第22話 友情と裏切りの味がする、懐かしいフランス料理
前日の佐和子の一件以来、結は伊織の料理の根底にあるのは「忘れたくない記憶の匂い」なのだと確信していた。
しかし、その日の午前、店にはまだ客が一人もいないにもかかわらず、伊織はどこか落ち着かない様子だった。
結に話しかける声も心なしか低く、終始、視線は店の外の通りに向けられている。
「伊織さん、どうかされましたか?どこか具合でも…」
「いや」伊織は短く遮った。「今日は、古い客が来るかもしれない」
古い客。
伊織の過去を知る人物だろうか。
結の胸は、抑えきれない好奇心と、伊織の秘密に触れることへの畏れで高鳴った。
正午を少し過ぎた頃、店の引き戸が静かに開いた。
入ってきたのは、伊織と同じくらいの年齢だろうか、しかし着ている上質なスーツと、腰の曲がらない堂々とした立ち姿が、「成功者」であることを物語る老紳士だった。
彼の目は鋭く、カウンターの奥にいる伊織を見据えた瞬間、店の空気が一気に張り詰めた。
「やあ、伊織。まさか本当にこんな『隠れ家』で君を見つけるとはな」
その言葉には、親愛と、かすかな嘲笑が混じっていた。
伊織は、微かに肩を揺らし、深く息を吐いた。
「……剣三郎さん」
剣三郎と呼ばれた老紳士は、カウンター席の一番奥に座ると、結に視線を向けずに言った。
「君の弟子かね?相変わらず、人を選ぶ。さて、伊織。ここで出す『出汁のきいたお茶漬け』は悪くないと聞くが、今日は聞きたいことがある」
彼はテーブルに手を置き、強い口調で言った。
「あの時、君が一番得意だった料理。……あの『味』を、もう一度作ってみろ」
結は息を呑んだ。
伊織が作るべきは、客の心の奥底の願いを具現化した和食ではなかったのか?
伊織は一瞬、目を閉じたが、すぐに表情を「シェフ」のものに変えた。
結に指示を出す声は低く、しかし有無を言わせない確信に満ちていた。
「結。手伝ってくれ。鶏のコンソメと、バターと小麦粉。それからレモンを出すんだ」
伊織の調理は、一変した。
いつもの、繊細で、水滴一つにまで気を配る静かな動きではない。
フライパンを扱う手つきは素早く、大胆で、包丁の入れ方には確固たる自信と、攻撃的なまでの正確さがあった。
それは、和食の料理人というより、戦場を知るトップシェフの動きだった。
伊織はまず、黄金色に輝く鶏のコンソメを仕上げるため、鶏のガラや野菜を丁寧にローストし、アクを丹念に取り除きながら、澄んだ 琥珀色のスープを静かに濾していた。
このコンソメの香りは、和食の出汁とは全く異なり、西洋の深く複雑な滋味を物語っていた。
続いて、鶏肉の準備に移る。厳選された鶏胸肉を、筋を丁寧に外し、完璧な大きさに切り分ける。
伊織は、熱したフライパンに黄金色の発酵バターをたっぷりと落とし、泡立ちのピークを見極めて鶏肉を投入した。
「ジュッ!」という心地よい音と共に、鶏肉の表面は瞬時にバターの香りを纏い、香ばしい焼き色がつく。
伊織は、その表面を均一に焼き付けた後、コンソメを注ぎ、最低限の熱でゆっくりと煮込み始めた。
この煮込みによって、肉の繊維は解け、噛む必要がないほどの驚くべき柔らかさを獲得する。
「君は、相変わらず手際がいい」剣三郎が皮肉めいた口調で言った。「あの時も、才能なら誰にも負けていなかった。だがな、伊織。『純粋すぎる才能』は、時として邪魔になる」
「……俺は、すべてを捨てた」
伊織は鶏肉を煮込む鍋を力強くかき混ぜながら答えた。
「捨てた?違うだろう。君は逃げた。知っているだろう、君がいなくなったあの日から、あの店がどうなったか」
伊織は、最後の仕上げ、ソースに取り掛かった。
彼は新たなフライパンで、ふくよかなバターを溶かし、そこに精製された白い小麦粉を混ぜ込み、瞬く間にルーを作り上げた。バターと小麦粉が混ざり合う、芳醇で甘い匂いが立ち上る。
このルーに、先ほど煮詰めた鶏のブイヨンが少しずつ注がれる。
バターと小麦粉のまろやかさに、鶏の旨味が溶け込み、ソースはまるでシルクのような艶を帯びていく。
その時、店内に充満する香りは、鰹や昆布の香りではなく、贅沢で、人の心を高揚させる華やかなバターとワインの香りだった。
仕上げに、伊織は高品質な白ワインを一差し加え、アルコールを飛ばす。
そして、削ったレモンの皮の爽やかな香りと、絞りたてのフレッシュな果汁を、寸分の狂いもない絶妙なタイミングで投入した。
このレモンの「刺激的な酸味」が、クリームソースの「濃厚なコク」と出会い、完璧な『酸味と甘さの均衡』を生み出す。
この一連の動きは、結が今まで見たどの調理よりも早く、正確で、そして感情的だった。
出来上がったのは、「鶏肉のレモンクリーム煮込み」
伊織が若き日に、コンクールで賞を取ったという、和の食材を使わずに再現したものだ。
剣三郎は、提供された料理をじっと見つめた。
濃厚なクリームソースが、柔らかく煮込まれた鶏肉を包み込み、白い皿の上でかつての伊織の野心を静かに主張しているようだった。
一口、口に運ぶ。
剣三郎の目がわずかに見開かれた。
「変わらないな。この完璧な『酸味と甘さの均衡』。これは、君にしか出せない味だ」
しかし、彼はすぐに顔を険しくした。
「だがな、伊織。何かが足りない。この料理には、君の『飢え』がない。客を圧倒し、全てを奪い取るような、あのギラギラした『裏切りの味』がない」
「…今の俺に、そんなものは不要だ」伊織は顔を上げず言った。
「不要?フッ、君はまだ、あの日、何を裏切り、何に裏切られたのか、分かっていないらしい」
剣三郎は立ち上がった。
「私は君を追いかけ続けるつもりはない。だが、一つだけ覚えておけ。『記憶』は、君がこうして韜晦している間にも、最も大切な人から失われつつある」
その言葉を残し、剣三郎は店の戸を静かに閉めた。
伊織は、テーブルの上に残された、ほとんど手つかずの『ヴォライユ・シトロン(鶏肉のレモンクリーム煮込み)』を、虚ろな目で見つめていた。
その料理からは、成功への野望の匂いと、取り戻せない過去の匂いが混ざり合って漂っていた。
結は、伊織の秘められた人生の複雑さ、そしてその料理の背後にある深い悲劇を悟り、ますます彼の秘密に惹きつけられていくのを感じた。
伊織の優しさは、過去の罪滅ぼしではないだろうか?