第35話 愛する人を救えなかった、未完のオードブル
前日、「古漬けの味噌漬け」で長距離運転手の疲労を癒やした結は、自らの論理体系に亀裂が入るのを感じていた。
タイマーもレシピも無関係な場所で、料理が人間の情動に深く作用するのを目の当たりにしたのだ。
翌朝、厨房で伊織と顔を合わせた結は、彼の顔を以前よりも注意深く観察した。
「伊織さん。あの、古いノート……拝見しました」
結は恐る恐る切り出した。
伊織は、朝食の味噌汁をかき混ぜる手を止め、その結の真剣な瞳を見つめた。
「ああ。あれは、もう随分と前のものだ。客の記録や、先代からのレシピの変遷が書いてある」
伊織はそれ以上、何も言わなかった。しかし、その瞳の奥には、結が読んだ日記の言葉――
「私にはあまりにも重すぎる」という、妻の静かな悲しみの影がよぎった気がした。
伊織の体調は、本来の調子を取り戻し、著しく安定し、顔色も以前より明るくなっていた。
結のストイックな仕事ぶりは、伊織の心身に活力を与え、彼の料理人としての感覚も研ぎ澄まされていた。
今日の夕食の仕込みも滞りなく進み、伊織は数カ月ぶりに得た心身の安定を感じていた。
結は、伊織の言う「人生の重さ」が、客の苦悩だけでなく、彼自身が愛する人を救えなかった過去の痛みにも深く根差していることを理解し始めていた。
その日から、結の伊織に対する態度は、冷徹な分析から、どこか静かな庇護を帯びるようになった。
その日の夕刻、店の引き戸が静かに開いた。
入ってきたのは、久美という名の、四十代後半と思しき女性だった。
冬の終わりとは思えないほど薄着で、上質なコートを羽織っているものの、その佇まいはどこか頼りなく、細い指先は冷えて震えているように見えた。
久美の顔立ちには、ある種の静かな美しさがあったが、その瞳は光を失い、深い疲労と、何かに対する諦めの色を宿している。
その様子は、結がノートで読んだ、伊織の妻の「動かない針のように、時間だけが過ぎていく」という記述を、結の心の中でそのまま再現した。
伊織は、カウンターの向こうでいつもの穏やかな笑みを浮かべようとした。
しかし、その久美の顔を見た瞬間、彼の笑みが、張りつめたガラスのように凍りついた。
伊織の手が、ピタリと止まった。
結は、伊織の肩がわずかに、しかし明確に震えているのを見た。
長年、どんな客が来ても、どんな無理な注文を受けても、揺るぐことのなかった伊織の厨房での動きが、初めて完全に停止したのだ。
久美は、カウンターの一番奥の席に静かに腰掛けた。
「あの……すみません。何か、口当たりの優しい、冷たいものはありませんか。熱いものは、ちょっと」
久美の声は細く、まるで数日何も食べていないかのように掠れていた。
その「口当たりの優しい、冷たいもの」という注文と、衰弱した顔つき。
それは、伊織にとって、妻が最後に病院で望んだ食事、そして、伊織がその願いを叶えてやれなかった、過去の記憶と完全に重なった。
伊織は、まるで遠い過去の幻を見ているかのように、久美から目を離せない。
「冷たいもの……はい」
伊織はかろうじて声を絞り出し、冷蔵庫から新鮮な帆立と、畑で採れたての瑞々しいトマトを取り出した。
伊織が作り出そうとしたのは、胃に負担をかけず、それでいて生命力を優しく呼び覚ます、冷たい一皿。
彼はまず、乳白色に輝く新鮮な帆立の貝柱を、水気を丁寧に拭き取った。
その指先は、まるで赤子の肌に触れるかのように慎重で、久美の「口当たりの優しい」という言葉をそのまま形にしようとしている。
伊織は、研ぎ澄まされた柳刃包丁を静かに構え、帆立の繊維を断ち切らぬよう、向こうが透けるほどの薄さに切り始めた。
薄く、花びらのように並べられた帆立は、照明を受けて微かに光沢を放ち、その淡い甘みが舌に触れる様子が想像できた。
次に、伊織は皮を湯むきした露のような瑞々しい赤のミニトマトを手に取った。
これを極細に刻み、少量のレモン果汁と、結が畑で摘んだばかりの柔らかなディルと和えるつもりだった。
その爽やかな香りは、衰弱した久美の嗅覚をそっと刺激するだろう。
しかし、手に持ったナイフが、わずかに、しかしコントロール不能な震えを始めた。
帆立を薄切りにする一瞬、伊織の脳裏に、妻の日に日に細くなる手首がフラッシュバックする。
トマトを刻むたびに、彼女の熱に浮かされた顔が浮かび上がる。
伊織は、呼吸を乱した。
愛する人が衰弱し、食欲を失っていく傍らで、料理人として何もしてやれなかった無力感。
その時、伊織は、妻の最後の食事が、体に負担をかけない冷たく優しいオードブルであればと、何度も試作した。
しかし、彼女の生命力が尽きるまで、その一皿は完成しなかった。
伊織は、半分だけ切られた帆立、刻まれずに残ったトマトを前に、完全に固まってしまった。
「伊織さん……?」
結が思わず声をかける。
伊織は、結にすら気づかないほど深く過去に沈み込んでいた。
彼の目は、目の前の食材ではなく、妻を救えなかった悔恨の念に釘付けになっている。
この客の注文は、伊織にとっての過去の痛みの核。
愛する人を救うために作ろうとして、時間切れとなり、永遠に完成を迎えなかった料理。
結は、その光景を一瞬で理解した。
伊織の手が止まったのは、このオードブルこそ、「愛する人を救えなかった、未完のオードブル」そのものだったからだ。
結は、伊織の静かな動揺を前に、無言で伊織の横に滑り込んだ。
彼女は、まな板の上の未完の食材を見つめ、伊織のその痛みを、彼に代わって引き受けようと、静かに決意した。




