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第26話 完璧な欠陥、不揃いの唐揚げ

 前日の良子への「熱すぎるチャウダー」の一件以来、結は深く反省していた。

 伊織に叱責された「他人の人生に介入する傲慢さ」という言葉が、今も耳から離れない。

 伊織が金継ぎのように、割れたものを受け入れ、静かに寄り添うのに対し、自分は過去の挫折の焦りから、他者の傷を力ずくで埋めようとしていた。


(伊織さんは、どうしてあんなにも、他者の欠落を静かに受け入れられるんだろう…)


 結は、伊織の「許し」の深さを理解するために、彼の料理を、そして彼自身を、より深く観察しようと決意していた。


 その日の午後、一人の男性客が店を訪れた。

 年齢は四十代後半だろうか。


 上質なスーツを身につけ、背筋はピンと伸び、その眼光は鋭い。店内に入るなり、彼は壁や天井、窓枠の隅々にまで視線を走らせ、まるで店の構造を解析するかのように観察している。


 彼の名は篠原しのはら

 著名な建築家で、その作品は常に「完璧な機能美」と「一切の無駄を許さない精緻さ」で評価されていた。


 篠原はカウンターの中央に座ると、メニューのないことに一瞬眉をひそめたが、すぐに結に真っ直ぐな視線を向けた。


「私は、完璧な調和を求めます。料理にも、一切の欠陥や妥協がないことを望む」


 篠原の言葉は、まるで彼自身の信念を表明しているかのようだった。

 結は、この言葉が伊織の過去の痛みに深く関わるテーマだと直感し、息を呑んだ。

 

 伊織は篠原の言葉に動じることなく、静かに頷いた。

「承知いたしました」


 伊織が準備を始めたのは、意外にも鶏の唐揚げだった。


 唐揚げは身近な料理だが、その「完璧」はシビアだ。

 すべての塊が均一な黄金色に揚がり、衣はサクサクと軽く、中はどこを噛んでも均一にジューシーでなければならない。


 伊織は、まず大ぶりの鶏モモ肉の塊をまな板に乗せた。

 通常であれば、火の通りを均一にするため、肉の繊維を断ち、完全に同じサイズにカットするはずだ。

 しかし、伊織はあえて三つのサイズに切り分けた。

 一つは小指の先ほどに小さく、一つはゴルフボール大、そして一つは手のひらに乗るほどの大きな塊だ。


 そして、下味の段階。

 彼は醤油、酒、ニンニク、ショウガを混ぜたタレに肉を漬け込むが、ここでもまた、大きな塊にはあえて浅く、小さな塊には深くタレを絡ませた。


 衣付けの段階。

 片栗粉がまぶされると、小さな塊は粉を均一にまとい、カリカリになる準備が整う。一方、大きな塊は、粉が乗りきらず、肉の濡れた部分がわずかに露出している。


 伊織は、二つの寸胴鍋に油を用意した。一つは150℃の低温、もう一つは180℃の高温だ。


 まず、すべての塊を低温の油に静かに投入する。

「ジュワァ…」という優しく落ち着いた音と共に、肉は熱に包まれ、内部までゆっくりと火が通っていく。この段階で、伊織は肉の厚みと油の温度を完全にコントロールし、「中心の均一な火入れ」という完璧な技術を披露した。


