第25話 他人の人生を生きようとした、熱すぎるチャウダー
伊織の秘密を、金継ぎの茶器と錆びたフライパンのモチーフから知って以来、結は静かな決意を固めていた。
伊織が亡き妻との「割れた絆」を料理で修復し続けるように、自分も彼の店を、彼の「優しさ」を、支えようと。
しかし、その決意は、結自身の過去の挫折と、自己を肯定したいという焦りと密接に結びついていた。
他人の痛みを修復することで、自分の過去の失敗を償おうとする、熱すぎる使命感だった。
その日の昼過ぎ、良子という女性客が来店した。歳は結より少し上で、洗練されているが、どこか疲れた様子の服装だった。
彼女は窓際の席に座り、結に視線を向け、低い声で尋ねた。
「何か、すごく優しくて、でも少し濃厚なものはありますか。東京での生活に、ちょっと疲れてしまって……」
結は、その言葉を聞いた瞬間、凍りついた。
東京での生活に疲れた…
それは、結自身が都会の華やかなフレンチの現場を自ら辞めたときの、あの「未来への絶望感」と酷似していた。
彼女の心臓は激しく波打ち、目の前の良子と、傷ついた自分が二重写しになった。
「はい。承知いたしました」
結はいつになく強い口調で答えると、反射的に、伊織の「優しさ」のレパートリーの中でも、特に心が安らぐように工夫された「牡蠣と地野菜のチャウダー」を思い浮かべた。
伊織は、客の要望に応えるべく、静かにチャウダーを作り始めた。
まず、質の高い牡蠣と、甘い玉ねぎを、焦がさないよう丁寧にバターで炒める。
バターは、風味を出すためだけでなく、具材一つ一つを「優しさ」で包む被膜の役割を果たしていた。
彼は次に、地元の新鮮な生乳を加え、時間をかけてゆっくりと煮詰めていく。
小麦粉でとろみをつける際も、ダマ一つ作らず、チャウダーの表面が鏡のように滑らかで、それでいて口に入った瞬間に抵抗なく溶け去る、完璧な「中庸の粘度」を目指した。
仕上がったチャウダーは、濃厚でありながら、海の滋味と乳製品の奥ゆかしい甘さが、静かに心を撫でるような一品だった。
熱さも、体が一番安らぐ人肌よりわずかに温かい温度で保たれていた。
それは、伊織の料理哲学そのものである、「静かな包容力」を体現していた。
しかし、結は、そのチャウダーが持つ静けさが、目の前の良子の「激しい孤独」に負けてしまう気がしてならなかった。
彼女のトラウマがそう叫んでいた。もっと強烈な、立ち直るための衝撃が必要だと。
伊織が結に器を渡そうとしたとき、結はその衝動に抗えなかった。
「伊織さん、すみません、これだけ加えさせてください」
結はそう言って、カウンターの下に隠してあった、彼女が個人的に愛用している強い風味を持つトリュフオイルの小瓶を取り出した。
そのオイルは、存在感が強すぎて、伊織の店では使われることがないものだ。
結は、伊織の完璧なチャウダーの上に、躊躇なく数滴垂らした。
金色のオイルが、ミルク色のスープの上に自己主張の強い香りの波紋を広げ、伊織が止める間もなく、良子の前に運び、テーブルに置いた。
「あの…これは、特別なオイルです。とても香りが強くて、疲れた心に喝を入れてくれますから。きっと、立ち直るきっかけになりますよ」
結は笑顔でそう告げたが、その声は熱を帯びすぎていた。
まるで、自分の過去の傷を、この女性の料理で治そうとしているかのようだった。
良子は、その熱意に圧倒され、困惑した表情でチャウダーを見つめた。
チャウダーからは、伊織が意図しない、刺激的で自己主張の強いトリュフの匂いが立ち昇っていた。
良子は、小さなスプーンを手に取り、ミルク色のスープの表面に広がる黄金色の油膜を一瞬ためらいながら見つめた。
一口すすると、伊織が完璧に調整した体温よりわずかに温かい温度が喉を滑り落ちる。
