継姉、お菓子の大使にされる
訪問の知らせが届いたのは、まだ午前の光が窓辺を柔らかく照らしていた頃だった。リセルが扉の音に振り向くと、案内の使用人に続いて現れたのは、今日もどこか落ち着かない様子の少年――ルシアンだった。だが今回は、その手には何も持たれていない。代わりに彼の後ろから現れた従者が、両手で丁寧に抱えるようにして運んでくるものがあった。淡い紅色の布で包まれた籠。その中からは、ほんのりと甘い香りが立ち上り、部屋の空気をわずかに華やかに変えた。
「今日は、ぼくが選んだんだ。……持たせただけでいいって言った」
少し胸を張るようにして言ったその声は、わずかに早口だった。視線は不自然に泳いでいて、照れくささを隠しきれていない。
「まあ……それは楽しみですね」
リセルが優しく微笑むと、ルシアンは照れたように顔を逸らした。そのやりとりなどどこ吹く風とばかりに、セラフィーはすでに籠の中を覗き込み、ぱっと目を輝かせた。
「わあっ、これクッキー! タルト! ゼリーもある! ねえ、これ全部食べていいの!?」
歓声を上げたセラフィーが、期待に満ちた眼差しをルシアンに向ける。その勢いに、ルシアンの肩がびくりと震えた。
「……ぜんぶ、やる」
やや下を向いたまま、吐き出すようにそう答えた少年の頬は赤くなっていた。照れ隠しに目を逸らしながらも、はっきりとその言葉を口にする。
「ありがとう、ルシアン!」
セラフィーはそのまま駆け寄ろうとした。
「ち、近い!」
思わず一歩後退しながら叫ぶルシアン。けれどその声に怒気はなく、ただ真っ赤になった顔を隠すように半身をずらすだけだった。
リセルはその様子にくすりと微笑む。慌てている様子を見せながらも逃げ切らず、戸惑いながら受け止めようとしている彼の反応に、どこか微笑ましさを感じていた。
セラフィオスはそんなやりとりを少し離れた位置から静かに見つめていた。姉の隣に立ち、特に言葉は発さないまま、その表情にはわずかに陰が差していた。
「ルシアン様、本当にたくさん……お気遣い、ありがとうございます」
リセルが丁寧に頭を下げると、ルシアンはちらりと視線をこちらに向け、そしてすぐにまた逸らした。
「べ、別に……セラフィーが喜べば、それでいいし……」
小さく呟かれた言葉は、不器用ながらも誠実な本音だった。
「お姉ちゃん、これほんとに全部いいの?」
「もちろん。でも、夕飯が入らなくなっても知らないわよ?」
セラフィーが既に手にしたクッキーを見せると、リセルは肩をすくめて苦笑した。
「うん!」
満面の笑みで返事をするセラフィーの姿に、ルシアンの頬がまた少し赤くなる。
詰め合わせの籠の中には、見た目にも華やかな菓子がきちんと並べられていた。色とりどりのゼリーは宝石のように煌めき、タルトには新鮮な果物が美しくあしらわれている。包装も丁寧で、どれもこれも宮廷の品としても通用しそうな出来栄えだった。
だが、それよりもリセルが感心したのは、そこに込められた心だった。不器用な少年が、妹のために一生懸命に選んだことがはっきりと伝わってくる。こうした贈り物は、気持ちがなければただの形式に過ぎない。けれどルシアンの行動には、確かに子どもらしい温もりがあった。
「贈り物はとても嬉しいけれど、さっきも言った通り次からはお家の方にも一言、お伝えしておいてね」
タイミングを見て、リセルはやんわりとそう声をかけた。角が立たないように、けれど貴族としての配慮は教える必要がある。
「……姉さまは、厳しいな」
ルシアンはむすっとした顔でぼやいた。その口調には拗ねたような響きがあり、どこか安心したような雰囲気も感じられる。
リセルは返事をせず、ただ静かに笑って見せた。それがいちばん効果的だと、彼女はわかっていた。
そして、ルシアンがぽつりと、小さな声で言った。
「……ぼくも、“姉さま”って呼んでいい?」
声量はわずかで、けれどはっきりと届いた。彼はリセルのすぐそばに立ち、目を逸らしたまま、それでもまっすぐに問いかけていた。
リセルは目を見開き、ほんの少しだけ驚いたような表情を浮かべた。だが、すぐに穏やかな微笑を浮かべ、ゆっくりと頷いた。
「その気持ちが、続いたらね」
それは拒否ではない。けれど、簡単には与えない返答。リセルの声音はどこまでも柔らかく、しかし確かな距離感を含んでいた。
ルシアンはその言葉に小さく息を呑み、そして何も言わずに頷いた。
