第19話 不完全さの調和
店に現れたのは、30代後半の女性だった。
タイトなセットアップに身を包み、鋭い眼光を持つ彼女は、都心のIT企業でプロジェクトマネージャーを務める由香という。
彼女は、カウンターの最も隅、壁に背を向けられる位置を選んで座った。
席に着くなり、高級感のあるスマートフォンをバッグにしまい込み、まるで自分の素顔を隠すかのように、小さく身を縮こまらせている。
結がそっと水を差し出すと、由香はメニューを開こうともせず、視線を宙に彷徨わせたまま、小さな声で注文した。
「……何か、温かくて、誰の視線も感じないようなものが欲しいです」
その言葉は、まるで由香自身の内側から溢れ出た助けを求める声のように聞こえた。
結は、彼女の背中から発せられる「孤独のオーラ」が、竹内さんのそれとは全く異なる種類だと感じ取った。
竹内さんが「完璧」を求めるゆえの孤独なら、由香は「完璧でなければならない」という重圧が生んだ孤独だった。
ITプロジェクトマネージャーとして、由香の日常はすべて「他者の視線」によって構築されている。
チームの進捗、クライアントの期待、上司の評価、全てが『数字』と『効率』という冷たいレンズを通して彼女を突き刺す。
食事でさえ、彼女は自由ではなかった。
SNSの理想的な食生活、栄養士の視線、自己管理を怠らない人々の視線が、常に彼女のフォークの動きを監視している気がするのだ。
「誰の視線も感じない」それは、「私が私でいることを許される」、一切の評価や比較から解放された、完璧でいる重圧から解放される「無防備な食」の要求だった。
結は、由香の抱える重圧を静かに受け止め、伊織に目を向けた。
伊織は何も言わず、ただ静かに頷く。それは、「お前の番だ」という、静かな承認だった。
結の頭の中に、ブイヤベースの鮮やかなイメージが浮かんだ。
フランス・マルセイユ地方の漁師料理。様々な魚介の不揃いな個性を、荒々しくも温かいスープの中に全て受け入れ、一つに煮詰める料理だ。
由香の「バラバラになった心」を、一つの温かい調和で包み込むには最適だと直感した。
だが、このブイヤベースという料理は、結にとって過去の最大の失敗の記憶と結びついていた。
当時のシェフに言われた痛烈な言葉が蘇る。
結は、完璧を目指すあまり、料理から「命の不完全さ」を排除してしまったのだ。
由香が求める「誰の視線も感じない」料理。
それは、完璧な型を捨て、不完全さ(不純物)を受け入れることを、結自身に強く求めている。
結は、フライパンをもう一度見つめた。
それは、伊織が、完璧さを超えた『力強さ』を追求するために使い込んだ調理台のようだった。
「この場で、私は過去に否定した不純物を、あえて旨味に変える」
結は、自身の過去のトラウマを克服するため、そして由香の孤独を温めるため、かつて排除した「魚の命の不純物」を、あえて受け入れた極上のブイヤベースを作ることを決意した。
「伊織さん」
結は、伊織にまっすぐ向き直った。
「私に、『過去を煮詰めた、極上のブイヤベース』を作らせてください」
伊織は目を細め、静かに答えた。
「……ああ、結。あんたの『不確実な熱量』を、信じて客に届けな。」
結は調理台に向き合った。
彼女がまず行ったのは、魚のアラ(今回は新鮮なカサゴの骨と頭、そしてオマールエビの鮮やかな朱色の殻)を炒める工程だ。
通常、ここで徹底的にアクや「えぐみ」を取り除くが、結はあえてフライパンの底にそれらを広げ、強力な炎で一気に熱を加えた。
魚介の骨が熱に焼かれ、チリチリと乾いた音を立てる。
そこから立ち上るのは、かつて結が忌避した、血合いや内臓が持つ濃厚な海の香り、そして焦げ付く寸前の香ばしい「濁り」の匂いだ。
結はその「不純物」を旨味の層として取り込み、フライパンの底を覆う琥珀色の油と混ぜ合わせる。
それは、過去の失敗を煮詰めた『ルウ・ド・ポワソン(魚のルウ)』へと変貌した。
次に、荒く刻まれたトマト、玉ねぎ、そして爽やかな香りのフェンネルを豪快に投入する。
野菜の水分が一気に蒸発し、魚介の熱量を吸い込みながら、甘く濃厚な香りを立ち昇らせる。
