第17話 不器用な愛の烙印
結が日々向き合う古鉄のフライパンは、時間の流れそのものを留めた「不確実性の集合体」だった。
フランスの厨房で叩き込まれた結の技術は、熱を均一に配し、料理に調和と予測可能な美をもたらすことを至上としてきた。
しかし、この錆と煤に覆われた道具は、その思想に真っ向から反抗し、熱のムラという荒々しい意志を主張する。
結は、このパンを使うことが、自らの制御を超えた領域、すなわち料理の偶然性と生命力を受け入れるための修練だと悟り始めていた。
カウンターに座る竹内という客は、結の過去の鏡を見るようだった。
彼は、寸分違わぬ仕立てのスーツに身を包み、彼の存在全体が「完璧主義という美学」を体現している。
彼は視線を動かずに注文を告げた。
「ハンバーグステーキ。デミグラスソースで。焼き加減は完全に火を通し、焦げや焼きムラといった無駄な痕跡は一切排除してください」
彼の言葉は、人生において不完全さを許さないという冷徹な決意のようだった。
結は肉の準備に取り掛かる。
まず、肉の繊維を傷つけないよう氷水で冷やした手で、合い挽き肉、極細に刻んだタマネギ、パン粉、そしてスパイスを素早く混ぜ合わせる。
手の熱で脂が溶け出さないよう、まるで氷を扱うかのように迅速に、そして優しく。出来上がったパティは、一点の曇りもない完璧な円盤だった。
そして、例の古鉄のフライパンを火にかけ、ごく薄く油を引く。
熱はパンの底全体で均一に広がることはなく、熱が集中する箇所へと逃げるように寄り集まり、静かに波紋を描く。
結は、あえて火加減を中火に絞りながらも、このパンの持つ荒々しい気まぐれに肉を委ねることを選んだ。
ハンバーグが古鉄に触れた刹那、厨房に情熱と焦燥が混じり合った衝突音が響いた。
最も高温の場所からは、脂が怒鳴るような激しい音を立てて飛び跳ね、そうでない場所からはささやくような穏やかな「ジュワ」という音が、リズミカルに重なり合う。
ニンニクと牛脂の誘惑的な香りが、立ち昇る白い煙と共に、竹内さんの周囲を包み込む。
結は、肉汁を閉じ込めるために、火力を落とさず、一瞬たりとも肉を動かさない。
数分後、結は静かに、そして一瞬の迷いもなく肉を反転させた。
フライパンに接していた面には、もはや均一な焼き色ではない、一枚の風景画が描かれていた。
中心の最も熱が集中した箇所は、濃い茶色の限界を超え、深いエスプレッソのような炭色へと変貌し、焦げ付き寸前の「不器用な愛の烙印」を際立たせている。
その周囲を、バターのように艶やかな黄金色と食欲をそそる濃茶色が、不揃いな濃淡の詩を奏でながら囲んでいた。
熱のムラが生み出した、至福のグラデーション。
その焼き目の濃い部分の小さなひび割れからは、透明で輝くような肉汁の血清が泡立って湧き出ていた。
皿に移し、湯気を立てる濃厚なデミグラスソースをかけた。
ソースは、不均一な焼き目に絡みつき、焦げ付いたエッジを覆い隠そうとしますが、わずかにその深い色が透けて見えている。
結がそれを竹内さんの前に運んだ。
彼は書類から目を離し、フォークを持つ手を止めた。
硬い表情に、一瞬の戸惑いの影が差した。
「……随分、強い焼き目ですね」彼の声には、僅かながら注文とのギャップに対する驚きが滲んでいた。
彼は、フォークでハンバーグの最も濃く焼けた、漆黒のエッジを切り取った。
肉の繊維から溢れ出した旨みの雫がソースに溶け込み、皿に小さな水たまりを作った。
竹内は、それを口に運んだ。
瞬間、彼の全身の緊張が一気に解けた。
背筋が伸びていた姿勢がわずかに崩れ、噛む動作が止まり、視線は遠い昔の景色を捉えたように揺らいだ。
最初に感じたのは、カリッとした焦げ目寸前の食感。その香ばしさが、彼の舌をわずかに刺激し、長年築き上げてきた「完璧でなければならない」という心の壁にひびを入れた。
そして、その厚い焼き層を破ると、内側から熱い肉の甘みが溢れ出し、デミグラスソースの奥深いコクとともに舌全体を包み込んだ。
それは、彼が知るどの「正しく焼かれた」料理とも違う味だった。
そこにあったのは、正確さではなく、熱量と、あえての不器用さだった。
竹内はゆっくりと目を閉じた。
脳裏に蘇ったのは、幼い日の台所の光景。
無骨な鉄板の上で、決まって端が黒く焦げていた父のハンバーグ。
彼が人生において排除しようと努めてきた「不完全なもの」が、この一口の味覚を通して、抵抗なく彼の内側へと流れ込んできた。
目を開けた彼の瞳には、仕事の疲れではない、遠い記憶と、溢れ出すような温かいノスタルジーの光が宿っていた。
「……ああ、これです」竹内さんは、息を吐き出すように呟いた。
「何かございましたか?」結は静かに尋ねた。
竹内は、すべてを受け入れたような、柔らかい笑顔を見せた。それは、先ほどのビジネスマンの顔ではなく、心のサビが取れた無垢な表情だった。
「子供の頃、料理が苦手な父が、日曜日に焼いてくれたハンバーグの味です。母はいつも『焦げている』と小言を言いましたが、父は『この焦げ目が愛嬌だ』と言って、私に一番焦げたところをくれたんです」
彼は、残りのハンバーグを丁寧に切り分け始めました。
濃く焼けた部分を選びながら。
「いつも完璧な結果だけを求め、すべてを管理下に置こうとしていたのに……この、少し焦げた、不揃いな一皿が、私の一番深い感情を揺さぶるなんて。コントロールを放棄した父の不器用な情熱が、この焦げに宿っている気がします」
彼は、濃い焼き目のエッジをフォークで掬い、デミグラスソースに絡めて味わった。
噛むたびに、香ばしさ、肉の甘み、コク、そしてかすかな苦味が押し寄せた。
「焦げは、失敗の跡じゃなかったんですね。すごく大切な愛の記録だったんだな。急いで、それでも美味しく食べさせたいという気持ちの……」
彼はその後、誰に話すでもなく、静かに、そして時間をかけてハンバーグを完食した。
皿に残ったデミグラスソースは、パンを使って丁寧に拭き取られていた。
彼は、まるで長年背負っていた重い荷物を降ろしたかのように、安堵の息をついた。
彼の顔には、もう張り詰めた緊張感はなかった。
竹内氏を見送った後、伊織は静かに言った。
「結、あの焦げは、お前の技術の敗北だったのか?」
「いいえ」結は、揺るぎない確信を持って答えた。
「技術の正確さは、料理には必要です。しかし、『不確実性という名の焦げ』は、竹内様の心の奥底にある郷愁に到達しました。技術は、人を完璧にしようとする。しかし、不器用な愛の痕跡は、人の孤独を癒し、許す力があるのだと知りました」
伊織は古鉄のフライパンの表面をそっと撫でた。