セラフィーが最初に声を上げたのは、ルシアンの問いかけとリセルの返答を聞き終えた直後だった。静かに交わされたやりとりの余韻もどこ吹く風とばかりに、彼女はぱっと笑顔をはじけさせる。
「ルシアン、ありがとーっ!」
その言葉と同時に、彼女はルシアンのほうへ小さく駆け出した。
「ちょっ、近い!」
ルシアンは慌てて一歩、いや二歩ほど後ずさりする。けれどその声に刺々しさはなく、むしろ頬を朱に染めたその表情は、どう見ても満更でもない。それどころか、ぎこちないながらもセラフィーを傷つけまいとするような気遣いが、彼の体の動きから滲んでいた。
「えへへっ、だって嬉しいんだもんっ」
セラフィーは両手でクッキーの箱を抱えながら、上機嫌に笑っている。ルシアンの反応などまるで気にしていない様子で、まるで自分にとっての宝物を受け取ったかのように、その菓子を胸に押し当てていた。
「すっごくいい匂い……これ、あとでアイスティーと一緒に食べる!」
「全部食べきれるのか?」
ルシアンが半分呆れたような声で言うと、セラフィーはにっこりと笑って「大丈夫!」と即答した。
「だって、お兄ちゃんにも分けてあげるもんねっ!」
「ぼくの分なんて最初からないだろ……」
ルシアンが小さくぼやいたが、その表情はどこか緩んでいた。彼の口調に鋭さはなく、ただ照れ隠しが混じっているだけだった。
「お姉ちゃんにお礼は?」
ふいに、後方から静かな声が投げかけられた。セラフィオスだ。腕を組んだままこちらに視線を向け、落ち着いた声でそう言った。
「え? あっ、うん! ありがとう、お姉ちゃん!」
言われてようやく思い出したように、セラフィーがリセルのほうに顔を向ける。そして、クッキーの箱を
両手で高く持ち上げるようにして見せた。
「こんなに素敵なの、持って来てくれてありがとう! ルシアンが選んでくれたけど、お姉ちゃんがちゃんと迎えてくれるから、もっと楽しいの!」
「ふふ、セラフィーの笑顔が見られたなら、私も嬉しいわ」
リセルは静かに微笑み、セラフィーの気持ちをしっかりと受け止めるように、柔らかな声でそう返す。その声音に込められた温かさに、セラフィーはまた照れくさそうに笑い、クッキーの箱を胸に抱え直した。
「ねえ、お姉ちゃん」
今度はセラフィオスがリセルに向かって言葉を投げる。声にはやや硬さがあり、どこか探るような響きを帯びていた。
「ルシアン様って、いつまでここに来るんだ?」
「セラ」
リセルはその言葉を穏やかに諫めるように呼んだだけだったが、セラフィオスはすぐに口をつぐんだ。ルシアンの耳にも届いていたその言葉に、彼がどう反応するかを気にしたのだろう。
だがルシアン自身は、気にしていない素振りを保ったまま、別の話題にすり替えるように言った。
「このゼリー、冷やしたらもっとおいしくなると思う。氷の部屋って、あったっけ?」
「ええ、地下にあります。使わせていただいて構いませんよ」
リセルが応じると、ルシアンはそれに軽く頷いた。
「じゃあ、半分は冷やしてもらおうかな。セラフィー、あとで一緒に取りに行こう」
「うんっ!」
セラフィーは嬉しそうに返事をして、クッキーの次に何を食べようかと目を輝かせて菓子の詰め合わせを眺めている。
その様子を見て、ルシアンは口元をほんのわずかに緩めた。表情はほとんど変わらないままだったが、その目元には確かに柔らかさが宿っていた。
そして、そんな彼の横顔を見つめるもうひとつの視線があった。セラフィオスだ。
彼の目は鋭く細められ、その奥にわずかな警戒心と、そして理解しがたい感情が宿っていた。
「アイスティー、すぐ用意いたしますね」
リセルがそう言って使用人に視線を送ると、そっと一礼した彼女は部屋を後にした。
ルシアンはその様子を見ながら、ぽつりと呟く。
「やっぱり、この屋敷って……落ち着くな」
それは誰に向けた言葉でもなかった。けれど、それを聞いたリセルは、目を細めながらわずかに頷いた。
「また来てくださることを、皆でお待ちしています」
その言葉に、ルシアンは一瞬だけ目を見開き、それからすぐに表情を戻した。
「……じゃあ、また来てもいいってことだな」
「セラフィーが喜んでくれるなら、私としては大歓迎よ」
そう応えるリセルの表情には、優しいが確かな線引きがある。
その柔らかな断絶のような笑みに、ルシアンはなぜかほんの少しだけ、口元を引き結んだ。
