表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/35

継姉、迎える準備を整える

ヴァレンティア公爵邸の空気が、いつもとは少し違っていた。廊下を行き交う使用人たちの足取りには、どこか緊張が滲み、厨房からは次々と香ばしい匂いが漂ってくる。控えの間には新しい花が飾られ、食堂のカトラリーは銀器職人の手でひとつひとつ丁寧に磨かれていた。


「やはり、お出迎えは玄関ホールで整えるべきかしら」


そう呟いたのは、エリザベートの側近である老女中のイレーネだった。手元のリストを見ながら、メイドの一人に指示を飛ばす。「白いテーブルクロスはまだしわが取れていません。今すぐ蒸気を通して仕上げてください」


屋敷全体が、まるで一つの生き物のように動いていた。近々到着予定の“特別な来客”――王子の滞在が正式に決定したという知らせが、前日から屋敷中に広まっていたのだ。


その知らせは、静かに、だが確実に人々の気持ちを引き締めていた。とりわけ、リセルの姿は一際目を引いた。


朝早くから邸内を巡っていたリセルは、今まさに客間のカーテンの具合を確認していた。陽の入り方、埃の舞い具合、布地の手触りまで確かめる。彼女の顔には笑みがあったが、目にはどこか緊張の色があった。


「窓の開け閉め、問題なさそうですね。少し風通しが良すぎる気もしますけど、香の配置を工夫すれば大丈夫だと思います」


控えめに助言した若い侍女の言葉に、リセルは軽く頷く。


「ありがとう。香炉の配置は私の方で整えておくわ。新しい香木の用意もお願いできますか?」


「はい、すぐに」


彼女が立ち去った後、リセルは窓辺に目を向け、深く息を吐いた。


「……失礼いたします」


扉の外から声がかかり、イレーネが控えめに顔を出した。「お嬢様、支度の様子を見回っていらっしゃったのですね」


「はい、皆さんに負担をかけてしまっていないか、気になって」


「そのお気持ちだけで、充分伝わっておりますよ。ですが、あまりご無理はなさらぬよう。お若いお身体に負担が残ってはなりませんからね」


その優しい忠告に、リセルは小さく微笑んで「気をつけます」と返す。


イレーネはふと視線を巡らせ、準備が進む客間の様子を見て満足げに頷いた。


「これほど静かに、的確に準備が整っていくのは、お嬢様の指示があるからこそです。まるで、この屋敷が一つの意志を持って動いているよう」


「皆さんが動いてくださるから、私は少しだけ整えているだけですわ」


そう言いつつも、リセルの中には確かな覚悟が芽生えていた。


王子がこの屋敷に滞在する――それがどういう意味を持つのか、彼女自身が一番理解していた。彼が誰であるか、その血筋が何を意味するか。そして、その一挙手一投足が屋敷だけでなく、ヴァレンティア家そのものに影響を及ぼす可能性を孕んでいるということも。


自分がどれほど注意深く振る舞っても、ひとつの綻びが思わぬ誤解や混乱を招くかもしれない。そう考えると、喉の奥が自然と引き締まる。


「緊張されているのですか?」


隣で声がした。イレーネが、まるでリセルの心を読んだかのように訊ねた。


「……いえ、緊張というより、失敗できないという気持ちが強くて」


「そのお気持ちは大切ですが、あまり追い込みすぎてはいけません。王子殿下もまた、お若い方なのですから、きっと気負わずとも、心を通わせることができますわ」


その言葉に、リセルはわずかに笑みを浮かべた。


「そうですね。私自身が気持ちに余裕を持たなければ、周囲の方も不安になりますし」


「ええ。ご自身が“お姉様”であるように、この屋敷の“お姉様”でもあってくださいませ」


「……ふふ、そう言っていただけると、少し勇気が湧きます」


イレーネは深く一礼して去っていった。残されたリセルは、改めて部屋の中を見渡す。飾られた花、並べられた椅子、整えられた絨毯。どれもが彼女の細やかな配慮のもとで整えられている。