結は木ベラを休ませず、素材たちがフライパンの中で互いの個性をぶつけ合い、そして調和へと向かうのを促した。
そして、過去の自分なら決して使わなかったであろう、深く濃い琥珀色の魚のアラスープが注ぎ込まれた。
スープは高温で熱せられた具材と出合い、一瞬で勢いよく沸騰する。鮮やかなサフランの黄金色が、スープ全体に溶け込み、キッチンに異国情緒豊かな香りを満たした。
「煮詰めるんじゃない。過去を、混ぜ合わせるんだ」
結は、スープを煮立たせながら呟いた。過去の失敗も、由香の孤独も、魚介の荒々しさも、全てを一つの鍋に受け入れる。
鍋の中で魚介が持つ個々の塩気、ハーブの繊細さ、そして「不純物」が、結のトラウマを乗り越える熱量によって、極上の調和へと変貌していく。
この深く濃いスープは、もはや「完璧なフレンチ」の出汁ではなく、荒々しい生命力そのものを表現していた。
仕上げに、下準備された魚介の身(肉厚なホタテ、ふっくらとしたタラ、艶やかなムール貝)を投入し、短時間で火を通す。
結は、身が硬くなる一歩手前、旨味が閉じ込められた一瞬を見極め、火から上げた。このブイヤベースは、『計算された完璧さ』ではなく、『調和した不完全さ』の結晶だった。
結がブイヤベースを由香の前に置いた。
濃厚なサフランの色合い、立ち上る湯気は、まるで彼女を包み込む膜のようだ。
由香は、そのブイヤベースを見て、初めて目を丸くした。
普段彼女が食べる、盛り付けまで計算された「完璧なフレンチ」とは違い、このブイヤベースは荒々しく、力強い。
由香は、ゆっくりとスプーンを口に運んだ。
その瞬間、彼女の目から、強い警戒の色が消えた。
スープは、まず舌の上で海全体の重厚な旨味として広がり、玉ねぎの甘みとフェンネルの香りが、彼女の全身の凝りを解きほぐしていく。
それは、完璧でいようと張り詰めていた彼女の神経を、温かい毛布で包み込むような優しさだった。
由香は、その重厚な黄金色のスープを、誰も見ていないことを確認するように、ゆっくりと、しかし確実に飲み込んだ。
彼女が日々追求する『洗練された完璧さ』とはかけ離れた、魚介の命の『荒々しい濁り』と『熱量』が、喉を通り過ぎていく。
それは、彼女が仕事で許さない『不確実性』そのものの味だった。しかし、その不確実さこそが、今、彼女の凍りついた心を、内側から溶かし始めている。
彼女は次に、大ぶりなタラの身を崩し、サフランのスープにたっぷりと浸して口に運んだ。
タラの身はふっくらと、しかし崩れそうで崩れない、その『危うさ』さえもが愛おしい。
普段、一挙手一投足を意識し、エレガントに、そしてカロリーや栄養価を計算しながら食事をする由香にとって、この荒々しく、生命力に満ちた一皿は、食べるという行為の持つ本来的な『本能的な快楽』を思い出させた。
彼女は視線を皿に落としたまま、時折立ち上る湯気を深く吸い込み、ゆっくりと体の芯から温まる感覚に没入していった。
意識の隅で、由香は自問していた。
「こんなに、無防備でいいのだろうか。誰かに見られていないか」
しかし、目の前のスープの熱量が、その自意識を焼き尽くす。
「……これ」
由香の声は震えていた。
「誰にも、見られていない。私自身も、このスープを評価しなくていい」
この言葉は、外の世界に向けたものではなく、何年も彼女を縛り続けてきた『自己監査のシステム』に向けられた、静かな反抗だった。
その時、由香は初めて、他者の視線も、自己評価の重圧も全て忘れ、ただ熱いスープに身を委ねることができた。
このブイヤベースは、「不完全でいい」と、彼女の心に語りかけているように感じたのだ。
由香の瞳から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。
それは、数年にわたる重圧が、ようやく解き放たれた証だった。
彼女の頬を伝う塩辛い涙は、ブイヤベースの塩気と混ざり合い、過去の努力も、苦悩も、すべてが「生」の一部であったことを教えているようだった。
過去のトラウマは、由香の笑顔という形で、『完成』したのだ。
伊織は、その一連の流れを無言で見届け、満足そうに頷いた。