ルシアンの「また来てもいいってことだな」という一言に、セラフィーが嬉しそうに頷きながら、菓子の包みを胸に抱き直していた。そのままリセルの方へと向き直ると、彼女はクッキーの箱を大事そうに掲げながら声を弾ませる。
「お姉ちゃん、こんなにいっぱいもらっちゃった! 次に来たときも、またルシアンにお願いしようかなっ」
「まあまあ、まずは今のぶんを大事にいただいてからね」
リセルは小さく笑いながら、妹の無邪気な反応に目を細めた。その笑顔の奥には、場の空気を少しだけ引き締めようとする意図が隠れている。セラフィーの視線がルシアンの持ってきた菓子に夢中になっている隙を見計らい、リセルはそっと声の調子を変えた。
「ルシアン様。素敵なお菓子をありがとうございます。でも――贈り物をされるときは、お家の方にも一言、お伝えしてからがよろしいかと思いますよ」
ふわりとした物腰でありながら、その言葉には芯があった。注意するのではなく、教える。責めるのではなく、導く。リセルの声色には、その絶妙な距離感が込められていた。
ルシアンは、わかりやすく顔をしかめた。
「また、それか……姉さまは、ほんと、厳しいな」
小さく、むすっとした声がこぼれる。拗ねたような響きのなかには、わずかな不満と、それを相手に伝えたいという子どもらしい感情が同居していた。
けれどリセルは、まったく表情を変えない。逆にほんのわずかに口元をやわらかくして、彼のその拗ねた姿を静かに見つめるだけだった。
ルシアンはその視線に気づいて、目を逸らす。そして視線の先にあったのは、セラフィーが満面の笑顔でクッキーを開ける様子。リセルの言葉は正しい――それは頭ではわかっている。わかってはいるのに。
(……褒めてくれてもいいじゃないか)
心の中で、ルシアンは小さくぼやいた。
自分なりに、昨日から一生懸命に考えて選んだ。どんな菓子ならセラフィーが喜ぶか。どれなら見た目も味も合格点を取れるか。ちゃんと屋敷の侍従にも相談して、予算の上限も確認して、それなりに悩んで、ようやく選んだ詰め合わせだった。
その結果が、姉さまの「家の人に一言ね」か。
「…………」
無言で、ルシアンはそっと菓子の包みを見た。タルトの甘い香りが、微かに鼻をくすぐる。その香りの先で、セラフィーが嬉しそうに笑っている。
――けれど、その笑顔は、ルシアン自身に向けられているものではない気がした。彼女の視線の先にいるのは、リセルだった。菓子を受け取ったことの喜びよりも、それを一緒に楽しめる相手がいるという安心感。その中心に、あの姉さまが立っている。
(……ずるい)
誰にも聞こえないほどの声で、ルシアンはそう呟いた。口には出さない。出せない。けれど確かに、胸の奥にそんな言葉が生まれていた。
リセルは、ルシアンの沈黙の理由に気づいていた。
もちろん、彼が完全に納得しているわけではないことも。それでも――。
「あなたがそうして一生懸命考えて選んでくれた気持ちは、きっとセラフィーに伝わっています。それは私も、とても嬉しく思っていますよ」
そっと、リセルは声をかけた。言葉だけではない。その眼差しにも、声音にも、相手の努力を受け止める静かな誠意があった。
ルシアンは目を伏せたまま、わずかに唇を引き結ぶ。
「……姉さまって、なんかずるい」
その一言に、リセルは初めて驚いたようにまばたきをした。けれどすぐに、「ふふっ」と小さな笑みを漏らす。
「そうかしら? 私は自分にできることをしているだけです」
「でも、それが一番むずかしいんだよ……」
ルシアンのその呟きは、誰にも聞こえないような声量だった。リセルも、それ以上は何も言わなかった。
そのとき、セラフィーの歓声が響く。
「ねえ見てー! このゼリー、光に透かすとすっごくきれい!」
無邪気な声に、ルシアンとリセルの視線が同時にそちらへ向く。まるで水晶細工のように透き通ったゼリーを、セラフィーが両手で高く掲げていた。
「ほら、お姉ちゃんも見て見て!」
「ええ、ほんとうにきれいね。……ルシアン様のセンス、さすがですわ」
今度は、確かな褒め言葉だった。
リセルの声を聞いたルシアンの頬が、再びほんのりと赤く染まる。
「……あんまり持ち上げないでよ」
照れ隠しの言葉を残しながら、ルシアンはセラフィーの隣へと一歩近づいた。
ゼリーを受け取って、一緒に透かして見る。
ほんのわずかな距離感が、今ようやく自然になった気がしていた。




