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第11話 寂しさを包む、ふきのとうのほろ苦い「余韻」

 伊織によって、その存在が「最後の封印」だと明かされた「錆びたフライパン」の謎。

 ゆうの心は、師の過去の影と、これから挑むべき「最も難しいメニュー」への緊張感で満たされていた。

 しかし、伊織はそれ以上何も語らず、静かに次の日の準備を始めた。


 季節は、やわらかな雨と日差しを伴い、本格的な春の訪れを迎えていた。店の扉を開けると、土の湿った匂いと、微かな生命の芽吹きの香りが混じり合う。


 その日の昼過ぎ、一人の若い女性客が入ってきた。

 田中という名の彼女は、この街に住むOLで、いつもは週末に友人と来店する常連だったが、今日は珍しく一人だった。


「伊織さん、結さん。お久しぶりです。今日は…春だから、何か明るくて、元気になるものをください!」


 彼女の言葉は快活で、笑顔も明るい。

 だが、結は、田中さんのカウンターの前に置かれた大きなボストンバッグと、その笑顔の奥に張り付いた、微かな「寂しさ」を見逃さなかった。

 田中さんの瞳は、何度も店の奥の壁にかけられた古いカレンダー(4月の欄に大きく「異動」と書き込まれていた)を見ていた。


(明るいもの……ではなく、明るく振る舞いたいんだ)


