第16話 錆びたフライパンが語るもの
伊織から「煮魚禁止令」を課されて数日、結は文字通り、店の隅々まで掃除をし、野菜の仕込みに没頭した。
彼女の動作は一糸乱れず、そのナイフさばきは正確で迅速。しかし、彼女自身が最もよく理解していた。
この正確さは、私自身の空虚さを覆い隠すための、緻密な化粧だと。
彼女の技術は、彼女自身が作り出した分厚い防護壁であり続けたのだ。
「完璧に作った。完璧に味付けした。なのに、なぜ、あの人は店を出る時、あんなにも寂しそうだった?」
フレンチシェフ時代、結が唯一恐れたのは、技術の失敗だった。
失敗は、即ち自己の否定であり、彼女を再び孤独の淵に引き戻すトリガーだったからだ。
彼女の人生は、常に「完璧」でなければ愛されない、という強迫観念に支配されていた。
結の視線は、店の隅にある、あの錆びたフライパンに吸い寄せられた。
黒く煤け、取っ手は鉄がむき出し。
フレンチの厨房で教えられた機能美、衛生、均一性という美意識に対する、暴力的なまでの自己否定の塊だ。
閉店後の静寂。
結は、周囲に誰もいないことを確認し、そっとそのフライパンに手を伸ばした。
予想に反し、指先に伝わってきたのは、ヒヤリとした冷たさではなく、ずっしりとした歴史の温もりだった。
鉄という素材が、幾度もの火と油を吸い込み、記憶しているような熱。
「……そのフライパンは、私がパリで店を失い、自分の全てを否定した日に、唯一、持ち帰ることを許された残骸だ」
伊織の静かな声に、結は息を呑んだ。
伊織は、洗い物を続けながらも、その言葉は結の胸の最も深い場所に突き刺さった。
「お前は、完璧な技術こそが、人を救うと信じてきた。だが、お前がスギヤマさんの孤独に届かなかったのは、お前の料理が冷たい均一性に満ちていたからだ。お前の技術は、感情の介入を許さない、防御のための要塞だった」
結は、反論できなかった。胸の奥で、「まさしくその通りだ」という苦い声が響く。
「孤独な自分を触れさせるくらいなら、技術という名の硝子の要塞の中で飢え死にした方がましだった。私は、客との間に、決して壊れない壁を作りたかったのだ」
伊織は、フライパンの焦げ付いた底を指でなぞった。
「お前は、『家庭の温もりを再現する』という傲慢な真似をした。温もりは、再現するものじゃない。それは、与えるものだ。与えるためには、まずお前が、その冷たい要塞から、自ら出てこなければならない」
「この錆びた鉄を見ろ、結」伊織の声が、一段と低くなる。
「これは、私が何度も失敗し、焦げ付かせ、叩き直し、それでも捨てることを拒んだ、私の『傷跡』そのものだ。完璧な道具は、常に『正しさ』を要求する。だが、この錆びた鉄は、『不確実性』しか生まない」
不確実性。その言葉が、結の頭の中で激しい波紋を広げた。
私が恐れていたのは、皿の上の失敗ではない。
それは、自分の心の不完全さ、弱さ、寂しさが露呈することだったのだ。
不確実性とは、コントロールを失うこと。そして、コントロールを失うとは、鎧を脱ぐことと同じ意味だった。
伊織は続けた。
「お前の失敗は、お前の最高の調味料だ。お前が幼い頃、両親の期待に応えようとして感情を殺したこと、フレンチの修行で孤独に耐えたこと、そして完璧を求めて全てを失ったこと。そのお前の心の『錆』を、そのまま客の前に差し出す勇気を持て。それが、客の心の錆と共鳴する、唯一の方法だ」
結の瞳から、一筋の熱い涙が流れ落ちた。それは、羞恥や悔しさではなく、長年の張り詰めた糸が切れた安堵の涙だった。
彼女は、「不完全さ」こそが、自分と客を繋ぐ唯一の接点であるという、逆説的な真実を理解した。
彼女の人生から排除しようとしてきた『傷』が、実は料理にとって最も必要なものだったのだ。
結は、錆びたフライパンを両手で持ち上げ、その重みを全身で受け止めた。
長年の油と火の香りが、彼女の鼻腔をくすぐる。
それは、伊織の生きた証、失敗の歴史そのものの匂いだった。
カラン、と。結の内部で、何かが崩れる音がした。それは、何十年もかけて築いた、完璧という名の冷たい硝子の壁だ。
「伊織さん」結は、震える声で尋ねた。
「私は、自分の失敗を、自分の孤独を、もう隠しません。この不確実な道具を使って、自分の不完全な気持ちを、誰かの前に差し出したい」
彼女は、フライパンを胸に抱いたまま、決意を込めて言った。
「この錆びたフライパン。次の料理で、使ってもよろしいでしょうか」
伊織は、目を細めて、結の顔とフライパンを交互に見た。
そして、わずかに口角を上げた。
「……錆びは、絶対に落とすなよ。それが、お前の料理の始まりだ」