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第12話 錆びたフライパンと、「完璧な失敗」の記憶

翌朝。

朝の光が差し込む店内で、ゆうは静かに伊織を待っていた。

カウンターの隅、他の道具とは異なり、時間を止めたように黒く錆びたフライパンが、結の視線を集めている。

その錆は、単なる酸化ではなく、「完璧を拒否した、伊織の過去の意志」のように見えた。

そのフライパンの周りだけ、店の穏やかな時間が、わずかに張り詰めているように結には感じられた。


伊織は、いつもの穏やかな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には深い影を宿していた。

彼は、その錆びたフライパンを手に取り、カウンターの上、二人の間にそっと置いた。

その重みが、テーブルに鈍い音を立てた。


「結。あんたは、この店に来て、技術は『完璧の否定』にあると学んだ。だが、その『否定』は、一度『完璧』を知り、愛し、そして、それを失った者にしか許されない、逃れられない道だ」


伊織は、フライパンの持つ重みを確かめるように、ゆっくりと語り始めた。


「これは、私が全てを賭けた『完璧の城』で使っていた、最高の相棒だった。私が総料理長を務めていた、都心の高級フレンチレストランでな」


伊織が語る過去は、結の知る世界と驚くほど似ていた。

彼はかつて、「メートル・キュイジニエ(料理の科学者)」と呼ばれ、その料理は、感情や即興性を一切排除した、論理的な芸術として名を馳せていた。


「私の料理の哲学は、『技術の完璧さこそが、客への最高の誠意』という、揺るぎない信念に基づいていた。

ソースの乳化はナノレベルで均一。肉の火入れの芯温は0.1℃の誤差も許さない。当時の私は、食材が持つ不確定性すらも、全て計算と技術で制御できると信じていた」


当時の伊織にとって、このフライパンの鏡のような光沢こそが、自身の存在証明だった。

それは、一切の焦げ付き、歪み、不純物を拒否する、彼の虚栄心そのものであり、『完璧』という名の強固な城壁だった。

彼の料理は、美味であると同時に、客に近寄りがたいほどの緊張感を与えていた。


「この光沢を維持するため、私は閉店後、誰よりも長くこのフライパンを磨き続けた。それは、不完全な自分を許さないという、自分自身への誓いだった」


しかし、その「完璧の城」を一瞬で崩壊させたのは、一皿のビスクだった。


伊織の妻は、病に倒れ、長期入院をしていた。

その病は、五感、特に味覚の一部を奪うものだった。

妻の退院の日、伊織は、自身の技術の集大成ともいえる、完璧な「甲殻類のビスク」を準備した。


それは、彼の『完璧の城』を支える、技術の頂点を示す一皿だった。


「まず、使用する甲殻類は、その日の最高の鮮度を誇るオマール海老の頭部と、ワタリガニの爪のみを選別した。その殻を1mm以下のサイズに砕き、焦げ付きを恐れず、しかし一切の苦味を出さない厳密な温度で炒める。香ばしさを極限まで引き出した後、最高の熟成を遂げたコニャックでデグラッセ(フランベ)し、複雑な香りの層を完璧に作り上げた」


「出汁は、朝の4時から、12時間かけて一滴の濁りも出さずに抽出した。水温のコントロールを徹底し、一秒たりとも沸騰させずに旨味だけを引き出す。アクは、鏡に映る埃を払うように、微細な泡まで徹底的に除去した。技術的には、世界に存在するどのビスクよりも完全な一皿だと、私は確信していた」


仕上げの乳化も完璧だった。

最高級の生クリームを加え、火から上げた後の余熱だけで、ソースの粒子がナノレベルで均一に結合するよう制御した。

それは、もはや料理ではなく、化学の領域だった。


伊織は、そのビスクを妻の前のテーブルに置いた。

鮮やかなサンゴのようなオレンジ色のスープは、静かに湯気を立て、空間に芳醇で複雑な甲殻類の香りを満たした。

伊織は、「これなら、きっと、味覚を失った彼女の脳にも、香りとテクスチャを通して、感動が届く」と、傲慢なまでに信じていた。


伊織の渾身の一皿が妻の前に運ばれたとき、妻は涙を流して喜び、金色に輝くスプーンを震える手で持った。


一口目。

妻は目を閉じて、そのビスクを口に含んだ。

伊織は、妻の顔に期待と安堵の表情が浮かぶのを、固唾を飲んで待った。

しかし、喜びの表情は、すぐに微かな戸惑いへと変わった。

彼女の眉間に、「何を味わっているのだろう」という、迷いの皺が刻まれた。


そして、彼女は、そのスプーンを途中で止めてしまった。


伊織は不安に駆られ、彼女に尋ねた。

「どうした、ユキ。どこか、味が変か?」


ユキは、ゆっくりと目を開き、その瞳に宿る「寂しさ」を伊織にぶつけた。


「ごめんね、伊織。このビスクの『形』と『香り』は、世界で一番美しい。あなたが、私を想って、どれほどの完璧を尽くしたか、その『技術の重さ』は、この器を通して伝わってくる」


