第15話 技術だけが空回りした、不味い煮魚
「結。今日は、私は昼過ぎまで店を空ける」
翌朝、伊織はいつになく厳粛な面持ちで言った。
伊織が店を空けるのは極めて珍しいことだった。
彼は古くからの取引先である魚市場へ、特別な仕入れに向かうという。
「注文は、お前が取れ。客の心の『余白』を、一人で読み解け。私に頼るな」
伊織はそう言い残し、静かに裏口から出て行った。
カウンターに立ち、結の心臓は激しく高鳴っていた。
昨日、ケンジさんの「才能のざらつき」をポタージュで肯定できた成功体験が、彼女の心に自信を与えていた。
(私はもう、伊織さんの真髄を掴んだ。料理は心の不完全さを受け入れること。私の「余白の温度」を、この店で実践できるはずだ)
正午ちょうど。
一人の客が店に入ってきた。
スギヤマという名の、60代半ばの男性だった。
身なりは清潔だが、全体的にモノトーンで、寂しいほどの秩序を保っている。
彼はカウンターの隅に座ると、静かに水を一口飲み、声を絞り出した。
「胃に負担のない、馴染みのある温かいものを……。献立はお任せする」
結は、彼の「錆び」をすぐに察知した。
それは、ケンジさんのような「未完の夢」ではない。
スギヤマさんの錆は、「失われた日常の温もり」だった。
彼の背中は、二人分の椅子を背負っているかのように丸く、長年連れ添ったパートナーを失った後の、「一人分の食事」の味気なさを全身で語っていた。
(この方の心には、家庭料理の温かい記憶が染み付いている。それを、一人で食べることの寂しさが錆として残っているのだ)
結は、「家庭の温もり」と「不完全さの受容」をテーマに据えることを決めた。
彼女の脳裏に浮かんだのは、煮魚だった。
「カレイの煮付けをご用意いたします」結は即座に答えた。
彼女はすぐさま調理に取り掛かった。
昨日成功したことで、結の技術と判断は研ぎ澄まされていた。
まず、鮮度抜群のカレイのエラと内臓を素早く処理し、切り身に1mm単位で正確な隠し包丁を入れた。
魚の生臭さを消すための霜降りの時間は、熱湯に浸す時間を完璧に5秒にコントロールし、魚の表面を美しく引き締めた。
次に煮汁。
結は、伊織の厨房にある厳選された鰹節と昆布で取った一番出汁に、醤油、味醂、酒を1gの誤差もなく計量し、「家庭の味」を演出するための完璧な黄金比を作り上げた。
(余白の温度……技術で完璧を否定する。この煮魚には、あえて、少しだけ煮崩れと、手際の良さではない「家庭の不器用さ」を残そう)
結は、伊織の「I & Y」の菜箸ではなく、新しいステンレスの菜箸を使った。
それは、感情の介入を許さない、均一な熱伝導と操作性を求める、彼女の過去の癖だった。
厚手の銅鍋に煮汁を入れ、火にかける。
沸騰直前にカレイを静かに投入し、絶妙なタイミングで落とし蓋をした。煮汁の沸騰は、「グラグラ」という家庭的なものではなく、「シュン、シュン」という微かな音を立てる、フレンチのポシェにも似た低温での管理を徹底した。
結は、落とし蓋の隙間から、煮汁が魚全体に優しく、しかし確実に浸透していく様を、精密に計算した。
魚の身が、煮汁の表面張力に支えられてわずかに膨らみ、再び縮むその瞬間を見逃さない。
完璧なフレンチの技術があれば、魚を煮汁から上げるときに、あえて身をわずかに崩し、「長年煮込んだかのような風合い」を演出することもできる。
彼女は、その「意図的な不完全さ」を、技術で完璧に作り上げようとしたのだ。
煮上がったカレイは、煮崩れすぎず、身はふっくらとして、光沢を帯びた煮汁が中心まで深く染み渡っていた。
出来栄えは、技術的には非の打ち所のない、冷たい均一性を持つ一皿だった。
盛り付けも、鮮やかな緑の絹さやを添えて美しく、「よろず料理店」の看板に恥じない完璧な構成だ。
