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よろず料理店 ほろほろ日乗  作者: 枕川うたた


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37/50

第37話 批評と感情のギャップを浮き彫りにする、冷製の胡麻豆腐

久美が店を訪れて以来、伊織の厨房には明らかな活気が戻っていた。

伊織の動きは力強く、結もまた、彼の側で食材と向き合う時間を静かに楽しんでいた。


そして、結が伊織の未完の愛を完成させたあのオードブル以降、店の常連客たちの間でも、ある変化が囁かれ始めていた。


「最近、結さんが作る料理は、なんていうか……角がないんだよな」

「そうそう。技術がすごいのは変わらないけど、味が優しくなったっていうか、食べ終わった後、なんだか心が休まるんだ」


結の料理は、論理を越えた「温かさ」を身につけ、常連客の心を深く満たし始めていた。

結自身も、その微かな手応えを感じていたが、それを数値化したり、分析したりすることはあえてしなかった。

彼女は今、「感情」という計測不能な領域を、全身で受け止めようと学んでいる最中だった。


そんなある日の午後。

店に一人の女性客が入ってきた。


美月みつきと名乗ったその女性は、四十代前半と思しき洗練された装いをしていた。

彼女が歩くたびに、上質なレザーバッグが微かに擦れる音が響く。

彼女は店内を見回すと、スマートフォンを手に、隅々まで写真を撮り始めた。

彼女の視線は、料理を愛でるそれではなく、監査する者の冷徹さを持っていた。


彼女は、業界では名の知られたフードブロガーであり、その冷徹で鋭利な批評は、多くの飲食店を評価し、また潰してきた。

美月にとって、店とは、自己の市場価値と時代の潮流を測るための実験場であり、料理人とは、その実験の対象でしかなかった。


美月がカウンター席に着くと、結は水を出して静かにその様子を観察した。

彼女の肌からは、強い緊張感と、過剰なまでの自己管理が見て取れた。

結は美月の目を数秒見つめ、彼女の「何かを試そう」とする冷徹な意図を察知する。


メニューはない。

結は美月の批評的な態度に対し、彼女が最も技術的な欠点を見つけにくいであろう一品、そして結の新しい「優しさ」の哲学を体現する一品をぶつけることに決めた。


結は、伊織に代わって胡麻豆腐の調理に取りかかった。

それは、結が担当する「冷製の胡麻豆腐」だった。


この冷製の胡麻豆腐は、結が伊織から学んだ「時間を慈しむ技法」と、久美との交流で体得した「心の許容性」を具現化した一品だ。


まず、選りすぐりの白い胡麻を、低温でじっくりと炒る。

胡麻の芯から香ばしさを引き出し、火から下ろすタイミングは、結の鋭い嗅覚と聴覚だけが知っている。

次に、それをすり鉢に移し、力任せではなく、優しい円運動で丁寧に擦り潰していく。


立ち上る香りは、エグミのない上質な脂の甘さを含み、厨房を満たす。

このすり潰しの作業こそ、結の集中力と技術が試される時間だ。


擦り終えた胡麻は、絹目の漉し器で、驚くほど何度も裏ごしされる。

その度に不純物が取り除かれ、胡麻のペーストは、まるで真珠の粉を溶かしたように、究極の滑らかさを獲得する。


別の鍋では、水で溶いた上質な葛粉と合わせ、火にかける。

結は決まったリズムと一定の温度で木べらを動かし続け、胡麻と葛粉が一つの均質な生命体のように艶やかにまとまっていく瞬間を捉える。


鏡のような光沢を放つ粘度になったところで火を止め、型に流し込み、最も静かな場所で、時間をかけてゆっくりと冷やし固めた。


結は、その胡麻豆腐をキンキンに冷えた器に盛り付け、薄い琥珀色に澄んだ出汁餡を静かに流し入れた。

胡麻豆腐は、乳白色の磁器のように輝き、冷やされた出汁餡が、まるで静かな水面のように表面を覆っている。

薬味のワサビと金箔が、その純粋な白さに彩りを添えていた。


結がカウンター越しに美月の前に皿を置くと、美月はスマートフォンで何枚も写真を撮り、その後、スプーンを静かに、しかし躊躇なく胡麻豆腐に入れた。


美月はまず、皿全体を俯瞰するように視線で測り、盛り付けのバランスを幾何学的に分析した。

ワサビの置き位置、出汁餡の粘度、胡麻豆腐の光の反射率までをチェックリストと照合するように見極める。

そして、スプーンの縁で胡麻豆腐の表面をなぞり、抵抗の少なさを確認すると、その先端を静かに沈めた。


一口、口に含む。彼女の表情は、味見をするというよりも、精密機器の動作を確認するかのように冷静だった。

彼女の脳内では、ミシュランや主要メディアのトレンドデータと、今口に入れた情報の比較解析が瞬時に行われていた。


舌に乗せた瞬間に広がるのは、胡麻の清らかな甘みと、冷たい出汁餡の洗練された塩気。

食感は、葛粉の結合力が完璧で、溶けるというよりは滑らかに消えていく、理想的なものだった。

美月はゆっくりと咀嚼しながら、脳内で味覚のデータを処理していた。

(雑味なし、粘度指数、舌触りの均質性…すべてが満点。技術は確かだ。しかし……)


二口、三口と食べた後、美月はフッと息を吐き、静かにスプーンを置いた。

それは、完璧すぎて退屈だと断じる合図のようだった。

彼女の視線には、怒りではなく、才能ある若者が道を誤っているのを見た失望の色が宿っていた。


そして、冷たい視線で結を射抜いた。


「古臭いわね」


その言葉は、まるで鋭利な氷の破片のように、静かな店内に突き刺さった。


「味は、悪くない。技術的な完成度は高い。胡麻の火入れと裏ごしの精度は目を見張るものがある。正直、ここ数年食べた胡麻豆腐の中では最高峰でしょう。でも、それだけよ」


美月は批評家としての冷静さを保ちながら、容赦なく言葉を続けた。

「この料理には、時代への反抗精神がない。新しい価値観を生み出そうとする、批評的なエッジが全く感じられない。ただただ、優しく、安全に、完成度が高いというだけ。まるで、教科書通りの優等生が、親に褒められるためだけに作った一皿のようね」


結は、自分の胸の奥が冷たく締め付けられるのを感じた。

久美から学んだ「優しさ」が、この批評家の冷たい視点からは「安全」「退屈」「古臭い」と断じられたのだ。


「私は…その優しさこそが、料理に最も必要な感情だと信じています」結は、震える声で反論した。


美月は鼻で笑った。

「感情?それはセンチメンタルよ。お客様の心を満たす?そんなもの、三流の店でもやっていること。一流の料理人が時代を築くには、感情ではなく、批評が必要なの。そしてこの胡麻豆腐は、一切の批評的価値を持たない。技術に溺れた、凡庸な優しさだわ」


美月は、スマートフォンのレビューアプリに冷たい指先を滑らせた。

その姿は、この店の存在を、一つのデータとして処理し、切り捨てる準備ができたことを示していた。

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