 結の脳裏に、伊織の言葉が響いた。

「客の心に訊け。『今日、あんたが本当に食べるべきものは何だ?』と」


 田中さんが本当に求めているのは、派手な彩りや刺激的な味ではない。

 新しい環境への期待と同じくらい存在する、慣れた場所を離れる「寂しさ」や「不安」を、誰かにそっと肯定してほしいのではないか。


 結は、伊織と目を合わせることなく、厨房の片隅に置かれていた、昨日届いたばかりのふきのとうの籠に視線を移した。


「田中さん。明るさよりも、今日は『新しい出発を祝う、ふきのとうの天ぷら』をお出しさせてください」


 田中さんは意外そうな顔をした。

「ふきのとうですか。苦いですよね?」


「はい。少しほろ苦いです。でも、その苦さが、きっと田中さんの背中を押してくれると思います」


 結の口から出た言葉は、伊織の真似ではなく、彼女自身の「心の翻訳」だった。伊織は、その結の決断を、無言で、しかし満足そうに頷いて受け入れた。


 結は、ふきのとうの天ぷらの調理に取り掛かった。


 まず、籠の中から、まだ花弁を固く閉じたままの、張りのあるふきのとうを選び出す。

 その葉の濃い緑と、わずかに残る土色の産毛は、春の力強い生命力をそのまま伝えていた。

 ふきのとうは、あえて水に晒しすぎず、その苦味の「芯」をしっかりと残した。

 この苦味こそが、別れや不安という、人生の避けて通れない「ほろ苦さ」を象徴するものだった。


 次に、衣の準備。結は、ボウルに冷水と、数個の氷を入れ、フレンチの技法で学んだグルテンの生成を極限まで抑える配合比で小麦粉を加える。

 混ぜる回数はわずか3回。

 混ぜすぎれば粘りが出て、ふきのとうの繊細な香りを衣で閉じ込めてしまう。

 この「静かなる衣」は、まるで食材の透明なベールのようだった。


油温は170℃の菜種油。結は温度計に頼らず、親指を立て、油の表面に近づけて熱気が肌に到達するまでの「一瞬の間」で、完璧な温度を判断した。

ふきのとうをそっと油に入れると、「サーッ」という、まるで絹を引き裂くような、静かで澄んだ音が響いた。


 最初に油に沈んだふきのとうは、すぐに細かな気泡をまといながら浮き上がる。

 結は、ここで一度油から引き上げ、余熱で内部の苦味の芯を均一に加熱する。

 そして、油温を180℃上げて、二度目の瞬間の揚げる工程に入る。

 この高温で揚げることで、衣の水分が一気に蒸発し、極限まで軽い「サクッ」とした食感と、美しい黄金色の焼き色が完成するのだ。


 結は、揚がった天ぷらを、一切油を切るためのペーパーを使わず、自らの精緻な技術だけで油切れを完璧にした揚げ網に載せ、熱いうちにミネラル分の強い岩塩と一緒に出した。


 皿に盛られたふきのとうの天ぷらは、まるで春の野に立つ小さな黄金の炎のように、瑞々しく輝いていた。


 田中さんは、その天ぷらを見て、一瞬、たじろいだ。

 彼女が求めた「明るくて元気が出るもの」とは、色彩豊かなサラダや、ガツンとくる肉料理だったはずだ。

 目の前にあるのは、見た目こそ完璧だが、その本質は「苦い」と宣言された、潔癖なほどシンプルな一皿。


 田中さんは、少し緊張した面持ちで、箸で天ぷらを一つ掴んだ。

 その衣は、空気のように軽く、熱気がまだ微かに指先に伝わってくる。

 彼女は、まるで新しい人生の一歩を踏み出すかのように、ゆっくりと口に運んだ。


 まず、サクッと軽い衣が砕けた。その音は、静かな店内に響く、決意の銃声のようだった。

 衣を破って、その直後、強烈で、鼻の奥をツンと刺すような「苦味」が、彼女の舌と上顎を襲った。


 「っ……苦い!」田中さんは思わず目を見開いた。

 その苦さは、単なる食材の味ではない。

 それは、彼女が必死に隠し、「大丈夫、私は元気」という笑顔の裏に押し込めていた、「この街を離れることへの寂しさ」と「新しい環境への恐怖」の味だった。


(違う!私は、こんな感情はもう終わらせたかったのに!)


 彼女は、その苦さを拒絶しようとしたが、伊織と結の静かな視線に射抜かれ、咀嚼を続けた。

 すると、噛みしめるごとに、その苦味の根っこから、清々しい山菜特有の「香り」と力強い「甘み」が湧き上がってきた。油の香ばしさが、その苦味と甘みを優しく包み込み、全てを肯定するような温かい「滋味」へと変化させていく。


 この味は、田中さんの心に深く響いた。

 それはまるで、誰かに「寂しいんだね。それでいいんだよ」と、肩を抱かれたような感覚だった。

 苦味があったからこそ、この甘みと香りの昇華が、より深く、力強く感じられる。


 田中さんの目尻に、一筋の涙が滲んだ。

 それは、我慢していた感情が解放された、安堵の涙だった。

 彼女はボストンバッグの紐をそっと握りしめた。

 バッグの中には、見知らぬ街で使う新しい名刺と、不安を煽る研修資料が入っている。


(この苦味は、逃げられない別れの痛み。でも、この甘みが、それを乗り越えた先の「私の力」になるんだ)


 彼女は、次の一口を、もはや「食べる」というより「受け入れる」ように運んだ。

 青々としたふきのとうの香りは、春の風のように彼女の不安を吹き飛ばし、心の底から湧き上がるエネルギーを与えた。


 全てを食べ終え、田中さんは、器に残った岩塩の微かなキラメキを見つめた。

 彼女は、最初とは違う、心の底から解放されたような、静かで強い笑顔で結を見つめた。


「ありがとうございます、結さん。この天ぷら、本当に新しい門出の味でした。苦くて、温かくて、最後に『大丈夫だよ』って言ってくれるみたいでした。私、大丈夫です。この苦味を忘れないで、新しい生活を始めます」」


 結は、田中さんの心の奥の「寂しさ」を、「苦味」という形で読み解き、それを「甘さ」へと昇華させたのだ。


 伊織は、厨房で静かにその様子を見守っていた。


「結。おめでとう」伊織が言った。


 「心のメニュー」は、客の表面的な欲望を満たすことではない。

 それは、客の「光」だけでなく、その心に潜む「影」をも見つめ、その影を肯定し、癒し、未来への栄養に変えること。


 結は、この日、伊織の料理が客の心に触れる、その「本質」を掴んだ。

 それは、「心の原典に寄り添う、静かな『余白の温度』」そのものだった。

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