そのすべてが、“お迎えする側”の覚悟を表しているようだった。


王子がやってくる。

ヴァレンティア家に――そして、自分たちの暮らす、この場所に。

彼が何を見て、何を思うのか。

それはまだ、誰にもわからない。


けれど。


「おもてなしの心を、忘れずにいよう」


小さく、誰に向けるでもなく呟いて、リセルは次の確認のために歩き出した。


リセルが屋敷内の最終確認に出向いたその午後、クラウスの執務室へ報告に向かうため、彼女は静かに扉を叩いた。中から短く返事があり、控えめに扉を開ける。


「失礼します、父様。王子殿下をお迎えする件について、準備の進捗をお伝えいたします」


クラウスは執務机の書類から顔を上げた。彼の表情は変わらず厳格だが、娘の姿を見て、わずかに眉が和らいだ。


「入れ。……もう整い始めているか」


「はい。客間、食堂、書庫、回廊の清掃と調度の確認を終えました。食事については、厨房長と相談のうえ、アレルギーやお好みの傾向についても確認を進めております」


リセルの報告は淀みない。クラウスはその言葉を受け止めながら、静かに腕を組んだ。


「……よくやった。王子を迎えるというのは、我が家にとっても初めてのことだ。少しでも非礼があれば、すぐに噂が立つ」


「はい。そのようなことがないよう、私もできる限りの準備を進めております」


「それで良い。……しかし、あまり背負いすぎるな。誰の目もある。おまえはまだ子どもだ」


その言葉に、リセルはふと目を伏せた。


「……子どもであることを理由に、任せられないとも思われたくありません」


「……そうか」


クラウスはしばし沈黙し、それからため息を一つ漏らした。だが、それ以上何も言わず、視線を机上の報告書に戻した。


「退いてよい。準備の続きがあるのだろう」


「はい、失礼いたします」


軽く会釈して部屋を出たリセルの背後で、扉が静かに閉まる。


その廊下の先、別の扉が開き、フローラが現れた。彼女は珍しく花のような笑みを浮かべていた。


「まあ、ちょうどよかった。クラウス様、今お時間、いただけるかしら?」


執務室の扉を控えめに叩くと、中からは先ほどよりも低い調子の声が返る。


「入れ」


フローラは裾をつまんで軽く礼をし、室内へ足を踏み入れた。


「リセルから伺いましたわ。王子殿下が、我が家に滞在なさるのですね。まさか、こんな機会が訪れるなんて……」


クラウスは眉一つ動かさず、フローラの言葉を黙って聞いていた。フローラは気にも留めず、続ける。


「とても名誉なことですわ。ねえ、せっかくなら、この機会に我が家の誰かが見初められたりしたら、素敵じゃありませんこと?」


クラウスの眉がぴくりと動いた。


「……どういう意味だ」


「まあ、言葉の通りよ? 例えばリセル――あるいはフィーでも。あの子たち、とても愛らしいですもの。殿下のお目に留まることもあるかもしれませんわ」


その言葉に、クラウスの表情が明らかに険しくなる。


「子どもを政略の道具にする気か」


「違いますわ、そんな露骨な話ではありませんの。けれど……もしも、もしもよ? 殿下が自然とお心を寄せてくださったなら、我が家にとってこの上ない縁になるではありませんか」


フローラは柔らかく微笑む。その瞳には、ほんのりとした期待と、自分の言葉への自信が滲んでいた。


だがクラウスは、その言葉を受け止めようとしなかった。


「おまえは……あの子たちを、何だと思っている」


低い声だった。だがその中には、抑えきれない苛立ちが込められていた。


フローラは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに苦笑を浮かべた。


「まあ、そんなに真剣に受け取らないで。ちょっとした夢を見るくらい、許されるでしょう?」


「夢に現を抜かす暇があるなら、現実を見ろ。王子が滞在するというのは、我が家が試されるということだ。軽々しい言葉を口にするな」


その一喝に、フローラはわずかに顔をこわばらせた。


「……私だって、ただ浮かれているわけじゃありませんの。家のために何か役に立てることがあればと、思っただけで」


「ならば、余計なことを言うな」


短く言い放たれた言葉に、フローラは黙り込んだ。視線を逸らし、わずかに唇を噛む。


「失礼いたしました。……お邪魔だったようですわね」


かろうじて微笑みを保ちながら、フローラはその場を辞した。扉を静かに閉めたその手は、どこか強ばっていた。


クラウスは残された室内で、深く椅子にもたれかかった。瞼を閉じ、しばらく沈黙する。


(フローラ……おまえの言葉が、時折どうしても軽く聞こえるのは、なぜだ)


そんな思いが、胸の奥でくすぶる。


しかし、その後にふと浮かんだのは、まだ幼さの残るセラフィオスとセラフィーの顔だった。あの双子に、自分は何をしてやれただろう。何を伝えてきただろう。


(……結局、私も同じか。家の者として、家の“駒”として、あの子たちを見ていたにすぎなかったのではないか)


その気づきは、まるで鋭い刃のように胸を抉った。


(我が子として抱きしめたことが、果たして何度あっただろうか。あの子たちの言葉を真正面から聞いたことが、どれほどあっただろう)


