継姉、閉ざされた扉を開きたくて
朝の陽が、テーブルクロスにやわらかく反射していた。
貴族の食卓とは思えないほど静かなその部屋に、今日はほんのわずかな変化があった。
「……おはよう、セラフィオス様、セラフィー様」
リセルが椅子に腰を下ろしながら声をかけると、セラフィオスが一瞬だけこちらを見て、軽くうなずいた。
それだけのことなのに、彼の隣で小さく目を見開いたセラフィーの反応が印象的だった。
(……今の、ちゃんと“返事”だった)
まだぎこちない。けれど確かに、昨日までとは違う何かがある。
セラフィーも、そっと自分のスプーンに手を伸ばし、ミルク粥を少しだけすくってみせた。
リセルは心の中でそっとガッツポーズを決める。
(うん、いい傾向。やっぱり昨日の絵本、ちゃんと届いてたんだ)
子どもたちの間にある、無言の距離。
それを埋めるように、彼らのまなざしが少しずつリセルへと向き始めている。
すると、給仕をしていた年配の女中がふと口をつぐんだ後、小さくつぶやいた。
「……奥様とは、えらい違いですねぇ。お嬢様は」
「え?」
「いえ、失礼いたしました、お嬢様」
気まずそうに言葉を引っ込めた女中の後ろ姿を見送りながら、リセルはわずかに微笑んだ。
この屋敷に来てから、何度も感じていること。母――フローラのふるまいと、自分との対比。
(あの人がここに来てから、ずっと“自分のこと”しか考えてない)
その娘が、今こうして、何よりも双子のことを優先して動いている。
皮肉に満ちた構図。でも、それでいい。
(私は、あの子たちを――ちゃんと見ているから)
今日の食卓には、昨日にはなかった小さな“ぬくもり”が、たしかに灯っていた。
朝食が終わった後、リセルは給仕を終えた乳母に声をかけた。
双子たちが部屋に戻るのを見送ってからの、短い会話。
「少し、お話しできますか?」
「……もちろんでございます、お嬢様。わたくしでお力になれることがあれば」
彼女は五十代ほどの女性で、顔に刻まれた皺よりも、その瞳の奥に宿る疲れが印象的だった。
リセルの申し出に、静かに頷いてソファへ腰を下ろす。
「セラフィオス様とセラフィー様のことを、少し聞きたくて。……あの子たち、今までどんなふうに育てられてきたんですか?」
乳母は一度だけ小さく目を伏せ、それから少しずつ語り始めた。
「お二人が生まれた時、公爵様は……奥方様を亡くされて間もなくで、“周囲には”深い悲しみに暮れておられると伝えられました。
ですが実際には……お子さまたちのお姿を見るたび、前の奥方様のことを思い出してしまうらしく、それが……とてもお辛いようで」
リセルはそっと頷く。聞くまでもなく、察していたことだった。
「だから、わたくしや使用人たちで手分けして、できるだけ静かに、目立たないように育てるように、と。
声を上げず、大人しく、誰の迷惑にもならぬように。……それが、この屋敷での“正解”とされてきたのです」
(……そんなの、子どもにとって“生きてる”って言える?)
リセルは心の奥が締めつけられるような気持ちになった。
「けれど、お嬢様がいらしてから……ほんの数日で、あの子たちの表情が、ほんの少しですが変わってきたように思います」
乳母の声に、リセルははっとする。
「……それは、私が壊してるってことかもしれません」
「壊している……?」
「はい。この屋敷で、長く続いてきた“静かに、目立たず生きる”というルールを。
でも、壊したいんです。壊さなきゃ、あの子たちは……」
言葉を切って、リセルは拳をぎゅっと握りしめた。
「私は、“破壊者”でも、“導き手”でも、どっちでも構わない。
ただ……あの子たちが、笑ってくれるなら」
乳母は黙って、それを聞いていた。
やがてそっと立ち上がり、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます。どうか、あの子たちを……」
「もちろんです。任せてください」
その言葉には、リセル自身の意思だけでなく、前世から持ち込んだ“経験”の重みも宿っていた。
翌日――
「お嬢様……」
声をかけてきたのは、昨日、食卓を共にした乳母だった。
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。何かありましたか?」
リセルが応じると、乳母はほんのわずかに周囲を見回し、小声で口を開いた。
「……昨夜、セラフィオス様が泣かれていたのです。セラフィー様に気づかれまいと、必死に声を抑えながら」
リセルは胸が締めつけられるような気持ちになった。
「そう……だったんですね」
「私たちも……どうにかしたいとは思っていたのです。でも、公爵様のご意向には逆らえず……」
乳母はうつむき、苦しげに言葉をつなぐ。
「お二人が生まれた時、公爵様は……奥方様を亡くされて間もなくで、“周囲には”深い悲しみに暮れておられると伝えられました。
