第18話 料理の不確実性
竹内さんを見送った日の夜、店は静まり返っていた。
客が帰った後の厨房は、戦いの後の静寂のような空気に満ちている。結は、フライパンを丁寧に磨き上げていた。
煤と錆を落とすのではなく、次の料理のために「熱のムラという個性」を損なわないよう、優しく油を馴染ませる。
その背中に、伊織が声をかけた。
「結。お前は、竹内さんの中に過去の自分を見たのだろう」
結の手が止まる。
彼女は、磨いていたフライパンから手を離し、自分の手のひらを見つめた。
「はい。あまりにも…同じでした。完璧さを追求するあまり、人間らしさや温かみを切り捨てようとしていた私自身です。彼は、その切り捨てたものに、救われた」
伊織は、カウンターの椅子に静かに腰掛け、グラスに入った水をゆっくりと傾けた。
彼の眼差しは、遠い記憶の残滓を追っているようだった。
「そうか。完璧を目指すことは、孤独への近道でもある。私も、一度その道に迷い込んだ」
そして、伊織は静かに告白した。
「あのフライパンはな……私の逃げ場であり、私の罰だった」
その言葉は意外だった。伊織の泰然とした姿からは想像もつかない弱さの告白に、結は息を呑んだ。
伊織は語り始めた。
かつて彼が修業したフレンチの高級レストランでの日々。
そこは、一寸の狂いも許さない「型」がすべてだった。
「私は若くして天才だと呼ばれた。包丁の軌跡、火加減の制御、ソースの乳化、すべてが教えられた通り、いや、それ以上に完璧だった。だが、その完璧さはまるで氷細工のようだった」
彼は笑ったが、それは痛みを伴う苦笑だった。
「客は私の料理を『美しい、しかし冷たい』と評した。私の完璧さは、客と料理の間に、分厚いガラスの壁を作ってしまったのだ。結、お前の料理も、一時期美しすぎるあまり、誰も触れられない場所に立っていなかったか?」
結は、激しい肯定感に胸を衝かれた。
当時の彼女の料理は、まさに『正解』の味であり、何の余白もなかった。
「私は恐れた。完璧を目指すほど、私は孤立し、他人の感情に届かない料理しか作れなくなるのではないかと」
伊織は、その古鉄のフライパンをじっと見つめながら続けた。
「このパンは、私がフレンチの世界で『完璧』を体現するために最も愛用していた、私の分身のような道具だった。当時の私は、このフライパンに一切の錆や不純物、熱のムラを許さず、鏡のように磨き上げていた。それが、私自身の技術の証明だったからだ」
「だが、妻の言葉を聞いた後、私はこの『完璧な道具』を二度と手に取ることを拒否した。その輝きが、私の傲慢さ、そして妻に届かなかった『冷たさ』を象徴しているように感じたからだ。私はこのパンをあえて放置し、錆びさせることで、私の『完璧な敗北』を形にしたのだ」
「錆という不確実性を纏ってしまったこのパンは、見ての通り、熱の通りが悪く、均一に温まらない。完璧主義だった私にとって、この熱のムラ、この不揃いな焼き目は、私が自ら招いた『技術への最大の侮辱』であり、この『錆びた欠陥品』を『戒め』として封印していたのだ」
伊織はその失敗作を、賄いとして自分自身で食べた。
その時、彼は初めて気づいたという。
「焦げたエッジの香ばしい苦味。
肉汁が溢れる中心の甘み。
その不揃いさが、私の孤独を癒した。それは、型通りではない、人間味のある失敗の痕跡だったからだ。
私が何十年も探し求めていた『温かい音』が、この古鉄のパンから聞こえてきた」
「私がこのパンを手放さず使っているのは、妻の教えを忘れないためだ。彼女は、『料理の真の目的は、正確さではなく、食べる人の心と体を温める熱量そのものだ』と教えてくれた。この欠陥品は、その温かい熱意と、愛嬌のある不器用さが込められた、私の心のフライパンなのだ」
「あの焦げは、私自身の、不確実性を受け入れる勇気の証だった。これは、私自身が、完璧の呪縛から解放されるための「戒め」なのだ」
伊織は結を見つめた。
「お前は、このパンを通して、自分の過去の完璧主義を乗り越えようとしている。そして、竹内さんはその不完全さによって、忘れかけていた人の温かさを思い出した。料理の美しさは、完璧な調和だけではない。愛の失敗や、不器用さ、予測できない温かい熱量こそが、人の心を動かすのだ」
結はフライパンを抱きしめるようにそっと撫でた。
もうこのフライパンは、彼女にとって技術の敵ではない。
それは、人と人、過去と現在を繋ぐ、最も温かく、そして最も不安定なメッセンジャーだった。
翌日、店には新しい客がやってきた。
彼女は、カウンターの隅に座り、背中から「孤独」というオーラを発していた。
彼女はメニューを開かず、小さな声で注文した。
「……何か、温かくて、誰の視線も感じないようなものが欲しいです」
結は、新しい試練が始まったことを悟った。