第23話 雑音のない色を求めて
前日の出来事が、結の頭から離れることはなかった。
剣三郎という謎の男、そして伊織が垣間見せたトップシェフの「顔」。
あの時の、寸分違わぬ酸味と甘さの均衡は、和食を出す今の伊織の「優しさ」の奥に、依然として「他者を圧倒する完璧さ」が潜んでいることを結に教えていた。
その完璧さは、料理の場においては「静寂」という形で現れるのだろうか。
昼下がり、店に一人の客がやってきた。
彼は、手には使い古されたスケッチブックを持っているが、表情は暗く、そのスーツには疲れが滲んでいた。
「いらっしゃいませ……」結が声をかけると、客は小さく会釈をした。
「すみません、この店は、静かだと聞いて……」
客はカウンターの端に座り、自分の名を優作と名乗った。
彼は有名な若手画家だったが、最近はスランプに陥り、筆が動かなくなってしまったという。
「優作先生の絵は、生きた色を持っているのに、どうしてですか?」結は純粋に尋ねた。
優作は、カウンターに肘をつき、ため息をついた。
「見えなくなったんだ。純粋な色が。世の中の音や情報が、あまりにも多すぎる。全てが混ざり合った『雑音』にしか見えない。だから、描けない。あの静かな白、あの完璧な赤……どこにもない」
結は、彼の言葉を聞きながら、伊織の料理を連想した。
(優作さんが求めているのは、世の中の喧騒や雑味を全て削ぎ落とした、『完璧な静寂』だ。伊織さんの料理なら、きっとそれが作れる)
結は伊織にそっと近づき、画家の話した悩みを伝えた上で、静かに問いかけた。
「伊織さん。彼のために、雑音のない色を持つ料理は作れませんか?全てを無に帰し、純粋な情熱だけを映すような…」
伊織は、結の言葉に目を細め、一瞬、遠い過去を思い出すような表情をしたが、すぐに頷いた。
「わかった。透明なゼリーと、静かな白いソースの魚料理だ」
伊織の調理が始まった。
彼が最初に取り掛かったのは、この料理の魂、魚の出汁だった。
彼は、和食の定石である昆布や鰹を一切使わず、選りすぐりの新鮮な天然ヒラメのアラと骨のみを使う。
加えて、出汁の輪郭を損なわないよう、玉ねぎやセロリといった香味野菜は、わずか香り付けの極少量に留めた。
大きな鍋に水とヒラメの骨を入れ、最も重要な作業、温度管理が始まった。火は、鍋の底で微かに揺らぐか揺らがないかという、究極の弱火。
アク抜きは、一瞬の勝負だ。
伊織は、温度計を使わず、鍋の縁に現れるごく微細な泡のサインを頼りに、その熱を自分の肌で感じ取るかのように調節し続けた。
一度でも煮立たせれば、骨髄や魚の脂が乳化し、出汁は白濁し、雑味が生まれてしまうからだ。
静かに浮き上がってくる脂や不純物を、彼は毛先の細い刷毛で、一滴の揺らぎも与えずに慎重にすくい取る。まるで、水面から「雑音」を掬い取っているかのようだ。
やがて出来上がったブイヨンは、熱いにも関わらず、まるで透明な湧き水のようだった。
それは、ガラス細工のように完璧に澄み切った、魚の命のエッセンス。結は思わず息をのんだ。
(雑味がない……!こんなにクリアな出汁は初めてだ。これは、味の主張がないのではなく、『究極の静寂』を求めているんだわ)
そして、ブイヨンを寒天で固める工程に移る。その寒天は、まるで水そのもののように透明だった。
結が驚愕したのは、次に伊織が取り掛かったソースだった。
和食の概念にはない、濃厚な白いソースだ。
彼は、豆乳と、極めて上質な白味噌を少量の米粉で慎重につないでいく。
この白いソースのポイントは、「甘さ」や「塩気」が前に出ることなく、口に入った瞬間に「白」という色の概念だけを残して消えることだった。
伊織の動きには、前日のフランス料理のような華麗さや攻撃性はない。
しかし、一ミリの誤差も、一滴の油の濁りも許さない、鋼のような精密さがあった。
「伊織さん……それは、『完璧』を求めていますね」結は思わずつぶやいた。
「料理の『静寂』を完成させるには、全てを制御しなくてはならない。余計な味は、全て『雑音』だ」伊織は静かに答えた。
皿の上に供された料理は、その名に偽りなかった。
透明なゼリーは、器の中で「無」を主張し、その隣に添えられたヒラメの切り身を優しく包む白いソースは、「完璧な静寂の白」を表現していた。
まるで、静謐な雪景色を切り取ったかのような、緊張感のある美しさだった。
優作は、自分の求める「純粋な色」がこの店で見つかる可能性に、僅かながら期待を抱きつつも、長年のスランプによる諦念から、ほとんど無感動にスプーンを握った。
震える手で、ヒラメの切り身と、それを優しく包む完璧な白のソースを掬い、ゆっくりと口に運んだ。
ソースは、温度と舌触りだけを微かに伝える。
口に入れた瞬間、その味覚は、これまでの全ての情報や刺激を拒絶するかのように、優作の脳の奥底に溜まっていた全ての「情報」や「刺激」を一斉に拒絶した。
それはまるで、長年鳴り響いていたラジオのノイズが、一瞬で電源を切られたかのような感覚だった。
「……ああ」彼は、息を呑み、震える声でつぶやいた。
味は、概念として立ち上がらなかった。甘さも塩気も、酸味や苦味といった感情的な主張を一切しない。
ただ純粋な「白」という色彩の輪郭だけが、意識の表面にふわりと浮かんだ。
「聞こえない……何も。世の中の雑味が、全て消えた」
優作は反射的に目をつむった。
視覚が遮断されたことで、聴覚と味覚の「静寂」がさらに研ぎ澄まされる。
長年のスランプで張り詰めていた神経が弛緩し、彼は久しく忘れていた「無」の状態に身を置いた。
次に、彼は透明なゼリーを口に入れた。
微かな冷たさが舌の上を滑り、食道の奥へと流れる。
その瞬間、彼の内側に広がっていた濁った灰色の霧が、まるで劇的に照明が当てられた舞台のように、一気に晴れていくのを感じた。
「これは、味がないんじゃない。全てを濾し切った、純粋な『出汁』の味だ……無垢な命の輪郭だ。ああ、これだ」
そのゼリーの透明さが、窓から差し込む午後の光を全て集め、優作の網膜に、今まで失っていた純粋な光の粒子を呼び戻した。
彼は、その「静寂の白」の中に、雪の結晶の鋭利な透明さ、早朝のキャンバスの無限の可能性、そして満月の光の冷たく完璧な孤独といった、無数の「白」が宿っているのを発見した。
伊織の料理は、優作の内側に渦巻く「雑音」を鎮め、彼が再び描くべき情熱の源、すなわち「描くべき色」を、雑音のない状態でクリアに映し出したのだ。
優作は、堪えきれずに目尻から熱い涙を一筋流し、深い感謝とともに伊織に深く頭を下げて店を出た。
彼のスーツ姿は、店に来た時とは打って変わり、何か新しい目的を見つけた者の、静かで揺るぎない熱意に満ちていた。
結は、伊織が洗い物をしている後ろ姿を見つめていた。