第13話 夫婦の絆を象徴する、素朴な卵焼き
伊織の壮絶な過去を聞いた翌日、結の心には、師の「完璧な失敗」が深く刻み込まれていた。
結は、伊織の料理の真髄は、「余白の温度」と名付けられた「愛の記憶」であると理解していた。
錆びたフライパンが失われた完璧の記憶なら、この店にはきっと、残された愛の温もりが刻まれているはずだ、と結は考えていた。
その日の午前中、結は伊織から預かった調理器具の整理をしていた。
それは、伊織が以前使っていたフレンチの道具とは別の、この店のために買い揃えられた、年季の入った素朴な道具たちだった。
カウンター裏の引き出し。
結は、卵焼き器と一緒に入っていた小さな、使い込まれた木の菜箸を取り上げた。
油と出汁の染みが深く、柄の先は長年の使用で少し丸くなっている。その柄の先端、他の傷に紛れるように、結は微細な印を発見した。
目を凝らすと、そこには「I & Y」と、ごく小さく彫り込まれている。
筆跡は少し不器用で、道具を渡す時に奥様が彫ったのだろうか、と結は想像した。
IoriとYuki。伊織と、彼の亡き妻のイニシャルだ。
結の胸に、静かで深い衝撃が走った。
(錆びたフライパンは、全てを破壊した完璧の証。だが、この菜箸は……)
結は、菜箸を握りしめた。
その温かさ、手に馴染む重み。
それは、彼が追求したフレンチのステンレス器具の冷たい均一性とは対極にあるものだった。
伊織は、完璧を捨て、孤独にこの店を始めたように見えて、その心は決して「無」になったわけではなかった。
彼は、最も愛した人の記憶と、その人との不完全な日々の温かさを、この店の土台に、そして道具の細部にまで刻み込んでいたのだ。
錆びたフライパンが「失われた完璧」の象徴なら、この菜箸は「残された愛の不完全な温もり」の証。
そして、この「I & Y」こそが、伊織の料理の全ての「芯」だと、結は悟った。
その日のまかないの時間。客のいないカウンターで、伊織は結に言った。
「結。今日は、お前の目に映ったものを、このまかないで確かめる」
伊織の言葉は、結が菜箸のイニシャルを発見したことを、全て見透かしているようだった。
「今日のまかないは、素朴な卵焼きだ。お前の心の中に、その『I & Y』を刻んでおけ」
伊織が作り始めた卵焼きは、フレンチのオムレツの緻密な技術とは似ても似つかないものだった。
卵は、特別なブランドではなく、その日に近所の農家から仕入れたばかりの、生命力のある素朴なもの。
出汁は、鰹節の力強い香りよりも、昆布の丸い優しさが際立つ、控えめな仕立て。
伊織は、卵液を混ぜる時、あえて完全に混ぜ切らなかった。
白身の塊が僅かに残っている。
「完璧な均一性は、緊張を生む。この白身のわずかな不均一さこそが、家庭の持つ『余白』だ。食べ進めるうちに、味が変わっていく。それが、人生の味わいだ」
結は、伊織のその手つきに見入っていた。
「以前の伊織さんなら……1℃の温度差も許さない緻密さで、白身と黄身を完全に乳化させたはずです」結は静かに言った。
「それを、あえて不完全に残す。それは……完璧な技術を持つ者だけが選べる、最大の謙遜なのですね」
伊織は、卵焼き器を火にかけながら、その熱の入り方を手のひら全体で感じ取っていた。
炎の強さは一定に保ち、菜箸に刻まれた「I & Y」のイニシャルを優しく撫でてから、柄を握り直した。
卵液を流し込む。
ジュワッと心地よい音を立てるが、決して油が弾け飛ぶような激しさはない。
それは、家庭で交わされる穏やかな会話のような音だった。
伊織は、卵液の端が固まり始めたのを見計らい、菜箸の先端を使って、静かに固まりかけの卵を内側に寄せていく。
その動きはフレンチのオムレツのように速くはない。
むしろ、ゆったりとしたリズムを刻んでいた。
緻密な角の完璧さはない巻き込み方。意図的に空気を抱き込ませ、層と層の間にわずかな隙間を作り出す。
その隙間こそが、夫婦の絆や、不器用な優しさが入り込む『余白』だと結には感じられた。
一層、また一層。
丁寧に折り重ねられるたびに、卵焼きは黄金色の四角い塊となっていく。
伊織は、焦げ付きやすい銅のフライパンの熱のムラを、指先と音だけで感知しながら、最も弱い熱の部分でじっくりと「愛の温もり」を閉じ込めていく。
出来上がりは、少し空気が入り、層も完璧な長方形ではない。
しかし、その一つ一つの折り目に、日常のささやかな幸福と温かさが染み込んでいる。
「どうだ、結。この卵焼きは完璧か?」
伊織の問いに、結は菜箸のイニシャルを思い出しながら、ためらいなく答えた。
「はい。完璧ではありません。巻きムラがあり、形も少し歪んでいます。ですが……その歪み一つ一つが、温かい記憶を語っている。この不完全さこそが、比類のない美しさです。伊織さんの『心の余白』は、ユキさんとの『愛の普通』の記憶から生まれたものなのですね」
「……その通りだ」伊織は静かに言った。
「私は、完璧な料理で愛を証明しようとして失敗した。だが、この不完全な卵焼きで、私は愛の普通さを、ただ受け入れることを学んだのだ」
焼き上がった卵焼きは、まな板の上で静かに切り分けられた。
切り口は、濃い黄金色と、わずかに焦げ付いた焦げ目が混ざり合い、人生の苦味と甘さが同居しているようだった。
切り分けられた卵焼きからは、温かい湯気がゆらゆらと立ち昇り、店の空気と混ざり合っていく。
結は、その卵焼きを一口食べる。
じんわりとした、出汁の優しい甘みと、卵の素直な温かさが、結の心に深く染み渡った。
それは、完璧な技術では決して生み出せない、人間的な温かさだった。
「結。あんたは、もう私の技術や過去を追う必要はない。次は、お前自身の『心の余白』を、客の『心の錆』にどう重ねるかだ。錆びたフライパンを恐れず、この菜箸の温もりを信じろ。お前の不完全な優しさで、客を包んでやれ」
結は、深く頷いた。
彼女の修行は、師の過去の追体験を終え、いよいよ自身の創造へと向かう。