第3話 勇気をくれた屋台のラーメン
「私は、ここで、その心を読む料理を学びたい」
結がそう宣言し、伊織に弟子入りを請うてから、三日が経った。
結は伊織の指示通り、住み込みで店の雑用と接客の手伝いをしていた。
しかし、メニューがないこの店では、結がフレンチで学んだ知識はほとんど役に立たない。
むしろ、「いかに完璧に仕事を捨てるか」という禅問答のような日々だった。
厨房に立つ伊織の静かな所作を観察するのが、結の唯一の修行だった。
伊織は客が入ってくるたび、結にはわからない、ごくわずかな仕草、話し方、身につけているもの、そのすべてを瞬時に読み取り、料理の方向性を決めていく。
「結。客の心を読むとは、魔法じゃない」ある日の夕方、伊織が静かに言った。
「それは、客が発するすべての情報を、静かに拾い集めることだ。料理人なら、包丁を持つ手を止めて、カウンターの向こう側をよく見ることだ」
その日の夜、結の初めての「聞き役」としての試練が訪れた。
ドアの鈴が鳴り、入ってきたのは、50代後半と思しき男だった。
男は猫背で、清潔だがくたびれた作業服を着ており、大きな商店街の屋号が縫い付けられていた。
この辺りの電気屋の店主だろうか。
彼は無言でカウンターの一番奥に座り、何も注文しなかった。
ただ、うつむいたまま、結が差し出した冷たいお茶を両手で包んで温めていた。
「いらっしゃいませ」結は、できるだけ穏やかな声で声をかけた。
「お疲れのようですね。何か、お飲みになりたいものはありますか?」
男はゆっくりと顔を上げたが、結とは目を合わせなかった。
その瞳には深い疲労の色と、長年の諦めのような翳り(かげり)が浮かんでいた。
「いや……別に。なんでもいいんだ。温かくて、腹に溜まるものなら」
「承知いたしました」
結は伊織に視線を送った。伊織はいつものように静かに男を観察していた。
男の肩の作業服には、小さな焦げ跡があった。
手のひらは硬く、電気配線作業でついたであろう無数の擦り傷がある。
そして、茶碗を包む指先は、不自然に震えていた。
伊織はすぐに厨房へ向き直り、結に言った。
「結。今日はあんたが、この客の『日乗』を探ってごらん」
「俺が、ですか?」
「ああ。言葉ではなく、客の身につけている情報、そして今日までの人生から、彼が何を求めているのか、感じ取れ」
結は緊張した。
フレンチのキッチンで、シェフの指示なしに料理を出すことなどありえなかった。
だが、ここは「よろず料理店」。
結は意を決して、男が発するかすかな情報を拾い集め始めた。
【結の観察と推理】
作業服の焦げ跡: 単なる電気屋ではない。配線ミスや、過去の大きな失敗を経験した可能性がある。
手の震え: 肉体的な疲労よりも、精神的な重圧。何か大きな決断を前にしている不安。
無言の滞在: 早く帰りたいわけではなく、この空間に留まりたい、誰かに静かに話を聞いてほしいという欲求。
「腹に溜まるもの」: 満腹感ではなく、満たされた感覚。空虚になった心を満たす味。
結は伊織にそっと耳打ちした。
「たぶん、彼は何か大きな失敗を経験していて、再挑戦するかどうか迷っています。そして、温かいもの……もしかしたら、故郷の味のような、力の湧くものを求めているのでは?」
伊織は初めて、わずかに微笑んだ。
その微笑みは結への評価ではなく、「まだ足りない」という示唆だった。
伊織は、鶏ガラ、ネギの青い部分、生姜を寸胴に入れ、強火にかけた。
ラーメンのスープだ。結はまた驚いた。
味噌汁でもなく、オムライスでもなく、なぜ屋台の定番のようなラーメンなのか?
しかし、伊織の調理は、普通の屋台のそれとは違った。
まず、スープだ。寸胴から取り出したのは、透き通るような黄金色に輝く清湯スープ。
鶏ガラの奥深さに、昆布や椎茸の優しい香りが混ざり、一口飲むだけで心の緊張が解けそうな澄み切った熱気が立ち昇っていた。
スープを濾す網は、絹のように細かく、一滴の油の不純物も許さない。
次に、醤油ダレ。伊織は、何十年も使い込まれた陶器の甕に手を伸ばし、底からごくわずかだけ醤油ダレを掬い出した。
そのタレは熟成され、角が取れ、時間という名の旨味だけが凝縮されているようだった。
伊織は、その醤油ダレを器に入れ、静かに結に言った。
「結。彼が求めているのは、味の再現だけじゃない。その味が伴った時の感情だよ」
そして、伊織は、極細の縮れ麺を茹で始めた。
茹で時間はわずか30秒。
麺が熱湯の中で暴れるのは、その短い時間だけだ。
湯切りは力強く、結が以前見たどの湯切りよりも、迷いがなく、短く、潔い動作だった。
出来上がったのは、黄金色に澄んだスープに、透き通るようなチャーシューと、細麺が沈む一碗。
伊織はそれを男の前に置いた。
男は顔を上げ、ラーメンから立ち上る湯気を浴びた。
「勇気をくれた屋台のラーメンの再現です」伊織が言った。
男は箸を取る手が止まり、スープを一口飲んだ。そして、二口、三口。
「ああ……そうだ。これだ……」
男はすすり泣いた。
「二十年前、俺がこの商店街で店を開くかどうか迷っていた夜……親父に反対されて、もう電気屋の夢を諦めようとしてた夜に、偶然食べた屋台のラーメンだ……」
男は結に目を向けた。
その目には、疲弊した影はもうなかった。
迷いを断ち切った人間の持つ、静かで強靭な光が宿っていた。
「あの屋台の親父は、何も言わなかった。ただ、この短くて、潔い麺を茹でてくれた。長く悩まず、すぐに茹で上げて、すぐに食え、ってな……あの時の俺に必要なのは、長考じゃなく、一瞬の勢いだった。」
結は、鳥肌が立った。
伊織の30秒の湯切りは、この男の人生の決断のタイミングを再現していたのだ。
男は静かにラーメンを完食すると、深い息を吐き、立ち上がった。
彼は会計を済ませると、結に向き直り、深く、一度だけ頭を下げた。
その背筋は来店時とは比べ物にならないほど伸びていた。
「決めたよ。俺は、もう一度、夢だった新しい電気機器の修理技術に挑戦する。失敗しても、このラーメンを食いに来れば、また立ち上がれる」
男はそう言って、確固たる足取りで店を出て行った。
結は伊織に尋ねた。
「どうして、彼の過去の出来事まで分かったんですか?」
伊織は、結が観察していた焦げ跡のある作業服を指差した。
「彼の服の焦げ跡は、新しいものじゃない。そして、その焦げ跡は、半田ごてのミスだ。挑戦をやめてしまった彼の指先が、その決断を後悔しているように震えていた。必要なのは、『決断は短い方がいい』という後押しだった」
伊織は結に、「料理とは、客の過去と未来を、その一皿で結びつけることだ」と教えた。
結は、自分が学ぶべきことは、包丁さばきでも、ソースの知識でもなく、人間そのものを深く理解することだと悟った。
そして、静かにカウンターを拭きながら、新しい「聞き役」としての自分の役割に、静かな情熱を燃やし始めた。