言い訳はいくらでも思いつく。忙しかった。領務があった。だが、その言い訳の一つひとつが、今は虚しく感じられた。


(醜いな……私は、何よりも醜い)


椅子にもたれかかったまま、クラウスは静かに目を伏せた。ひとときの重たい沈黙が、部屋を包んでいた。


午後の柔らかな陽が、屋敷の中庭を斜めに照らしていた。リセルは、手にした籠をそっと抱えながら、双子のいる一室の前で軽く息を整える。


「お姉ちゃん、どうぞー!」


扉の向こうから元気な声が飛んできたのは、リセルの足音に気づいたからだろう。くすりと笑みを浮かべて扉を開けると、セラフィオスとセラフィーが並んで座っていた。


「今日は特別な日よ。さあ、おやつにしましょうか」


リセルがそう言って籠を開けると、ふわりと甘い香りが広がる。中には、リセルが自ら焼いたクッキーが並んでいた。形は少し不揃いでも、バターの香りと香ばしい焼き色が、丁寧に作られたことを物語っている。


「わあ、いいにおい!」


「これ、焼いたの? お姉ちゃんが?」


「そうよ。セラとフィーのために作ったの。上手く焼けてるといいんだけれど……」


セラフィーはさっそく手を伸ばし、ひとつつまんで口に運んだ。


「おいしい! さくさくしてて、あまくて……あったかい!」


「ほんとだ……これ、ぼくの好きな味」


セラフィオスも小さく目を丸くしながら、口元をほころばせる。


「ありがとう、お姉ちゃん!」


「ええ、どういたしまして」


しばし三人だけの時間が、甘い香りとともに穏やかに流れた。


だが、今日のおやつは、ただのお楽しみだけではない。リセルはタイミングを見計らいながら、ふたりがクッキーに夢中になっている間に、言葉を切り出した。


「ねえ、ふたりに少し、お話があるの」


「お話?」


「なあに?」


リセルは一呼吸置いて、表情を真剣なものに変えた。


「実はね、明日から、ヴァレンティア家にお客様がいらっしゃるの」


双子は顔を見合わせた。


「おきゃくさま? だれ? この間の奴じゃないよね?」


「うん。とても特別なお客様なの。王子殿下よ」


その言葉に、ふたりは同時に「おうじさま!?」と声を上げた。


「おうじって、ほんものの?」


「そう、ほんものの王子殿下。お名前はまだ伏せられているけれど、王族の方がしばらくこのお屋敷に滞在されることになったの。教育の一環としてね」


セラフィオスは真剣な顔つきになり、セラフィーは不安そうに手を口元に寄せた。


「お姉ちゃん……その王子さまって、こわい人?」


「いいえ。私もまだお会いしたことはないけれど、怖がる必要はないわ。殿下もきっと、緊張していると思うの。新しい場所に来るって、誰だって不安よね」


「じゃあ、ぼくたち、仲よくできるかな……」


「できると思うわ。セラもフィーも、とっても優しいから。大事なのは、いつも通りにしていること。無理に背伸びしなくても、笑顔で迎えてあげればいいのよ」


セラフィーがそっと手を挙げる。


「ねえ、お姉ちゃん。おうじさまも、クッキーたべるかな?」


リセルは笑みを浮かべてうなずいた。


「そうね。もしかしたら、とても喜んでくれるかもしれないわ。今度は、王子殿下のためにもクッキーを焼きましょうか」


「うん!」


双子の顔にぱっと花が咲くような笑顔が広がった。


リセルはふたりの反応にほっと胸を撫で下ろす。彼女自身、この突然の出来事に戸惑いがないわけではなかった。けれど――


(この子たちと一緒なら、きっと大丈夫。緊張するのは、きっと王子殿下も同じ。だからこそ、この家があたたかい場所であるようにしてあげたい)


そう思いながら、リセルはふたりの頭をそっと撫でた。セラフィオスもセラフィーも、撫でられるたびに目を細め、まるで猫のように身を寄せる。


「お姉ちゃん、ぼく……おうじさまと、なかよくなれるように、がんばる!」


「フィーもがんばるー!」


「ありがとう。きっと、殿下も嬉しく思ってくださるわ」


リセルの目元には、ごくわずかに光るものがあった。それは、喜びというよりも、ふたりがここまで成長してくれたことへの静かな感動だった。


(この子たちは、ただ可愛いだけじゃない。思いやりがあって、芯のある子たちだわ)


一方で、リセルの心にはひとつの問いが残っていた。王子殿下は、どんな少年なのだろう。双子と同じ年齢――けれど、宮廷というまったく異なる世界で育った存在。


(だからこそ、ここで安心して過ごしてもらいたい。そのために私は――)


