第2話 幼い日のオムライス
翌朝、結は店の奥にある小さな従業員部屋で目覚めた。
目覚めてすぐ、自分の体が温かいことに気づいた。
それは、昨夜の具だくさん味噌汁が体内から放つ熱であり、昨日まで感じていた絶望的な寒気を、わずかだが後退させているようだった。
部屋は狭く、簡素だったが、清潔な布団と磨かれた木材の香りがした。
階段を降りると、伊織はすでにカウンターの中で朝の準備をしていた。
彼の所作は昨日と同じく静かで、水を張る音、包丁を研ぐ音、すべての動作が淀みなく、瞑想のように美しい。
結は改めて、この老人がただの「よろず」を出す店主ではなく、高い技術を持った料理人であることを確信した。
「おはようございます、伊織さん」
「ああ、おはよう」
会話はそれだけだった。
静かに伊織の横に立ち、結は手伝いを申し出る。
伊織は特に指示を出すことなく、カウンターを拭く雑巾と、食器棚の場所を示した。
結はテキパキと仕事を始めた。
一流レストランの経験が染み付いた体は、無意識のうちに完璧な動線と効率を求めた。
しかし、働くうちに、彼のプロの感覚はすぐに大きな違和感に襲われることになる。
「あの、伊織さん」結は戸棚を整理しながら尋ねた。「仕込みは……これで終わりですか?」
店の冷蔵庫は驚くほど整理されていたが、ストックは極めて少なかった。
野菜は鮮度最高のものが少量ずつ、肉や魚もその日の分しかない。
フレンチのように、フォン(出汁)を何時間も煮込む鍋も、大量に切り揃えられた香味野菜もない。
伊織は土鍋に鰹節を入れながら、ちらりと結を見た。「ああ、充分だ」
「しかし、何を出すにしても、ベースの仕込みがないと……メニューがない店だからこそ、様々なオーダーに対応できるよう、多様なフォンやソースの準備が必要なのでは?」
結の疑問は、まさに料理の世界の常識だった。
伊織は静かに鰹節を取り出し、漉しただしを器に注いだ。
「メニューがないのは、用意するものが『食材』だけだからだ」伊織は言った。「うちの客が本当に求めているのは、あらかじめ用意されたソースや技術じゃない。その瞬間に生まれる、二度と再現できないたった一つの味だよ」
結は混乱した。
「二度と再現できない……?そんな非効率な……」
結の心には、料理は「再現性」と「構造」、そして「完璧な計画」で成り立つという鉄則が染み付いている。
伊織の言葉は、その哲学のすべてを否定していた。
午前11時。最初の客がやってきた。
ドアの鈴が鳴り、入ってきたのは30代前半と思しき女性だった。
身なりは清潔で、高そうなビジネススーツに、上質な革のハンドバッグを持っている。
しかし、その顔は疲れでくすんでおり、高級な化粧品でも隠しきれない、心の疲労が滲み出ていた。
彼女はカウンターの一番端に座ると、バッグを膝の上に置き、結に尋ねた。
「あの……メニューはありますか?」
結は反射的に、伊織の言葉を思い出しながら答えた。
「すみません、当店はメニューがなく、その時お客様が一番必要とされている一皿を、店主がご提供しています」
女性は一瞬、眉をひそめた。
苛立ちと、わずかな当惑の色。
「そんな……変な店ですね。とにかく、早くできて、体が温まるものをお願いします。時間はあまりないんです」
「承知いたしました」と結が伊織に視線を送った。
結は、彼女が「体が温まるもの」を求めているのだから、雑炊か、熱い蕎麦か、あるいは昨日の味噌汁のようなものが出るだろうと予想した。
だが、伊織は静かに女性を観察していた。
彼女の爪が美しく整えられていること。
高級なハンカチを握りしめていること。
そして、何よりも、彼女の瞳が遠い何かを探しているように揺れていること。
伊織は冷蔵庫に向かい、卵、牛乳、そして冷や飯、そしてバターを取り出した。
オムライスだ。
結は驚いて伊織を見た。
なぜ、こんな忙しなく、疲弊しきった女性に、手間のかかるオムライスを出すのか。
しかも、オムライスは「早くできるもの」ではない。
伊織は一切の無駄なく、しかし急ぐことなく調理を始めた。
結は、このオムライスこそが、伊織の料理哲学を理解する試金石だと感じ、目を凝らした。
まず、伊織は冷や飯をフライパンに入れ、塩と醤油、そしてごく少量のケチャップで味付けを始めた。
一般的なオムライスの「ケチャップライス」とは全く違う、上品で、どこか懐かしい、海辺を思わせるような香ばしい風味。
「違う……」結は内心でつぶやいた。
フレンチの経験から、この米の味付けは完璧な再現性を無視している。
誰かの記憶にしか存在しない味だ。
次に卵。
伊織は卵を丁寧に溶き、さらに牛乳ではなく、ごく少量の生クリームを加えていた。
卵を熱したフライパンに流し込むと、その手首のスナップは、結が経験したどの職人よりも滑らかだった。
卵はすぐに半熟になり、伊織はそれをヘラで優しく寄せ、あっという間に美しい紡錘形に整えた。
出来上がったオムライスは、フレンチの店で見るような、ソースがたっぷりかかった芸術品ではない。
極めてシンプルで、どこか不器用さすら感じる、素朴な一皿だった。
伊織はそれを女性の前に静かに置いた。
「幼い日のオムライスです」
女性はフォークを取る手が一瞬止まり、オムライスを見つめた。
「オムライス……ですか。こんなシンプルなものを、久しぶりに見ました」
彼女は一口、食べ始めた。
表面のなめらかな卵を破り、中のご飯と絡める。
一口噛んだ瞬間、彼女の瞳が見開かれた。
「この……お米の味……」
彼女の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
ポタポタと、オムライスの皿の上に落ちる。
「これ……小さい頃、家族旅行に行った時、海辺の食堂で父が作ってくれたオムライスの味だ……」女性は嗚咽を漏らした。
「いつも忙しい父が、私のためだけに、ケチャップを少ししか使わずに、潮の香りのするようなお米で作ってくれた……」
女性はしばらく泣き続けた後、顔を上げ、伊織に尋ねた。
「なぜ、これを……私が求めていると分かったんですか?」
伊織は、静かに答えた。
「あなたの手にあるハンカチは、幼い頃に大切にしていた思い出の品だね。そして、そのハンカチは、海辺の刺繍がされている。……疲れた時、人は最も安心できた場所の味を求めるものだよ」
女性は、自分が何年も前に家族と距離を置き、仕事だけを追ってきたことを悟り、また涙した。
彼女はそのオムライスを一粒残らず食べ終えると、立ち去り際に、「また来ます」とだけ言って店を出た。
その横顔は、来店時よりもずっと穏やかだった。
結は、まるで魔法を見せられたかのように立ち尽くしていた。
「非効率だ、とあなたは言ったね」伊織は静かに結に言った。
「だが、心の空腹は、正確なレシピじゃ満たせない。この店は、客の心を読み、その人だけの過去の記憶を結びつける場所だ。
メニューがないのは、当たり前だろう?」
結のプロの料理人としての自信は完全に打ち砕かれた。
伊織の料理は、彼の知るどの料理よりも高度で、深く、そして温かかった。
「……はい」結はかろうじて答えた。
「わかりました。私は、ここで、その心を読む料理を学びたい」
結の心は、料理への恐怖から、伊織の秘密への底なしの好奇心へと完全に変わっていた。
この不思議な「よろず料理店」での、彼女の新しい日々が始まったのだ。