しかし、直後、チャウダー本来の牡蠣の滋味や玉ねぎの甘さといった静かな優しさは、トリュフオイルの暴力的ともいえる強い香りによってかき消された。
良子の心は、まるで静寂を求めていた図書館に、突然、大音量の音楽が流れ込んできたかのような衝撃を受けた。
彼女が求めていたのは、全てを忘れさせてくれる無関心な温もりだったのに、この香りは「どうしたの?早く元気を出して!」と、詮索するような、厚かましい介入のように感じられた。
良子の表情に微かな強張りが走る。
スプーンを置くと、彼女は目を閉じて小さな息を吐いたが、それは感動の息ではなく、外部からの圧力に耐えるための一瞬の防御だった。
結がカウンター越しに放つ「早く立ち直ってほしい」という熱い視線が、チャウダーの香りと合わさり、良子の肩に重くのしかかった。
彼女は、この料理を義務のように感じ始めていた。
提供者の強い善意を無碍にできないという義務感が、食欲よりも勝ってしまったのだ。
彼女は、一口ごとに「美味しい」という自分自身への演技を強いられているように感じた。
彼女はチャウダーを半分ほど食べたところで、静かに手を止めた。
もはや、疲れた心に栄養を注ぎ込む行為ではなく、自己肯定を強いられる拷問に近いものになっていた。
窓の外の、ぼんやりとした冬の空を見つめるその顔には、結が期待した「立ち直った」という前向きな光ではなく、ただ諦めと、再び 疲弊した色が深く刻まれていた。
伊織の低い声が、結の背後で響いた。
「結、ちょっと来い」
伊織は結を裏の厨房へ連れて行くと、普段の穏やかさからは想像できない、鋭い怒気を込めた目で結を見据えた。
「お前は何をした」
結は動揺しながらも、反論した。
「彼女は私と同じでした。疲れて、絶望していて。だから、私はもっと強烈な温かさ、立ち直るための衝撃が必要だと思って…」
伊織は結の言葉を遮った。
「お前が加えたのは、優しさか?違う。お前がチャウダーに注いだのは、お前の満たされない過去だ。他人の人生の皿の上に、お前の救済を押し付けたんだ」
「…え?」
「優しさとは、熱で相手を焼くことじゃない。ましてや、他人の人生を生きようとすることじゃない」伊織は低い声で続けた。
「お前はあの女性を救おうとしたんじゃない。過去の自分自身を、あのオイルの強引な香りで包み、忘れさせようとしただけだ。それは、相手の傷を尊重しない、熱すぎるチャウダーだ」
伊織は結に、出汁の入った鍋を指差した。
「俺の料理は、金継ぎと同じだ。割れた部分を黒い漆で隠すんじゃない。金色の線で、静かに、静かに繋ぐだけだ。その割れ目が、その人自身の歴史だと認めて、静かに温めてやるんだ」
「お前は、熱湯をかけて、無理やりその割れ目を埋めようとした。人の心は、そんな乱暴なことをされたら、二度と開かなくなる」
結は、伊織の厳しい叱責と、自分の行動がもたらした良子の困惑した表情を思い出し、言葉を失った。
伊織の「優しさ」は、静かな受容と境界線の上に成り立っている。
それに比べて、自分の行動は、傲慢な介入だった。
結は深く頭を下げた。
「…申し訳ありません。私、自分を客観視できていませんでした」
伊織は怒りを収め、静かに結に言った。
「料理人は、客の人生の脇役に徹しろ。主役は客だ。客が、そのチャウダーの温かさから、自分自身の力で立ち上がるのを、ただ静かに待つのが、俺たちの仕事だ」
結は、伊織の言葉を心に刻んだ。
伊織の料理の「金色の線」は、割れた破片を無理に一つに戻すのではなく、割れたままの美しさを認めることだった。
結は、自分が過去の挫折による焦りから、他者の人生を支配しようとしていたという、最も重い真実を突きつけられた。
この叱責は、結にとって、伊織の過去を知ること以上に、自分自身を見つめ直す大きなきっかけとなった。