そう、私は「姉」として、ここにいる。


甘い香りの残る午後の一室で、三人の穏やかな時間は、やがてやさしい夕暮れへと移り変わっていった。


翌朝、ヴァレンティア家の屋敷には、いつもとは異なる空気が流れていた。給仕頭が手早く指示を飛ばし、廊下では使用人たちが静かに駆け足で動き回っている。客間の窓は磨き直され、食堂の装飾は華美すぎぬよう気品を重んじた調度品に差し替えられていた。


「この部屋に花を飾るなら、ユリは避けて。香りが強すぎるから」


「承知しました、お嬢様」


リセルは屋敷の調整に忙しく立ち回っていた。今まさに、王子殿下のための受け入れ準備の真っ最中だ。


執事が隣で控えながら、リセルの指示を逐一確認していく。


「ご滞在中の寝室には、王子殿下が緊張なさらないよう、あまり格式張らない寝具と家具を選びました」


「ありがとう。それでいいと思います。あとは、お手洗いや洗面所の位置も、殿下に伝えやすくしておいて。滞在が不便にならないように」


「かしこまりました」


リセルは小さく頷いた。今や彼女は、この家の実質的な中核であり、特にこうした“誰かを迎える”という場面では、周囲も自然と彼女を中心に動くようになっていた。


(誰かを迎える、というのは、ただ場所を整えるだけじゃない)


それは、前夜に双子と交わした言葉からも、自分の中で明確になっていた。


(心を迎える準備もしなければ。王子殿下にとっても、ここは“仮の家”になるのだから)


廊下の奥から、メイド頭のベラが小走りにやって来た。


「お嬢様、厨房の方で確認していただきたいことがございます。殿下の食事について、献立案が二通り出ております」


「分かりました、すぐに伺います」


リセルは裾を軽くたくし上げ、メイドのあとに続く。厨房では、二人の料理人が真剣な面持ちで彼女の到着を待っていた。


「こちらが、軽めで消化のよいお食事案です。野菜を中心に、あまり刺激のない味付けで」


「そしてこちらが、ヴァレンティア家としての“格式”を重んじた案です。魚のムニエルに、濃いめのソースを添えて……」


両者の案を一通り聞いたリセルは、少し考え込む。王族相手に“家庭料理”で迎えるのは勇気がいるが、過度に気取った料理が心を遠ざけるのも避けたい。


「両方を合わせてみましょう。見た目は華やかに、でも味は親しみやすく。食材の説明もきちんと添えて、安心して召し上がれるようにして」


料理人たちは、即座にうなずいた。


「さすが、お嬢様。心を込めたご配慮です」


「ええ、お願いします」


厨房を出たあと、リセルは一度自室に戻り、改めて王子殿下の滞在予定日程と、関連する来客記録を確認した。


(滞在は一週間。殿下のご様子によっては延長の可能性もある。あらゆる想定をしておかなきゃ)


ノックの音と共に、リセル付きのメイド、エリアが現れる。


「リセル様。今朝、王宮から改めて滞在に関する書状が届きました。ご確認を」


「ありがとう。少しだけ、時間を取ってもらえるかしら。部屋で読むわ」


「もちろんです」


メイドが用意してくれた書状を開封すると、そこには殿下の体調や嗜好に関する丁寧な説明が添えられていた。まだ成長途中の少年であるため、気疲れしやすい傾向があること、過去の教育係とは相性が合わず、少し繊細な部分があること――


(やっぱり、来てくださる王子殿下も、不安なのね)


読み終えたリセルは、手紙をそっと閉じて深く息を吐いた。


「どうしても、気を遣いすぎてしまいそうだわ。でも……必要なのは“寄り添い”なのよね」


メイドが控えめに声をかけた。


「リセル様。わたくしたちも、できるかぎりの支えをいたします。殿下が心を閉ざさぬよう、屋敷全体で支えることが肝要です」


「ありがとう。エリアがいてくれて本当によかった」


メイドは少しだけ頬を染めて目を伏せたが、すぐに姿勢を正す。


「では、殿下のお部屋に最後の調整をしてまいります」


リセルは再び資料に目を落とす。その眼差しには、昨日までにはなかった緊張と、そして一筋の覚悟が灯っていた。


(私はこの家の姉として、この家を“心のよりどころ”にしたい。王子殿下にとっても、そう思える場所になるように)


