理を作り続けたが、妻はそれを『味がわからない』という現実に直面し続けた。彼の人生を賭けた料理が、一番愛する人に届かなくなったんだ」


妻は最終的に病に倒れ、伊織はすべてを失った。


「伊織はね、自分を責めているんじゃない。料理の無力さに絶望したんだ。彼は『完璧な技術』さえも、病や運命の前には無力であると悟った。だから彼は、誰も信用しない、感情を排した、確実さに逃げ込んだ。それが、彼が自分を守る唯一の方法だった」


剣三郎の言葉を聞き終えた結は、体の芯から納得した。

伊織の硬さは、彼自身の優しさが、愛する人を救えない絶望の痛みから身を守るために被った鋼鉄の鎧だったのだ。


結は、皿に残った最後のチュイルの破片を静かに見つめた。

苦みと甘みが混ざり合うその味は、伊織の心の真実を雄弁に物語っていた。


「教えてくださって、ありがとうございます。彼の苦しみは、裏切りなんかじゃなくて、愛する人に最高の味を届けられなかったという絶望だったんですね…」


剣三郎は優しく微笑んだ。

そして、結の肩にそっと手を置いた。

「伊織に必要なのは、もう誰にも壊されない確かな技術なんかじゃなく、誰かの優しい手なんだと思う。君のチュイルがそうであるように、その苦しみをそっと認めて、それを上回るくらいの温かい甘さで包み込んでくれる、そんな手だよ」


結は、伊織が背負う絶望の重さを知り、その苦みを超える温もりの存在を、深く、胸に刻みつけた。

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