 そして、仕上げの二度揚げ。ここが、伊織が「均一性を崩す」本質的な工程だった。


 彼はまず、小さな塊と中くらいの塊だけを高温の油に投入した。

「チリチリ!」と音は激しくなり、衣の水分が一気に蒸発し、瞬く間に黄金色に輝き始める。


 そして、大きな塊だけを、わずかに遅らせて高温油に投入した。その時間は、他の塊よりも約10秒短い。


 その10秒の差が、決定的な違いを生む。

 小さな塊は、衣が完全に乾燥し、まるでガラス細工のようにサクサクとした食感になる。

 一方、大きな塊は、外側は香ばしいものの、衣の内部の水分がわずかに残り、舌に心地よい「しっとり」とした重みを与えるのだ。


 皿に盛りつけられた唐揚げは、料理店のカウンターで出すにはあまりにシンプルで、しかしその盛り付けには明確な意図があった。


 カウンターに置かれた唐揚げから、香ばしい醤油と生姜の湯気が、微かに立ち昇る。

 それは、店の静寂を破る、家庭的で力強い匂いだった。


 篠原は静かに箸を取った。

 その動作には、一切の迷いがない。

 彼はまず、一番小さく、最も完璧な黄金色に輝く塊を選び、そっと持ち上げた。

 箸先に感じるのは、衣が持つ宝石のような軽さと硬さだ。


 彼はそれを口に運んだ。

「カシュッ」――。

 歯が触れた瞬間、衣は乾いた音を立てて砕け散り、その直後、閉じ込められていた熱い肉汁が口蓋にジュワッと炸裂した。

 肉は均一に火が通り、完璧な温度だ。

「…衣は薄く、軽い。肉汁は完全に閉じ込められている。最高の出来だ」

 篠原は、技術者としてその完璧さに満足げに頷き、目を閉じて一瞬、その余韻を味わった。


 そして、次に彼の視線が捉えたのは、一番大きな塊だ。

 それは、他のものより色合いがわずかに深く、衣の一部に油が吸い込まれたような、艶のある重さが見て取れた。

 彼の脳内で、この塊はすでに「規格外」としてマークされていた。


 篠原はそれを持ち上げた。

 先ほどの軽やかな塊とは異なり、ずっしりとした持ち重り感がある。

 彼は、その「構造的な不統一」を確かめるように、慎重にそれを口に運んだ。


 噛んだ瞬間、篠原の鋭い眼光が微かに揺らいだ。

 彼の口内で起きたのは、食感の「衝突」だった。

 最初はパリッとした衣の破壊。

 しかし、そのすぐ後に、肉の深部から湧き出る濃厚な旨味と、油の軽やかな残り香をまといながら、肉の繊維に絡みつくような、しっとりとした衣の粘度が広がった。


(欠陥だ。衣の水分が完全に抜けきっていない。これは許容誤差を超えている)


 彼の理性が即座にそう判断を下したが、その肉汁の濃厚な満足感と、深部に残された生姜の香りが、その批判を押しとどめた。

 この複雑なテクスチャーは、単なる失敗ではない。

 まるで、完璧な設計図に、あえて歪んだ柱を組み込んだような、明確な「意図」を感じさせる。


 篠原は、伊織から視線を外さず、ゆっくりと飲み込んだ。

 その表情は、不満でも感動でもなく、困惑と、それに続く静かな探求心だった。

 彼は、自分の信念の根幹を揺さぶられていることに気づき始めていた。


「これは…あえて、二度揚げを調整したのですね。食感が不揃いだ」篠原は静かに問うた。

「ええ」伊織は答えた。

「完璧に均一な唐揚げは、完璧な機械が作ります。しかし、この大小の不揃い、油の抜け具合の不均一さこそが、一皿に立体感と個性を与える。一つ一つが異なる食感を持つことで、この唐揚げは単なる『揚げ物』ではなく、『個性の集合体』となります」


 伊織の言葉は、唐揚げの調理論を超えて、篠原の建築の哲学、ひいては彼自身の人生に語りかけているようだった。


「その『欠落』や『不揃い』を切り捨ててしまっては、この皿には単調な完璧さしか残りません。私は、あえて個々の不完全さを残すことで、全体としての深みを選びました」


 篠原はしばらく無言で、残りの唐揚げを見つめた。

 彼の視線は、皿の上の不揃いな塊ではなく、遠い過去の一点を見つめているようだった。


 篠原は突然、静かに顔を上げた。

 その目には、鋭さよりも、微かな疲労の色が滲んでいた。

 彼の口調は、初めて、建築家としての「設計」ではなく、一人の人間としての「告白」の響きを持っていた。

「私は、欠陥を許しませんでした。私が作った建物は、すべて完璧な線と構造です。しかし…私は、完璧を追求しすぎた結果、私の最も大切なものを欠落させた」


 篠原の最も大切な欠落とは何だろうか?それは、完璧な仕事のせいで失った、家族との時間か、それとも、自分自身への「許し」だろうか。


 結は、伊織の料理の真のテーマが、「自己の過去への許し」であり、「他者の不完全さを受け入れる器の深さ」なのだと感じた。


 伊織は静かに篠原を見つめ、ただ一言、言った。


「その『不揃い』は、その建築家の個性です。それを切り捨ててしまっては、ただの機械になってしまう」


 篠原は、箸を置き、深く息を吐いた。

 彼の指先が微かに震えている。

 彼は、自分が何十年もかけて築き上げてきた「完璧」という名の城に、初めて亀裂が入ったのを感じていた。

 そして、その亀裂から差し込む光が、意外にも温かいことに驚いていた。

 そして、今まで見せたことのない、わずかに力の抜けた表情で微笑んだ。


「…あなたの料理は、私にとって、あまりに不揃いで、そして、あまりに味わい深かった。感謝する」


 彼は代金を支払い、店を後にした。

 去り際の背中は、来店時のような鋭さではなく、どこか肩の力が抜けた、自然なものに見えた。


 結は伊織を見つめていた。

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