第10話 決意を固めるための、結の渾身のまかない飯
「客の『心』をメニューにする店」――。
結の修行の目的は、完全に明確になった。
それは、伊織の神業的な「技術」を盗むことではなく、その料理の根底にある「心の秘密」、すなわち、客の真の願いをどう見抜き、どう料理に昇華させるのかという、伊織の「思想」を理解することだった。
「伊織さん。今日のまかないは、私が作らせてください」
結は、開店前の掃除を終えると、まっすぐ伊織に向かって宣言した。
伊織は驚くこともなく、穏やかな目で結を見た。
「いいだろう。だが、客は二人。私と、あんた自身だ。このまかないは、あんた自身の決意の表明だと思え」
結は深く頷き、厨房に立った。
今日、彼女が選んだのは、自身の原点であるフレンチの技法を、日本の食材と伊織の教えで再構築する、「鶏むね肉と冬野菜のポトフ風」だった。
ポトフは、フレンチの基礎であり、素材の持ち味を最大限に引き出す「抽出の料理」だ。
結はまず、鶏むね肉の分厚いブロックを用意した。
余分な脂や筋を丁寧にトリミングした後、肉全体に海塩を均一に振り、冷蔵庫で30分間「肉の意識」を静かに目覚めさせた。
これが、肉の細胞に水分を閉じ込める、結がパリで学んだ繊細な塩の魔法だった。
次に、ブイヨン。
一度も沸騰させない、温度計で厳密に80℃を保った「湯煎の抱擁」のような熱で、鶏むね肉をじっくりと加熱した。
これまでの彼女なら、ここでタイムやローリエをたっぷり加えたが、今回は伊織の教えに従い、具材以外の香料を極限まで排除し、肉と水の対話に耳を傾けた。
根菜の準備も繊細だった。
大根、人参、カブは、その断面が真珠のように均一な輝きを持つよう、一切の誤差なく同じ大きさにカットされる。
結は、これらをフレンチのブイヨンではなく、最高級の利尻昆布で引いた透明な出汁で一度さっと蒸し煮にした。
昆布の静かな旨味を熱源とすることで、野菜の細胞膜を破ることなく、内部の「静かな甘み」をそっと外へと誘い出すことを試みたのだ。
(完璧さだけじゃない。このブイヨンは、素材の『声』だけを拾っている……)
鶏むね肉は、芯まで完璧に火が通りながらも、驚くほどしっとりとして、まるで白磁のような光沢を放っていた。
その切り口の滑らかさは、結がパリの最高峰の店で学んだ「技術の証明」であり、同時に「心の安定」を示していた。
ブイヨンは、鶏肉と根菜から染み出した旨味が昆布の透明な旨味と融合し、金色に輝く「澄んだ意志」のようなスープになった。
アクはすべて取り除かれ、その清澄さは、底が見えるほどだった。
結は、大振りの皿に、鶏肉と野菜を美しく、しかし肩肘張らない配置で盛り付け、最後にそのブイヨンを静かに注いだ。
立ち上る湯気は、優しく甘い香りを放ち、決意の朝の緊張を和らげるようだった。
「できました。結のまかない飯、『静かなるポトフ』です」
伊織は、皿をじっと見つめ、箸ではなく、フォークを手にした。
彼は、一切の言葉を発することなく、まずスープを一口飲んだ。
伊織の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
それは、これまでの料理を褒める時の「穏やかな笑み」とは異なり、結の「覚悟」を認める、力強い笑みだった。
「このスープには、あんたの『迷いの終わり』が溶け込んでいる。そして、『始まりの静けさ』がある」
結は、伊織の言葉に胸が熱くなった。伊織は、一口のスープから、結の内心を全て見抜いていた。
結はポトフの鶏むね肉を口に運んだ。
しっとりとした肉質は、これまでの修行で培った精緻な温度管理の成果を証明している。
しかし、その時、舌の奥で感じたのは、昆布出汁が持つ、「すべてを受け入れる」ような静かな旨味だった。
これは、完璧さを追求していたパリ時代には存在しなかった、「余白」の味だった。
「伊織さん、この出汁は…自己主張がありません。でも、だからこそ、鶏の滋味も、野菜の甘みも、全てが際立つ。私が学んできたフレンチのブイヨンは、もっと前へ出る、『主役』の味でした。でも、これは…『舞台』ですね」
伊織は、スープ皿の縁にそっとフォークを置いた。
「あんたは、ついにその『余白』を理解した。完璧な皿を目指す者は、余白を『未完成』と呼ぶ。だが、心の料理人は、余白を『受容』と呼ぶ。そこにあるからこそ、客は自分の問いを置く場所を見つけられる」
結は、胸の高鳴りを感じた。このポトフは、彼女がフレンチの完璧主義という呪縛から完全に解き放たれ、伊織の哲学の扉を開いた瞬間だった。
その瞬間、結の視線は、伊織の調理台の隅に置かれた、使い古された「錆びたフライパン」に引き寄せられた。
それは、伊織が一度も使っているのを見たことのない、他の道具とは異質な、黒く、深い錆がこびりついた、古い鉄のフライパンだった。
他の道具は磨き上げられているのに、これだけが、まるで時間の流れから置き去りにされた、伊織の過去の「傷」のようだった。
その錆は、結が知るフレンチの厨房の「光沢」とは、あまりにもかけ離れた、「影」そのものだった。
結は、ポトフの皿を見つめ、決意を固めた。
「伊織さん。私、聞きたいことがあります。それは、この店のメニューのことでも、技術のことでもない。……伊織さんのことです」
伊織は、鶏むね肉の最後のひときれを口に入れ、フォークを静かに置いた。その動作は、まるで儀式の終わりのように静謐だった。
「この店のメニューは、客の心。ですが、伊織さんの心は、あの錆びたフライパンの中にある気がします。他の道具は磨き上げられているのに、あれだけが、まるで時間を止めたままの『後悔』のように、そこに置かれている。私に、そのフライパンの蓋を開けさせてくれませんか? 私が、この店で学ぶべき『心の秘密』は、あの錆の中にあると直感しています」
結は一歩、フライパンに近づいた。
その錆は、単なる酸化ではなく、伊織の人生の重み、そして過去に調理しきれなかった、あるいは調理を許されなかった、「未完の料理」の痕跡に見えた。
結の瞳には、かつての完璧な料理人を目指していた時のような迷いはもうなかった。
そこにあるのは、師の秘密、そしてこの店の力の源に辿り着こうとする、揺るぎない探求心だけだった。
伊織は、結の真剣な眼差しから一瞬たりとも目を離さず、ゆっくりと笑みを深めた。
その笑みは、悲しみの色を含みながらも、結の成長を喜ぶものだった。
「結。あんたは、本当に『心のメニュー』を読み始めたようだな。他人の皿ではなく、私という人間の『原典』に手を伸ばそうとしている」
伊織は、錆びたフライパンにそっと指先で触れた。
「その問いへの答えは、まだ早い。だが、あんたの『心に訊く』という修行は、ようやく、本当の入り口に立ったようだな。あのフライパンは、ただの鉄の塊ではない。あれは、私がこの店を開く前に、『調理を拒否した過去』を封じ込めた『最後の封印』だ。」
「それが開く時、あんたは私という人間のすべてを知るだろう。そして、あんた自身の『完全』の定義を、再び壊すことになる。」
「これは、あんた自身のための、最も難しいメニューだ。」
伊織の言葉は、結が真の「心の料理人」へと進むために、避けて通れない試練が、この錆びたフライパンの謎に隠されていることを示唆していた。結の修行は、ここから、伊織の「過去」を探る旅へと、舵を切ることになった。