第1話 再起の具だくさん味噌汁
雨が降っていた。
東京の路地の奥、古びたビルの裏側を濡らす、冷たくて意地悪な雨だ。
佐伯 結は、フードを深く被り、アスファルトの隅を歩いていた。
視界に入るのは、薄汚れたコンクリートと、水たまりにぼやけて映るネオンの残骸だけ。
それらは、結の心の底に澱んだ、どす黒い虚無感をそのまま映し出しているように見えた。
三日前、結は勤めていた有名フレンチレストランを辞めた。
正確には、辞めさせられたのだ。
師匠と仰いでいたシェフの顔に泥を塗り、店を揺るがすほどの失敗を犯したからだ。
十年間、すべてを捧げた「料理」という道は、たった一晩で結を裏切り、その手のひらから滑り落ちた。
「お前には才能がない。情熱も覚悟も、何一つ足りていない」
シェフの冷酷な言葉が、雨音よりも大きく、耳の奥で反響する。才能。覚悟。
それらを問われるたび、結は自分が立っている足元が、ただの泥だと悟った。
もう料理を作る気力もない。
食材に触ることも、火の前に立つことも、恐ろしかった。
目的もなく彷徨い、体は冷え切り、胃は空っぽだった。
食べる行為すら面倒に感じていた。
どこか人目のつかない場所で、このまま消えてしまえればいいのに。
その時だった。
冷たい雨の空気の中、わずかに温度を帯びた、馥郁とした香りが鼻腔をくすぐった。
結は立ち止まった。
それは、油やスパイス、華美なソースの匂いとはかけ離れた、極めて素朴な香りだった。
昆布と鰹節。煮干し。
水と命が熱で交わり合うことで生まれる、日本人の魂に刻まれた匂い。
だしの香りだ。
顔を上げると、錆びた鉄骨と蔦に覆われた細い路地の先に、小さな光が見えた。
まるで、世界の片隅に忘れられた古いおもちゃ箱のように、木造の古い建物が佇んでいる。
その木枠のガラス戸には、手書きの看板がかかっていた。
「よろず料理店」
「よろず……?」
店の名前はよくわからないが、ガラス戸から漏れる灯りは、雨に濡れて凍えた結の心に、そっと触れてくるように温かだった。
気づけば、結は吸い込まれるように扉を開けていた。
カラン、と古びた鈴が鳴る。
店の中は、外の喧騒が嘘のように静かで、時間の流れが緩やかだった。
カウンターとテーブルが二つ。
古い木材が磨き込まれ、清潔な空気が流れている。
そして、目の前に広がる厨房。
ピカピカに磨かれた鍋と、整然と並ぶ調味料。
カウンターの中には、一人の老人が立っていた。
白髪交じりの短髪、背筋は伸びていて、着古した調理着を着ている。
その静かな佇まいは、まるで長い年月をかけて完成された工芸品のようだった。
老人は結を一瞥し、ゆっくりと口を開いた。
「いらっしゃい。雨が酷いね」
その声は静かで、深く、結の心のざわめきを鎮める力を持っていた。
「あの……」結は喉の奥にへばりついた声をやっと絞り出した。
「ここは、料理店、ですよね。メニューは……」
老人は、微笑みとも無関心とも取れる、静かな眼差しを結に向けた。
その瞳は、結の着ている濡れたコートや顔色だけでなく、結の心の中のすべてを見通しているように感じられた。
「メニューはないよ」老人は淡々と答える。
「この店は、あんたの胃と心が、今、本当に欲しているものを作る。そう、よろず、だ」
結は戸惑った。
何を注文すればいいのかわからない。
食べたいものが、自分でもわからないのだ。
しかし、この老人の前では、偽れない気がした。
「私は……何も……食べる資格なんて、ないかもしれません」
結の言葉に、老人は何も言わず、ただ静かに頷いた。
「そうか。ならば、私から出そう」
老人は結の向かい側に座るように促し、ゆっくりと奥の台所へ入った。
その背中からは、結の虚無感を受け入れ、優しく包み込むような静かな覚悟が感じられた。
調理の音は驚くほど静かだった。
伊織は、まずまな板の上に用意された大根、人参、里芋を、迷いのない手つきでごろりと大きく切り分ける。
