第21話 忘却の淵から引き上げる香り
前日の、冷製ポタージュの一件以来、結は確信していた。
伊織の料理は、単に客の注文に応えるのではない。
客自身が気づいていない、心の奥底の願いを掬い上げ、それを料理という形で具現化しているのだ。
夏の陽射しがガラス戸を透過し、カウンターの木肌を照らしていた。
結は、伊織が静かに鰹節を削る音を聞きながら、意を決して尋ねた。
「あの……伊織さん」
「なんだ」
「どうして、客の『心の中の食べたいもの』が、正確に分かるんですか?私にはまだ、その感覚が掴めません」
伊織は手を止め、削りたての鰹節の匂いを深呼吸するように吸い込んだ。
その表情は、いつもの飄々としたものではなく、遠い場所を見つめるような憂いを帯びていた。
「味はな、結。いくらでも誤魔化しがきく。技術で、塩気や甘さを足して、『美味しいふり』をさせることは簡単だ」
伊織は、削り節を鍋に入れる準備をしながら続けた。
「だが、匂いは違う」
彼は結に向き直り、静かな眼差しを向けた。
「匂いは、脳の記憶の中枢に直結している。一瞬で、景色、感情、そしてその時に側にいた誰かを連れてくる。理屈で考える前に、身体が反応する」
結は伊織の言葉を反芻した。匂い。記憶。
「伊織さんが作る料理は、その人の『忘れたくない記憶の匂い』を探し出しているんですか?」
伊織はわずかに目を細めた。
肯定も否定もしない。
ただ、小さな声で、結にだけ聞こえるようにつぶやいた。
「ああ。俺はな、忘れたくない記憶の匂い、それをただ、追いかけているだけだ」
その言葉を聞いた瞬間、結の胸に一本の太い線が引かれた。
亡き妻のイニシャル、錆びたフライパン、そして、伊織の料理の根底にある言い知れぬ寂しさ。
伊織の料理の秘密は、客のためではなく、彼自身が、愛する人の記憶を繋ぎ止めるための儀式なのだと。
その日の午後、店を訪れたのは、佐和子という初老の女性客だった。
彼女は細身の指に古びた指輪をはめ、身なりは小綺麗だが、顔には何かを必死に思い出そうとする焦燥が滲んでいた。
「マスター……私、昔、よく母が作ってくれた朝の台所の匂いが思い出せないんです。いくら再現しようとしても、あの頃の匂いが……。あの頃の温もりを取り戻したいんです」
彼女が求めているのは、特定の味ではない。
「あの頃の温もり」という名の、失われた手触りだった。
結は伊織を見た。
伊織は黙って頷き、結に指示を出した。
「結、今日は最高の昆布と鰹を使え。火加減は極力弱く。そして……厚焼き玉子を焼いてくれ。ただし、客に出す前に少し冷ますんだ」
結は伊織の指示通り、ゆっくりと出汁を取り始めた。水から引き出した昆布の奥ゆかしい磯の香り、そこに加わる鰹節の力強くも繊細な香り。
二つの匂いが混ざり合い、店内に「日本の台所」の核となる芳香が満ちていく。
さらに、結は玉子焼き器の前に立った。
ボウルの中で、黄金色の卵液は丁寧に濾され、そこにとったばかりの熱い出汁がゆっくりと注ぎ込まれる。
この出汁の香りによって、卵の生臭さは消え、代わりに出汁の滋味深い旨味だけが卵の甘さに溶け込んでいった。
玉子焼き器に油を薄く引き、熱を加える。
結が卵液を流し込むと、「ジュッ」という快い音を立て、瞬時に卵がふわりと膨らみ始めた。
結は手際よくそれを奥から手前に巻き込む。
焦がさないよう、優しく、しかし迷いなく。
二度目、三度目と卵液が注がれるたびに、甘く香ばしい、焼けた卵の匂いが、先に満ちていた出汁の湯気と一つになる。
その匂いは、結が知るどの匂いよりも、温かく、柔らかで、懐かしい。
層を重ねるごとに、厚焼き玉子は美しい黄金色の塊となり、その表面はきめ細かく、優しく光を反射していた。
提供されたのは、白い器の純粋な出汁、そして、皿に乗った、湯気の立たない厚焼き玉子。
佐和子は、まず白い器の出汁を一口啜った。
「……ああ」と小さな声が漏れた瞬間、佐和子の目から涙が溢れた。
それは味覚による感動ではない。喉を通った出汁が、脳の奥底にある硬く閉ざされた記憶の鍵穴に、ぴたりとはまった音だった。
口の中には、ひどく純粋で透明な旨味だけが残り、彼女の心に長く居座っていた「思い出せないことへの焦燥」を洗い流していく。
「この匂い……この湯気……」
彼女は涙を拭い、目の前の厚焼き玉子に箸を伸ばした。
玉子焼きは、ふっくらとして、見るからに柔らかそうだ。
箸で割ると、中は淡い黄色で、細かい出汁の泡の跡が見える。
そして、それを口に運んだ瞬間、佐和子の意識は過去へと引き戻された。
「熱くない……なぜ、こんなにも完璧な玉子焼きなのに、熱々ではないの?」
予想していた焼きたての熱さとは全く違う。
外側はひんやりと、肌になじむような冷たさ、そして中心には微かに、命の残熱のような温もりが感じられた。
この温度のコントラストが、彼女の記憶を決定づけた。
「……そう、これだわ」
佐和子の目の前に、古い、木製の窓枠が鮮明に浮かび上がった。真夏でも朝は涼しい、母の台所。
母は焼いたばかりの玉子焼きを、いつも少し急いで、窓を開けたところに数分置いて冷ましていた。
「母はいつも、私たちが火傷しないようにって、玉子焼きを焼いて、一度、窓辺に置いて冷ましてから食卓に出してくれた。私は、いつも熱々の料理が欲しくて、『早く、早く』って急かしていたのに……」
彼女は言葉を詰まらせ、玉子焼きの残りをそっと握りしめるように見た。
「母の愛情は、私が気にも留めなかったこの『ちょうどいい温度』の中にあったのね……。火傷をさせない優しさ、待つことの愛おしさ。私が求めていた『温もり』は、熱さじゃなかった。この人肌の冷たさだった」
彼女が思い出せなかったのは、完璧な出汁の味ではなく、母親の愛情と優しさという「温度」だった。
香りが、その温度を鮮明に再現したのだ。
伊織は黙って、窓の外を見ていた。
結は、伊織の横顔に、初めて「後悔」という文字を読み取った気がした。
(伊織さんが追いかけているのは、亡き奥さんが『ちょうどいい温度』で食べてくれた料理の匂い、なんじゃないか……)
結の目には、伊織の「完璧主義」が、かつては「愛する人を失いたくない」という切実な願いから生まれていたものの、それが叶わなかった今、「忘れたくない記憶の匂い」へと変わってしまっているように見えた。
佐和子は、涙を拭き、スッキリとした表情で店を後にした。
結は、食器を洗いながら、伊織に尋ねた。
「伊織さん。あの玉子焼きの温度も、出汁の取り方も、奥さんの記憶なんですか」
伊織は、何も答えなかった。
ただ、使い込まれたカウンターの上を、ゆっくりと、丹念に拭き続けた。
彼の指先からは、出汁と卵の微かな匂いがした。
その匂いが、彼の心を、忘却の淵から必死に引き止めているように、結には感じられた。