午後の陽が廊下に差し込み、木目の床に長い影を落とす。ヴァレンティア家は、静かに、だが着実に“新たな訪問者”を迎える支度を整えていた。


焼きたての甘い香りが、温かな空気とともに台所から漂ってくる。


リセルはオーブンの前で軽く息をつきながら、天板に並んだ小さなクッキーを見下ろした。バターと砂糖の風味、ほんのり香るシナモン。素朴な味わいながら、子どもたちにはきっと喜ばれるだろう。なにより、焼き上がりの形が少しずつ違っていて、どれも手作りらしい愛嬌がある。


「さ、冷めたら盛り付けて……」


リセルは布巾で手を拭き、用意しておいた白い皿にクッキーを丁寧に並べていく。そのまま廊下へ出ると、近くに控えていた侍女のひとりがすぐに察して頭を下げた。


「リセル様、お運びいたしますか?」


「いいえ、これは私から渡したいの。セラたちの分だから」


「かしこまりました。お部屋の方にはすでにお戻りです」


礼を言って階段を上がると、双子の声が扉越しに聞こえてきた。セラフィオスの高い笑い声と、セラフィーのかすかに鼻歌まじりの声。二人だけの世界に満たされた音が、リセルの胸にそっと温もりを灯す。


「入ってもいいかしら?」


扉を軽く叩いて声をかけると、すぐに「おねえちゃん!」という声が返ってきた。


扉を開けると、セラフィオスは窓辺に積まれた本の上に片膝を立てて座り、セラフィーは床に寝転がりながら絵本を開いていた。


「わぁ、いい匂いする!」「なにそれ?」


二人が一斉に近づいてくる。リセルは笑みを浮かべながら、皿ごと膝の上に抱えるようにして座った。


「クッキーよ。おやつにと思って焼いたの」


「食べてもいい?」「お姉ちゃんが作ったの?」


「ええ。ふたりとも、よく噛んで食べてね。まだちょっと温かいから」


二人は顔を見合わせて、同時に「いただきます!」と声を揃えた。


セラフィーは丸いクッキーを一枚手に取ると、嬉しそうに目を細めて口元へ運ぶ。サクッという音がして、すぐに甘い笑顔が弾けた。


「おいしい……!」


セラフィオスも頬を緩ませながら、少し慎重にかじっている。


「この味、前よりもっと……なんか、ふわってしてて、あまくて……お姉ちゃん、すごいな」


リセルは嬉しそうに二人の様子を見つめながら、そっと話を切り出した。


「ねえ、ふたりにちょっと大事なお話があるの」


二人の手が止まる。リセルは柔らかい声で、目を合わせながら続けた。


「近いうちに、このお屋敷にお客様がいらっしゃるの。王都から、特別な方が。王子様が、少しだけここで過ごすことになったのよ」


セラフィオスが目をぱちぱちさせた。


「王子様? ……ほんとに、あの?」


「ええ。ヴァーベナ王国の……。ふたりと同じくらいの年の男の子よ」


セラフィーはクッキーを抱えたまま首をかしげた。


「なんで、こっちに来るの?」


「少しだけね。学びのために、いろんなお屋敷を訪れているのだと思うわ。王子様も、同じ年の子たちと交流することで、たくさんのことを知ろうとしているの」


「ふーん……なんか、変な感じ」


セラフィオスはそう言いながらも、心なしかそわそわした様子でリセルの膝に頭を預けた。


「お姉ちゃん、その子のこと……好きになったりしない?」


リセルはふっと目を見開いたが、すぐに微笑を浮かべた。


「そうね……お友達にはなりたいと思ってるわ。でも、私がいちばん大切にしているのは、ここにいる家族よ」


セラフィーがクッキーを両手で抱きしめるようにしながら、ぽつりと呟いた。


「……王子って、すごいんだよね。だから、私たちみたいなの、変に思ったりしないかな」


「そんなことないわ。もしそう感じさせてしまうような人なら、お姉ちゃんがちゃんと教えてあげる」


リセルはそう言って、二人を順に抱き寄せた。


「でもね、きっと王子様も緊張していると思うの。だから、優しく迎えてあげてほしいな。いつものふたりでいてくれたら、それだけで十分よ」


セラフィオスとセラフィーは、お互いを見て、そしてリセルに向かってゆっくりと頷いた。


「うん」「わかったよ、お姉ちゃん」


その返事に、リセルは静かに目を閉じた。


小さな変化が、もうすぐこの家に訪れる。けれど、今このひとときだけは、穏やかであたたかい時間を守りたかった。


リセルは二人の頭を優しく撫でながら、皿に残った最後のクッキーを見下ろした。丸くて、少しいびつで、けれどどこか愛おしい形をしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