フレンチで培った、正確無比な結の包丁さばきとは違い、伊織の切り口はどこか不揃いで、素朴で力強かった。
その不揃いな形が、結の心の乱雑さを肯定しているように見えた。
里芋は皮を剥き、あらかじめ米の研ぎ汁で下茹でされていたのだろうか、水気を拭き取った断面は滑らかで、白く輝いていた。
伊織はそれらを、カウンター奥に置かれた磨き上げられた小ぶりの土鍋へ、音を立てないようにそっと入れる。
次に、結を捉えたあの馥郁たる香りの元である、澄んだだしを丁寧に注ぎ入れる。
だしの表面には繊細な油膜すら浮いておらず、ただ透明な琥珀色が、具材を包み込んだ。
伊織は極薄に切った絹ごし豆腐を、崩れやすいにもかかわらず、指先で優しく押し込むようにして鍋に加えた。
静かに火にかけた後の伊織は、まるで火の番人のようだった。
結の視線は無意識に伊織の手元に釘付けになった。
伊織は決して火を強くせず、土鍋全体に均等に熱が回るように、僅かに火の位置を調整する。
鍋の底から聞こえる、コトコトという小さな音。
それは雨音とは違う、命が煮詰まる、優しくて規則正しい音だった。
結はその音に、久しぶりに時間の流れを感じた。
完璧な火加減で具材が煮込まれる間、伊織はカウンターを丁寧に拭き、結の目の前にはふっくらと炊けた白いご飯が飯碗に盛られた。
すべてが静かに、淀みなく行われていく。
まるで、伊織の手元から余計な雑念が一切排除されているかのように。
そして、具材が柔らかく煮えた頃
――特に里芋が、箸を入れずとも崩れそうになる最高の瞬間を見計らって――
伊織は、専用の味噌漉しを使い、赤味噌と白味噌をブレンドした合わせ味噌を丁寧に溶き入れた。
その動作は最小限で、決して味噌の香りが飛びすぎないように、細心の注意が払われていた。
溶けた味噌はだしの琥珀色と混ざり合い、深くて温かい焦げ茶色へと変化していった。
やがて、その老人が、音もなく結の前に一つの飯碗と、深い色をした汁椀を置いた。
飯碗には、湯気が立つ炊きたての白いご飯。
そして汁椀には、立ち昇る湯気で顔が覆われそうなほど温かい、具だくさんの味噌汁が並んでいた。
最後に、伊織は鮮やかな緑のネギを散らす。
「さあ、どうぞ」
老人はそう言って、結の隣に静かに座った。
結はその味噌汁を見つめた。大きな大根、人参、里芋、そして濃い緑のネギ。
一つ一つが、自分の存在を主張するように、力強く汁の中に佇んでいる。
結は意を決して、椀に口をつけた。
熱い。
けれど、最初に入ってきたのは、その温度ではなく、何層にも重なっただしの、途方もない深みだった。
疲弊しきっていた舌が、その瞬間、蘇ったように命を帯びた。
昆布の静かな旨み。
鰹節の力強い風味。そして、大地の恵みである根菜の、凝縮された甘み。
すべての具材が、「生きろ」と語りかけているようだ。
里芋を噛んだ。
ほろほろと口の中で崩れ、まろやかな甘さが広がる。
それは、結が料理を始めるずっと前に、祖母が冬の日に作ってくれた、あの温かい味だった。
涙が、止まらなかった。
結は味噌汁の椀を両手で包み込み、熱さと重みを確かめた。
その温かさが、冷え切っていた胃袋、そして心を、確実に溶かしていく。
「……美味しい、です」
結は泣きながら、十年分の後悔と挫折を吐き出すようにそう言った。
隣に座る伊織は、静かに味噌汁をすすりながら、結に語りかけた。
「食えるか?」
結は、泣き腫らした顔で頷いた。
「ああ、食えたなら、まだ生きられる」伊織は静かに言った。
「食べるということは、そういうことだ」
結は、全てを失ったと思っていた。
だが、この小さな裏路地の店で、この再起の具だくさん味噌汁を前にして、初めて気づいた。
自分は、まだ生きている。
そして、この温かい場所で、もう一度、何かを「結びつける」ことができるかもしれないと。