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よろず料理店 ほろほろ日乗  作者: 枕川うたた


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34/50

第34話 記憶の重みを秘めた、時を閉じ込めた古漬けの味噌漬け

 結の料理は、最高の道具と厳密な手順によって成り立っている。

 しかし、伊織が求める「客の安寧を願う温かさ」は、どのレシピにも、どの計量カップにも記されていない。


「心? 温かさ? それは調理工程のどこに、どれだけの分量で加えれば、再現可能な結果が出るというの? もしそれが最高の料理に不可欠なら、私が信じてきた技術は、一体何だったのか……」


 結は厨房の奥、古びた棚へと手を伸ばした。

 そこには、伊織が代々受け継いできたレシピや記録が詰まっている。

 彼女は、自らの論理が立ち尽くした場所で、店の歴史の中に答えを見出すしかないと感じていた。


 結が棚から見つけたのは、厚い革表紙のノートだった。

 伊織が使うにしては文字が流麗で、行間には繊細な模様が描かれている。


 ノートを開くと、数ページにわたって「出汁の引き方と時間による風味の変化の記録」や、「保存食(漬物や干物)の熟成と分量の緻密な記録」が書かれていた。

 それは、伊織の作る「よろず料理」の根幹となる、時間と熟成の技法を追求した記録だった。

 結は食い入るようにその記録を読み進める。餡を煮詰める時間、砂糖を焦がす一瞬の熱――すべてが過去の記憶を結晶化させたものに見えた。


「この熟成の深さこそが、伊織さんの言う『人生の重さ』の正体……? 過去の記憶を食材に閉じ込める、歳月を封じた、記憶の真髄なのか?」


 結は、かすかな光明を見出したかのようにノートをめくった。

 しかし、奥のページには、レシピとは全く関係のない、誰かの手書きのメモが乱雑に挟まれていた。


 それは、特定の客の注文や、その日の出来事が書かれた短い日記のようだった。

 インクは古く、書かれているのは女性の手癖だ。

 結はそれが伊織のものではないことを直感した。


 結は好奇心と罪悪感の間で揺れながらも、そのメモを読み始めた。


――今日も、あの人は火の前にいる。誰かのために。誰かの胃袋を満たすために。


 誰かを愛で満たせるその手が、私を振り返ることはない。私はただ、この店の隅で、湯気となって立ち上る誰かの喜びを見ている。それは美しいけれど、私にはあまりにも重すぎる。


 私の居場所は、この古い時計台の中に閉じ込められたままだ。動かない針のように、時間だけが過ぎていく。あの人の料理は、まるで私ではない誰かのために作られている。


 結の手が震えた。


 これは、伊織の妻の日記ではないか。

 伊織の料理の「重さ」の源は、客の孤独だけではなかった。

  それは、最も身近な人間に与えてしまった孤独、つまり、彼の料理哲学が犠牲にした、家族との時間の影ではないのか。


「あの人の料理は、私には重すぎる――」


結の心臓が、まるで土鍋の底で煮詰まるように熱くなった。


伊織の言う「人生の重さ」とは、誰かの喜びの裏側にある、誰かの痛みのことだったのだ。



 その日、「よろず料理店」に、長距離トラックの運転手、鉄雄てつおが入ってきた。

 彼は極度の疲労に顔を歪ませ、何かを諦めたようにカウンターに座った。


「すまねぇ、何も思いつかねぇ。酒の肴になる、静かなもんをくれ」


 結は、伊織に代わって厨房に立った。

 頭の中で、「時間の重み」と「誰かの痛み」という言葉が、渦潮のように渦巻く。


 結が選んだのは、「古漬けの味噌漬け」だった。


 彼女は、伊織のノートで見つけた、何年も寝かせて色濃くなった糠床へと向かった。

 蓋を開けると、ふわりと立ち上る発酵臭は、店の歴史そのもののようだった。

 結は、深々と眠るように沈み込んでいる大根の古漬けを、まるで宝物を扱うように丁寧に取り出した。

 それは、塩分によって水分を全て絞り切られ、琥珀色に硬く、長い時間の重みを宿し、時間の結晶と化していた。


 結は、その古漬けの表面に残る塩気と糠を、清らかな水で優しく撫でるように拭き取った。

 水分を丁寧に切られた大根は、結の指先に、過去の人生の硬い芯を触れさせるようだった。

 そして、伊織が代々受け継いできた、深みのある茶色に輝く濃醇な合わせ味噌を用意する。

 味噌は微かにこうじの甘い香りを放ち、古漬けを優しく受け入れる準備ができていた。


 古漬けを味噌の中にそっと沈め、結はしばし待った。


 結はタイマーではなく、手のひらで古漬けの硬さを確かめた。

 そのわずかな弾力、味噌が染み込んでいく速度を、彼女の鋭敏な指先と、初めて芽生えた情緒的な感覚が捉えようとする。


 そして、鉄雄の疲労し、何も考えられない顔を脳裏に描き、「これ以上、何も考えなくていい」という安寧のメッセージを込めるように、優しく、しかし確信を持って古漬けを味噌から取り出した。