ですが実際には……お子さまたちのお姿を見るたび、前の奥方様のことを思い出してしまうらしく、それが……とてもお辛いようで」
それは、“避けている”のではなく、“直視できない”という拒絶だったのだ。
(……そんなことって)
リセルは言葉を失った。
「セラフィオス様は……セラフィー様を守らねばと、幼いながらにずっと気を張っておられました。お姉様がいらしてから、少しずつ変わり始めているように見えるのです」
「……ありがとうございます。教えてくださって」
リセルは軽く頭を下げ、ふと考える。
(私なんかが、どこまでできるか分からない。でも)
「せめて、あの子たちのそばにいたい。……私が、あの子たちを笑顔にする」
その目は、もう迷っていなかった。
翌朝。まだ少し肌寒さの残る時間帯。
日差しがようやく差し込みはじめた子ども部屋に、リセルはそっと扉を開けて入った。
「おはよう、セラフィオス様、セラフィー様」
声をかけながらも、昨日と同じように距離をとって、床の上に座る。
手には、あの夜に完成させた――世界に一冊だけの絵本。
二人の姿は、昨日と同じ場所。ドアの近く。
セラフィオスは、妹をかばうように前に立ち、警戒を崩さない。
セラフィーは兄の影に半分隠れながらも、じっとリセルを見ていた。
(……でも)
昨日と違うのは、二人の視線が、リセルの手元にある絵本に向けられていること。
「今日はね、あなたたちにひとつ、また新しいお話を読んであげたくて来たの」
紙に手描きで綴られた物語。
『おひさまと おちびうさぎ』――。
優しいおひさまとうさぎの子が、少しずつ仲良くなっていくお話。
言葉は簡単に。絵はやわらかく、あたたかく。
まだ読み書きができなくても、感情にふれるように意識して作った。
「むかしむかし、あるところに、ちいさな うさぎがいました。うさぎは、とても さみしがりやで……」
声に出して読み上げていくと、ぴくり、とセラフィーの肩が動いた。
兄の背中にしがみついていた手が、ゆっくりと離れていく。
(……来る?)
リセルは手を止めずに、言葉を重ねる。
「あるひ、うさぎは ひとりで あるいていると、あかるい ひかりに つつまれました。それは、おひさまでした」
その時。
セラフィーが、小さな足で数歩――リセルの方へと近づいた。
(……!)
心臓が跳ねた。思わず、読み間違えそうになるのを堪えて、リセルはゆっくりと笑みを浮かべた。
そして、何事もなかったかのように、物語を続ける。
その姿を見ていたセラフィオスも、妹の後を追うように数歩進み、二人並んで、リセルの目の前に座った。
(……やっぱり、あの子たちは天使だ)
心の中で、何度目か分からないその言葉を繰り返した。
「おひさまは いいました。“ひとりじゃないよ。わたしは ずっと、そばにいるからね”」
絵本の最後のページまで読み終えると、セラフィーがぴくりと小さく反応した。
彼女の唇が、何かを言おうとして震えているように見えた。
(まだ早いかな。でも、届いたなら――)
「……ありがとう」
誰の声でもなかった。けれど、その空気には、確かな“感謝”があった。
リセルはゆっくりと絵本を閉じる。
そして、柔らかく声をかけた。
「また、明日も読んであげる。ね?」
午後の陽光が、柔らかく部屋に差し込む。
リセルは絵本の読み聞かせを終え、穏やかな空気の中でそっと本を閉じた。
「……これで、おしまい」
微笑んでそう言ったときだった。
す、と。
何かが近づく気配。
リセルがゆっくりと顔を上げると、そこには――
「……セラフィー様?」
妹が、兄の後ろから一歩踏み出していた。
その足取りはおぼつかなく、けれど確かな意志を感じさせるものだった。
そして、戸惑うように、けれど目をそらさずに、まっすぐリセルの前まで歩いてきて。
「……」
小さな手が、リセルのスカートの端を、きゅっとつまむ。
(……きた)
リセルの胸が、熱くなる。
何かを言いたそうに口を開いて、でもすぐ閉じて――
それを何度か繰り返して、セラフィーはついに、小さな声で。
「……はな」
「え?」
「おはな……きれい……」
リセルの目が、大きく見開かれた。
「……うん。ありがとう。セラフィー様」
(“おともだち”って言ってくれたあのときより、ずっとしっかりした声……)
リセルの胸が、じんわりと熱くなる。
思わず涙がにじみそうになるのをこらえて、リセルはゆっくりと微笑み返す。
(やっぱり……この子たちは、ちゃんと見てる。感じてる。怖がってるだけなんだ)
そして、後ろからそっと近づいてきたセラフィオスが、妹の頭に手を添えながら言った。
「ぼくも……あのお話、すき」
その声には、確かな光があった。
リセルは、小さな天使たちの変化に胸を震わせながら、そっと二人に手を伸ばす。
「これからも、いっぱいお話を読もうね」
手と手が、ふれる。
心が、ふれあう。
ああ、やっぱり。
この子たちは、世界一の――
(……天使だわ)