結は自信を持って、スギヤマさんの前に皿を置いた。
光沢を帯びた煮汁に包まれたカレイは、カウンターの柔らかな照明を反射し、どこか家庭の食卓を切り取ったような、懐かしい佇まいだった。
スギヤマさんは皿を一秒ほど見つめた後、静かに箸を取った。その動きは長年の習慣に裏打ちされた、儀式のように正確なもので、手の震えもなければ、期待の輝きもない。
彼は、カレイの身の最も分厚く、煮汁が深く染み込んだ部分を迷いなく選び、丁寧に骨から剥がした。
一切れを口に運んだ瞬間、彼の顔は微かに、本当に微かに、過去の記憶に触れたような表情で凍りついた。
「……美味い」
スギヤマさんはそう言った。
その声は、評価であり、感情の介入を許さない、理性的な肯定だった。
そこに一切の嘘はない。
確かに料理として美味い。
しかし結は気づいた。
彼の瞳の奥に宿る「寂しさ」の錆は、微動だにしていなかった。
煮魚が口の中で広げる完璧な甘辛さの波は、彼の孤独の岸辺には届いていない。
彼は黙々と食べ進めた。その食べ方は完全に一人分のペースだった。
皿の上のカレイは、家庭料理の温もりを完璧に纏っているというのに、彼が箸を進めるたびに、その空間はかえって冷えていくように結には感じられた。
「二人分の椅子」を背負った孤独な背中は、その美味しい煮魚を食べる間も、重さを増しているようだった。
彼は最後まで一言も感想を口にしなかった。完食した後、彼は立ち上がり、会計を済ませると、来た時と全く同じ、秩序正しく寂しい足取りで店を出て行った。
結は、カウンターにもたれかかった。彼女の心には、冷たい水が流れ込んだような失敗の感覚が広がった。
(美味いと言ってくれたのに……なぜ、何も変わらなかった?ケンジさんの時は、あんなに心が動いたのに……)
その直後、伊織が魚の入った木箱を抱えて裏口から帰ってきた。
伊織は、カウンターを一瞥しただけで、全てを察した。
「失敗したな、結」
伊織の声は、これまでのどの指導よりも冷たく、厳しかった。
「美味かったはずです!煮崩れも丁度良く、味付けも完璧に『家庭の温もり』を演出しました。なのに、客の心の錆は、一ミリも動かなかった……」
結は、混乱したまま訴えた。
伊織は木箱を置き、結が使った煮魚の皿に残された煮汁を指差した。
「あんたは、技術を使ったな」
「え?」
「あんたの頭の中には、『完璧なビスク』の技術が今も残っている。あんたは、その完璧な技術を使って、『意図的な不完全さ』を計算通りに演出した」
伊織は続けた。
「余白の温度というのは、哲学であり、客の心への差し出し方だ。それを、調理のテクニックとして、頭の片隅で計算しながら使った時点で、それは偽物だ」
伊織の言葉は、結の胸を突き刺した。
「この煮魚は、美味い。だが、あんたの『心』が、客の寂しさの前に、一歩も踏み込んでいない。あんたは、スギヤマさんの『慣れ親しんだ味』に寄り添おうとしたのではない。あんたは、『余白の温度』という私の哲学を、『正しいやり方』として再現しようとしただけだ」
「余白とは、計算で生まれる『隙間』ではない。それは、あんたの孤独や失敗の記憶を、素手で掴んで、客の心に差し出す『覚悟』だ。それがなければ、あんたの料理は、フレンチ時代と何も変わらない、感情の通わない、冷たい技術にすぎない」
伊織は、カウンターに静かに座った。
「あんたの煮魚は、技術だけが空回りした、不味い煮魚だ。明日からは、客の心を掴むまで、一切、煮魚を作ることを許さない。もう一度、錆びたフライパンの前に立って、自分の失敗と向き合え」
結は、打ちのめされたように立ち尽くした。
哲学を技術として使おうとした自分の傲慢さに気づき、静かに涙が溢れた。
彼女がこれから学ぶべきは、料理の技術ではなく、人の心のあり方そのものになった。