第24話 割れた絆を修復する、金継ぎのような繊細な出汁茶漬け
昼の営業を終え、結は店の奥にあるほとんど使われていない古い倉庫の整理を任された。
伊織の過去を知る手がかりがあるかもしれない、という期待が、埃まみれの作業を突き動かしていた。
倉庫の中は、使われなくなった調理器具や、古びた食器、在庫のダンボールが雑然と積み重ねられており、時間が止まったかのような静寂と、カビと鉄の匂いが充満していた。
結は奥に進むにつれて、ふと、棚の隅に立てかけられた、ひときわ重厚な道具に目を留めた。
それは伊織が今使う洗練された和包丁や銅鍋とは全く異なる、重く、柄の長い鉄製のフライパンだった。
錆びてはいるが、元は一流の料理人が愛用していたであろうそのフライパンの柄には、細かな装飾が施されていた。
よく見ると、柄の末端部分に、繊細な手彫りのモチーフが刻まれている。
それは、まるで二つの円が重なり合い、その交点に小さな花が咲いているような、複雑で美しい意匠だった。
結は指先でその彫り跡をなぞった。
熱と長年の使用により、モチーフはほとんど擦り切れていたが、その精密さから、これが単なる飾りではないことがわかった。
「これは……誰かと伊織さんをつなぐもの?」
その時、さらに奥の、布がかけられた小さな台の上に、ひとつの木箱が置かれているのを発見した。
結はゆっくりと布を取り払った。
蓋には、筆書きで「ユキ」とだけ書かれていた。
伊織がたまに、寂しげな表情でつぶやくことがあった、亡き妻の名だった。
結は心を落ち着かせ、そっと蓋を開けた。
中には、一点の茶器が収まっていた。
茶器は、侘びた土の質感を持つ楽茶碗で、大切に包まれていたにもかかわらず、高台(こうだい、茶碗の底)の縁が、痛々しいほど大きく欠けていた。
しかし、その欠けは黒い漆ではなく、金色の線によって、完璧なまでに修復されていた。
結は息を呑んだ。金継ぎ(きんつぎ)が施されたその茶碗は、割れた痕跡を隠すのではなく、むしろ誇張することで、一層の美しさと歴史を纏っていた。
そして、彼女の視線は、茶碗の胴に描かれた文様に釘付けになった。
欠けた部分から立ち上がり、金色の線で繋がれた茶碗の表面に、かすかに描かれたそのモチーフは、先ほどフライパンの柄に刻まれていた意匠と、寸分違わず完全に一致していた。
二つの円と、交点の小さな花。
(これだ……!)
結の心臓が激しく脈打った。
錆びたフライパンは、かつて「一流の料理人・伊織」が戦場としていた厨房の象徴。
そして金継ぎされた茶器は、伊織の「大切な人」、ユキさんが使っていたもの。
それは、伊織が料理の道から退き、「優しさ」の和食店を営む理由、そして胸の奥に秘めている悲劇の決定的な証拠だった。
彼らは、あのモチーフを共有する「一対の魂」だったのだ。
この茶碗が金継ぎされているように、彼らの絆は一度壊れた。
そして伊織は、その「割れた絆」を、この店で、毎日繊細に修復し続けている。
結は、重い真実を知ってしまった衝撃で、しばし動けなかった。
その日の夜、伊織は、常連客が「静かに締めたい」と告げたのを受け、「鯛の出汁茶漬け」を用意することにした。
「割れたものには、力を加えない。ただ、優しいもの、温かいもので、そっと包み込むだけだ」
伊織は結にそう説明しながら、丁寧に茶漬けを作り始めた。
彼がまず取り出したのは、料理の基盤となる出汁。使用するのは、ミネラルを多く含む軟水。
そこに厳選された大分産の肉厚な干し椎茸と、北海道・羅臼産の濃い旨味を持つ昆布を静かに沈める。水から極めてゆっくりと、時間をかけて温度を上げていく。温度計を見つめる伊織の目は、研ぎ澄まされていた。
伊織さんの指先から、熱が伝わっている。それはまるで、壊れた陶器の破片を、元の場所へそっと戻す金継ぎ師の手つきだ、と結は感じた。
沸騰寸前、椎茸と昆布の輪郭が溶け出すギリギリの60℃から70℃の間の間で、彼は迷いなく火を止めた。
抽出された出汁は、水そのものと見紛うほど圧倒的に澄んでおり、一口含むと、最初に感じるのは雑味のない甘さ。
そして時間差で、羅臼昆布の奥深い滋味と椎茸の奥ゆかしい香りが、静かに喉の奥に広がる。
それは、「完璧な透明感を持つ旨味」だった。
具材は最小限に絞る。
天然の鯛の切り身は、薄く塩を振り、一晩昆布で締める(昆布締め)ことで、余分な水分が抜け、旨味が凝縮されている。
それを表面だけをさっと藁の炎で炙り、香ばしい皮目と、生のまま残るしっとりとした身の対比を生み出す。
そして、香りの柱となるのが、香りの強い上質な金ごま。
それはまるで、修復に使う黄金の粉のようだった。
さらに、清涼感を与える三つ葉を少量刻む。
ご飯は、粒立ちの良い新米を少し硬めに炊き上げ、茶碗の中で米粒一つ一つが独立している状態を保つ。
その上に、炙り鯛、三つ葉、そして金ごまを、色彩のバランスを考えながら丁寧に散らす。
そしてクライマックス。伊織は出汁を再度、人肌よりもわずかに温かい完璧な温度に調整する。
「優しく」—その一言を胸に、彼は出汁を、具材とご飯の周縁から、静かに、円を描くように注ぎ込んだ。
出汁は、茶碗の底へ向かい、一瞬で米粒の隙間を巡り、ふわりと持ち上げる。
立ち上る湯気は、優しく、甘く、そしてどこか懐かしい香りを運んできた。
その香りは、破壊の痕跡を包み込み、再生の予感に満ちていた。
客の前に出された出汁茶漬けは、見た目こそシンプルだが、金ごまの黄金の粒子が出汁の中でキラキラと輝き、まるで欠けた茶碗の金 継ぎの線のように、すべての食材を静かに、力強く繋いでいた。
茶漬けは、温かさ、優しさ、そして完璧な調和の味だった。
それは、伊織が亡き妻との「割れた絆」を、この店で、この料理を通して、毎日懸命に修復し続けていることを、結に強く教えてくれた。
結は、伊織の誠実さを信じ、この秘密を胸に秘めたまま、彼の行動を見守ることを選んだ。
「伊織さん、洗い物を代わります」
結のその声は、今まで以上に静かで、強い決意を秘めていた。
結は、亡き妻の茶器のモチーフが刻まれた、錆びたフライパンの重さを知ってしまった。