 味噌漬けを薄く切り、皿に盛る。

 それは、濃い茶色と白のコントラストが美しい、一見して何の変哲もない漬物だったが、その一切れ一切れに、何年もの沈黙と優しさが染み込んでいた。


 結が皿をカウンターに出すと、鉄雄は無言でそれを見つめた。薄切りにされた味噌漬けの表面は、漆黒に近い濃い茶色で、まるで夜のハイウェイのようだった。


「静かなもん、ね……」


 鉄雄は、細く切られた一切れを箸で掴み、ゆっくりと口に運んだ。


 瞬間、彼の疲労しきった体が一瞬硬直した。


 まず鼻腔を抜けるのは、発酵の深い香りだ。

 それは熟成された醤油のような旨味と、微かな酒粕のような芳醇さを伴っている。

 そして、噛んだ瞬間に「シャク」と鳴る、硬く、しかし心地よい古漬けの歯ごたえ。

 塩気は穏やかで、その後に追いかけてくるのは、何年もかけて角が取れた、まろやかな味噌の甘味と旨味だ。


 それは、まるで人生の苦渋を全て煮詰め、最後に優しさで包み込んだような味だった。


 鉄雄は、ゆっくりと目を閉じた。


 長距離運転で凝り固まった思考と、孤独で重くなった胃袋の奥底に、その「時間の結晶」がじんわりと染み込んでいく。

 味噌漬けの濃い旨味は、彼の「何も思いつかない」空虚な心に、無理に何かを詰め込むのではなく、ただ「これでいい」という静かな肯定を与えた。


 彼は、目つきの奥に張り付いていた、乾いたアスファルトと眠気との闘いの光景が、静かに溶けていくのを感じた。

 一口ごとに、孤独なトラックのキャビンで張りつめていた彼の筋肉が緩み、胃袋の奥底にあった鉛のような重さが、湯気となって消えていく。


「ああ……」


 彼は、思わずため息のような声を漏らした。

 それは、疲労から解放された安堵の声だった。

 彼の全身が、この一切れの漬物が秘めた「静かに受け止めてくれる、時間の揺りかご」に身を委ねているようだった。


 鉄雄は、ようやく冷やされた日本酒に手を伸ばし、ちびりと一口含んだ。

 その冷たい感触と、味噌漬けの奥深い旨味との静かな呼応。彼はもう急いでいない。

 一本一本の漬物を、静かに人生の長い道のりを噛みしめるように、丁寧に味わい尽くした。


 皿が空になる頃には、鉄雄の顔色はまるで別人のように落ち着き、目元のクマすら薄くなったように見えた。

 彼は、深く息を吐き出すと、結に向かって背筋を伸ばし、わずかに頭を下げた。


「ごちそうさん。……静かな、いいもんだ」


 その一言には、長旅の疲れが全て洗い流されたような、清々しい感謝が込められていた。

 彼の表情は、疲労の色が完全に消え去り、明日への出発に際して心の燃料を満たした者の、穏やかな充足感に満ちていた。


 鉄雄は静かに立ち上がり、勘定を済ませると、カウンターを降りた。


 その背中は、店に入ってきた時のような「何かを諦めた重さ」ではなく、古漬けの持つ硬い芯のように、確かな意志を宿しているように見えた。

 彼は、結に二度目の短い会釈をし、外の薄闇へと消えていった。


 結は、空になった皿の微かな光沢を見つめた。

 彼女が今まで絶対としてきた「再現性の論理」は、目の前で静かに崩壊している。

 タイマーも、正確な分量も、この客の心の奥底に触れた「結果」を説明できない。


 彼女の指先には、まだ古漬けの硬さ、味噌の微かな冷たさが残っている。


 結は、論理では捉えきれない計算外の温かさの前に、ただ静かに立ち尽くしていた。

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