彼女は、スプーンの残りのビスクを見つめ、静かに言った。


「だけど……この味が、よく分からないの。何かが、足りていない気がする。この完璧な味は、私の『心』の隙間に、入ってきてくれない」


その言葉は、伊織の料理人としてのアイデンティティを、音もなく叩き壊した。

伊織は、完璧な技術さえあれば、味覚を失った妻の心にさえ、料理の「本質」が届くと傲慢にも信じていた。

しかし、彼の料理は、完璧すぎて、食べる側の「心」や「孤独」が入る余白を、全て排除していたのだ。


ユキは、伊織が絶望に沈むのを見て、優しく微笑み、彼の手にそっと触れた。


「でも、大丈夫。このビスクは、あなたが心を込めて、私のために完璧を目指してくれたということが、ちゃんと分かる。その気持ちは、器の温かさとして、ここに残っているよ。すごく、温かい」


「私の完璧な料理は、妻の愛に、応えられなかった。技術は頂点に達したが、そこに『人間』がいなかった。その瞬間、私の愛した『完璧』は、妻の目の前で、『空虚』になった」


伊織は、その日以降、二度とこのフライパンを使わなかった。

彼はレストランを辞め、この「ほろほろ」を開く際に、他の全ての道具は磨き上げ直したが、このフライパンだけは、調理を拒否し、磨かれることを拒否したまま、放置した。


「この錆は、私の『敗北の記憶』であり、鉄が流した涙だ。磨けば、完璧な輝きを取り戻す。だが、私はあえてこの錆を放置し、私の未完成さ、不完全さを受け入れることを学んだ」


伊織は結の目を真っ直ぐに見つめた。


「結。あんたは、私の料理の力が、『心の原典に寄り添う、静かな『余白の温度』だと理解してくれた。…その通りだ。だが、私は、その『余白』を、ただの『隙間』とは呼ばない。結、この『余白』とは、一体何だ?」


伊織の問いは、優しくも鋭く、結の心の最も深い場所を突いた。

結は反射的に答えることができず、錆びたフライパンの粗い表面をじっと見つめた。

そこには、伊織の輝かしい過去と、彼の絶望が、酸素と水という名の「不純物」によって封じ込められていた。


結は、ゆっくりと、しかし確信を持って言葉を紡いだ。


「余白は……不純物です。伊織さんの料理は、あえて論理の外側を残すことで、客が自分の感情や記憶を置ける『隙間』を作っている……」


結はフライパンを指差した。

「この錆は、完璧であることをやめた、伊織さんの『人間』としての宣言です。鉄は、酸素と水という『不純物』を受け入れることで錆となる。完璧な料理人が、不完全な人間となった証です」


彼女の言葉に、伊織は静かに、しかし深く頷いた。

彼の表情は、結が自身の過去の過ちを、完全に理解し受け入れたことへの、安堵と喜びで満ちていた。


「そうだ、結。あんたの言う通りだ」伊織の声は、静かな力強さを帯びていた。

「完璧は、不純物を恐れる。だが、愛は、不純物を受け入れる。この錆こそが、その『隙間』の原点だ」


伊織はフライパンから目を離し、再び結の瞳を見つめた。


「そして、お客が抱える『錆(後悔や傷)』も、磨き落とすべき不純物ではない。それは、その人が生きてきた証であり、受け入れて、愛すべき『不完全さ』だ。この店の料理は、その錆を磨き落とすのではなく、その錆ごと優しく包み込み、肯定するためにある」


伊織の料理の真の力は、完璧な技術の延長線上にあるのではなく、完璧な技術を捨て、不完全さを受け入れた「敗北の経験」の後に生まれたものだった。

彼は、完璧な料理人であることを辞め、一人の人間として、客の心と向き合うことを選んだのだ。


「あんたは、この錆を読み解いた。これで、この店の『心の原典』は、あんたの心の中にも深く刻まれたことになる」


伊織は、錆びたフライパンを再び調理台の隅に戻した。


「さあ、結。今日の料理は、あんたの番だ。今日、扉を開けて入ってくる客の『心にある錆』を、あんたの料理で、どう受け入れてやるか、見せてみろ」

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