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第14話 才能の「ざらつき」を許すポタージュ

伊織から「自身の創造」という課題を与えられた翌日、ゆうの緊張は最高潮に達していた。

伊織は、静かにカウンターの奥で茶をすすっているだけで、結に一切の指示を与えない。

結は、「I & Y」の菜箸を握りしめ、自分だけの「余白の温度」を探していた。


正午過ぎ、一人の客が店に入ってきた。


ケンジという名の、40代前半の男性だ。

彼は、清潔で高価なスーツに身を包み、書類の整理が行き届いた完璧に整頓されたブリーフケースを携えている。

しかし、その瞳の奥には、どこか諦めと疲れの色が深く沈んでいた。


彼はカウンター席に座るなり、早口で言った。


「何か、スムーズに食べられるものを。午後の会議に備えて、胃に負担がなく、引っかかりのないものがいい」


結は即座に男性の心の錆を察知した。

彼の「スムーズ」と「引っかかりのない」という言葉は、彼自身の人生への願望そのものだった。


(この人は、夢の「ざらつき」を、人生の「不純物」として捨ててしまったのだ)


結の脳裏に、伊織が卵液の白身をあえて残した言葉が蘇る。

「完璧な均一性は、緊張を生む」。

ケンジさんは、「完璧なスムーズさ」という名の緊張の中に生きている。


結は、伊織の菜箸の温もりを感じながら、初めての「自身の創造」を決めた。

カウンターの下で「I & Y」の菜箸をぎゅっと握りしめた。

フレンチで培った技術をあえて破るという選択は、過去の失敗の恐怖と、師の教えへの信頼が激しくぶつかり合う、結にとっての最大の賭けだった。

伊織は静かに茶をすすっているだけで、彼女に助け舟を出す気配はない。

この一皿の成否は、彼女自身の「料理人としての再定義」にかかっている。


「承知いたしました。カブとポテトのポタージュをご用意いたします」


結は、仕込み棚から、伊織が厳選した小さな丸いカブと、土の香りを深く蓄えた男爵芋を取り出した。

カブは、その日に掘られたばかりのような、葉の緑が生命力を湛えている。

ポテトは、冷水で丁寧に泥を洗い流し、無駄なく皮を剥いた。


カブとポテトは、伊織から教わった通り、不均一な大きさに切り分けられた。

完璧な立方体ではなく、一つ一つが個性を主張するような、丸みを帯びた形。


結は、それらを清らかな昆布だしと共に鍋に入れ、静かに火にかけた。

フレンチのフォンではなく、昆布だしの透明で優しい旨味が、根菜の奥深くにじっくりと染み込んでいく。

結は、火力を決して上げすぎず、鍋の底から「シュルシュル」という、食材が熱と静かに語り合う音だけを聞き取る。

カブとポテトは、ただ煮崩れるのではなく、内部の澱粉質と水気が、優しくだしと融合していく。


具材が指で潰せるほど柔らかくなった瞬間、結は鍋を火から下ろした。

ここからが、結の「自身の創造」の核心だった。


結は、具材と煮汁を丁寧にミキサーに移す。

通常であれば、濾し器を使い、1mmの繊維も残さない完璧な滑らかさを追求する。

だが、結はそれを選ばなかった。


ミキサーのスイッチを入れ、完全に滑らかになる直前の、あえて数秒早くスイッチを止めた。

それは、完璧な均一性を拒否する、結の不完全な優しさの選択だった。


出来上がったポタージュは、見た目には美しい象牙色で、湯気からはカブの優しい甘みが漂っている。

しかし、結がスプーンで掬うと、目には見えないほど微細な、芋やカブの繊維の「ざらつき」がわずかに残っていることがわかる。

まるで、捨て去られたはずの夢の「粗さ」が、密やかに主張しているようだ。


最後に、結は温かいポタージュの表面に、風味の強いバターではなく、ごく少量のオリーブオイルを、1滴だけ静かに垂らした。

それは、料理全体をまとめ上げるのではなく、「ざらつき」を強調し、客に考える余白を与えるための一滴だった。


結は、そのポタージュをケンジの前に置いた。


ケンジは、一瞬、その象牙色の滑らかな表面を見つめた。

立ち昇る湯気は清潔で、香りはカブの優しい甘さ。

彼は、この完璧な見た目にわずかな安堵を覚えた。

彼の世界に存在するべき「秩序」がここにある。


結は、ポタージュを置いた後、一歩引いて、両の手をカウンターの下で固く組み合わせていた。

その指先は、極度の緊張で冷たい。

ケンジさんがスプーンを手に取るまでの数秒間が、結には永遠のように感じられた。

彼女の視線は、ポタージュに注がれたオリーブオイルの一滴の輝きに固定されていた。


彼は銀色のスプーンを手に取り、静かに一口すする。


その瞬間、彼の表情が微かに硬直した。舌の上で感じた極めて微細な「抵抗」。

それは、彼が長年、仕事と人生で排除し続けた、余計な摩擦、不要な不純物、そのすべてを思い出させた。


