第36話 愛のオードブル、過去の重荷を分かち合う
結は、伊織の静かな動揺を前に、無言で伊織の横に滑り込んだ。
伊織の体は動かない。
それは技術が失われたわけではなく、心が過去の苦痛に囚われ、料理人としての動きを拒否している状態だった。
まな板の上には、半分だけ薄切りにされた乳白色の帆立と、湯むきされたままの瑞々しいトマトが、未完の物語の証人として転がっている。
結は伊織の肩に手を置くことはしなかった。
言葉も要らない。
彼女は、伊織の選んだ食材と、そのあまりにも優しい意図を一瞥しただけで、すべてを理解した。
この帆立とトマトは、ただのオードブルではない。愛する人を救えなかった後悔、その結晶だ。
結は、まるで伊織の苦しみを静かに吸い取るかのように、止まっていた調理の動きを、自らの手で再開させた。
まず、伊織が切った帆立を丁寧に寄せ集め、そこに手を加えていく。
久美の「口当たりの優しい、冷たいもの」という注文を完璧に満たすため、結は急遽、仕込みで用意していた繊細な和風出汁をゼラチンで固めていた冷たいジュレを取り出した。
キンと冷えた出汁ジュレを帆立にまぶし、銀色の器の底に薄く敷く。
ジュレが帆立の一枚一枚を優しく包み込み、食欲のない胃にも滑り込むような、極上の滑らかさを生み出した。
そして、伊織が触れることのできなかったトマト。
結は、残りのトマトを手に取り、柳刃包丁ではなく、細かな裏ごし器を使った。
トマトの果肉を一つ一つ丁寧に潰し、濾す。皮や種といった消化の妨げになる要素を徹底的に排除し、残されたのは、赤子の頬のような滑らかな、冷たいエッセンスだけだ。
これを少量の塩とレモン果汁で整え、口当たりの良い冷製ポタージュソースとした。
仕上げは、伊織が用意していたディルと、わずかな上質なオリーブオイル。
結は、ディルを細かく刻み、その香りが立ちすぎないよう、ソースの表面に薄い緑の霧のように散らした。
オリーブオイルは、皿の縁に一滴だけ垂らす。
それは、久美の疲弊した心身に、静かに活力を注ぎ込むための、結からの優しい提案だった。
皿の上に完成したのは、白と赤の、透明感に満ちた一皿。
伊織は、その一連の結の動きを、まるで無声映画を見ているかのように、ただ立ち尽くして見ていた。
結の動きは、伊織のそれよりも無駄がなく、機械的なほど正確だ。
しかし、その正確さが、伊織が込められずに固まってしまった「愛」と「願い」という感情の隙間を、完璧に埋めていくように感じられた。
伊織が妻のために作れなかった「未完」の領域を、結の「完成」という揺るぎない技術が覆い尽くした。
伊織は、久美の注文に込められた妻の幻影から、ゆっくりと引き戻される。
彼の目に映ったのは、過去の幻ではなく、目の前で自分を支える、結という名の現実だった。
結は、完成した皿を伊織に一瞥させ、静かにカウンターへ運んだ。
久美は、その透き通るような冷たい皿を前に、視線を落としたままだったが、結が皿を置く音で、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとうございます」
細い指先でスプーンを取り、久美はそっと、一口分の帆立とジュレを口に運んだ。
久美の腕は微かに震えていたが、皿の上のオードブルは、その極度の疲労による微細な抵抗を許した。
スプーンの先に極少量の帆立とジュレを乗せ、彼女はまるで割れやすいガラスを扱うように静かに咀嚼した。
キンと冷えたジュレは、舌の上で即座に溶け、胃の腑へと何の負担もなく滑り落ちていく。
その瞬間、久美は全身から力が抜けるのを感じた。
これは、久美が過去数日間で経験した「食べ物との闘い」ではない。
食べる努力を必要としない、まるで点滴のような、純粋な「許し」の味だった。
(こんなに、誰かが私のために、私の苦しみを理解して、削ぎ落としてくれた――)
喉を滑り落ちる出汁のジュレは、体内に染み渡る静かな水分となり、張り詰めていた胃の粘膜を優しく撫でる。
帆立のほのかな甘みと、裏ごしされたトマトの冷たい酸味のエッセンスだけが、彼女の意識を外界に繋ぎ止める細い糸となる。
それは、単なる栄養補給ではない。
「生きる義務」から解放され、「少し休んで良い」と静かに許可を与えられたかのような、微かな安堵だった。
彼女はうつむきがちだった顔をわずかに上げ、窓から差し込む夕日の最後の光を浴びるかのように、その冷たい一皿を時間をかけて味わった。
次の瞬間、久美の光を失っていた瞳に、ごくわずかな、しかし確かな光が戻った。彼女は、冷たい料理の中に、温かい安堵を見出したかのように、小さく息を吐いた。
「美味しい……とても、優しい味……」
久美は、皿を最後まで丁寧に空にした。彼女の顔には、この数日間の苦悩の影が薄れ、微かな血色が戻っていた。
彼女はスプーンを置き、静かに伊織を見上げた。
「あの、おやじさん……」久美の声は震えを失っていた。
「ありがとうございます。この料理は、私のために、すべてが削ぎ落とされた味でした。食べることを許してくれた、そんな気がします」
伊織は、言葉を返すことができない。
ただ、久美の目の中に、過去の患者の幻影ではなく、生きた人間の感謝を見つめていた。
久美は立ち上がり、静かに会計を済ませる。
結は、彼女の背筋が少し伸びていることに気づいた。
「ごちそうさまでした。また、必ず来ます」
久美はそう言い残し、店の扉を開けた。扉につけられた小さなベルが、チリンと軽やかに鳴り響き、彼女の再出発を告げるように、夕闇の中に消えていった。
伊織は、そのベルの音を背中で聞きながら、結の隣で再び柳刃包丁を握り直した。