「……美味い、ですが」ケンジは言った。

「少し、ざらつきがありますね。ポタージュにしては滑らかさに欠ける。私の求める『スムーズさ』ではない。まるで……異物が混ざっているようだ」


彼の求めていたのは、1mmレベルで均一化された、効率と無駄のなさだった。

この舌に残る微かな「粗さ」は、彼が長年排除し続けた人生の「不純物」を思い出させた。

彼はスプーンを皿に置く一瞬、拒絶の感情に支配された。


結は、真っ直ぐに彼の目を見た。

かつて伊織に叱咤された時の、自分自身の弱さを思い出しながら、結は初めて、師の言葉ではなく、自分の言葉で語りかけた。


ケンジさんの「異物」という言葉を聞いた瞬間、結の胸に鋭い痛みが走った。

それは、かつてシェフから「才能がない」と断じられた時の、「自分という不純物」を否定された痛みに似ていた。

一瞬、言葉に詰まり、伊織に助けを求める視線を送ろうとしたが、すぐに踏みとどまる。伊織は、何も言わずに静かに結を見つめている。

結は、呼吸を整え、「I & Y」の菜箸が持つ、不完全な温もりを思い出した。

「完璧なスムーズさ」を求める客に対し、「不完全な優しさ」を差し出す時だと、結は悟った。

彼女は、震えを抑え、全身の勇気を声に込めて、ケンジさんの目を見て語りかけた。


「恐れ入ります。その『ざらつき』は、あえて残しました」


「あえて?」ケンジの眉間の皺が深くなった。彼は自分の秩序を乱されたことに苛立ちを覚えた。


「はい。それは、夢の持つ、本来の『粗さ』です。滑らかさとは、時に摩擦を避け、抵抗を諦めることを意味します」


結は、彼の前にあるブリーフケースに視線を向けた。


「その完璧なブリーフケースの中にあるのは、完成された、誰にも文句を言われない秩序でしょう。ですが、本当に心が求めていたものは、手が汚れることを恐れず、書きかけで散らかった原稿ではありませんか?」


ケンジの喉が詰まった。

彼の視線は、ポタージュの表面に凝り固まった。


(原稿……そうだ、あの時。インクの滲みと、紙の繊維の粗さを理由に、俺は筆を折った。完璧なフォントの文書だけを愛し、生きた文字の持つ「ざらつき」を拒否したのだ)


結は、ポタージュの中の、わずかな「ざらつき」を指差した。


「この粗い繊維は、あなたがまだ書き終えていない、未完のページの苦味です。それは、排除すべき不純物ではなく、あなたの才能が未だ『生きている』ことの証です。捨てて、滑らかにする必要はありません。そのまま、受け入れてください」


ケンジの顔は、驚きと動揺で固まった。

彼は、フォークを置き、スプーンを再び握りしめた。

彼は、もはやこのポタージュを「料理」としてではなく、「治療」として見つめていた。


彼は、そのポタージュを飲み干した。

一口飲むたびに、舌の上の「ざらつき」が、心の奥底に埋めていた、夢への痛みを抉る。

それは、薬のような、あるいは毒のような、苦くて温かい「真実」の味だった。

完璧なスムーズさを求めて生きてきた彼の人生に、久しぶりに引っかかりが生まれた瞬間だった。

彼は最後まで、その「ざらつき」を噛み締めるようにして、ポタージュを一滴残らず飲み干した。

彼の胃袋は温かいが、心はチクチクと痛んでいた。


それは、諦めていたものが「まだ終わっていない」と知った、生きている痛みだった。


「ごちそうさまでした」


会計を済ませた後、ケンジはブリーフケースを握りしめ、立ち止まった。

彼は、深く、そして長い息を吐いた。スーツの肩の張りが、来店時よりもわずかに緩んでいるように見えた。


そして、結のいるカウンターに、静かに背を向けて言った。


「……私のブリーフケースは、いつも完璧だった。だが、家には、十年前に途中で止まった、埃を被った原稿がある。……少し、埃を払ってみようと思います」


彼は、来た時とは違う、わずかに重い足取りで店を出て行った。

その重さは、諦めではなく、再び抱え始めた「夢の重み」だと、結には分かった。


結は、カウンターに額をつけ、大きく息を吐き出した。

張り詰めていた緊張の糸が切れ、体の力が抜ける。


初めて、師の指示ではなく、自分自身の判断で、客の人生の「舵」をわずかに動かすことができた。

それは、フレンチで1万回完璧なソースを作った時よりも、遥かに深い、存在意義の証明だった。

彼女は、静かに伊織を見た。


伊織は、初めて結の働きかけに対して、はっきりと頷いた。

その静かな頷きが、結にとっての「最高の評価」だった。


結は、伊織の「I & Y」の菜箸を、深く胸に抱いた。

初めて客の心の錆を肯定できた結の心に、師匠から継承された「余白の温度」が、温かく灯った。

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