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継姉、悩む

一通の手紙が、屋敷の朝に静かに差し込まれた陽光と共に届けられた。差出人は、あの教育審査官――ディアナ・エメリー女史。格式ばった筆跡で綴られたその手紙に、リセルは自然と背筋を正す。


「王子殿下の……教育支援、ですか……」


エリザベートと連れ立って読んだ手紙には、穏やかな筆致でこう記されていた。王太子のご息子であられる六歳の王子殿下が、現在、学びの場において困難を抱えている。先任の教育係とは折り合いが悪く、教えが進まぬまま日々を過ごしているという。そんな中でディアナ女史は、リセルが見せた双子への接し方に希望を見出し、この申し出をしたのだ。


リセルは、手紙を読み返すごとに、その重さを感じた。けれどそれ以上に、胸に広がったのは――双子と過ごすかけがえのない日々を、どうしても手放したくないという想いだった。


「……私には、荷が勝ちすぎます。なにより……この子たちのそばを、まだ離れたくないのです」


そう言って、リセルはエリザベートの了承を得た上で、断りの返事を書くことにした。


静かな筆致で、丁寧に、そして率直に。


「申し訳ありません。今の私には、大役を担う覚悟も力もございません。ご期待に添えず心苦しく存じますが、何卒ご容赦くださいませ」


書き終えた手紙を封しながら、リセルはわずかに唇を噛んだ。王族相手にこのような返答をすることの重大さは理解していた。それでもなお、自分の中にある“家族”への想いの方が強かった。


セラフィオスも、セラフィーも、まだ手がかかる年頃だ。何より、ようやく少しずつ心を通わせられるようになってきたのだ。今は、その絆を大事にしたい――そう、強く願っていた。


リセルは手紙を届けるよう頼んだ後、窓辺に立ち、朝の光の中で深く息を吐く。見上げた空は高く澄み、どこか遠い都の空と繋がっている気がした。


彼女はまだ知らなかった。数日後、再びその名が記された手紙が届くことを――。


リセルがディアナ女史に断りの返事を出してから、わずか数日後のことだった。再び届けられた手紙は、思いがけない提案を携えていた。


「王子殿下を一時的に、こちらへ滞在させる……?」


声に出して読み上げながら、リセルは驚きと戸惑いの入り混じった表情で手紙を見つめた。近くで控えていた侍女が、小さく頷く。


「先方では、殿下が同年代の子供たちと過ごすことで、少しでも心を開いてくださればと……」


手紙には、王子が現在六歳であり、宮中では年の近い子供との交流がほとんどないこと。そして、これまでの教育係とも馴染めず、心を閉ざしがちであることが記されていた。


(セラとフィーと同じくらいの歳……それに、家庭的な雰囲気に触れさせてみたい、と)


読み進めるうちに、女史の切実な思いがにじんでくるようだった。けれども、リセルはすぐには返答できなかった。


「もし殿下をお預かりするとなれば、責任は重いわ……」


独りごちるようにそう呟いて、リセルは椅子の背に深くもたれかかった。視線の先では、窓の外の庭でセラフィオスとセラフィーが何か楽しそうに遊んでいる。


その姿を見つめるうち、リセルの表情に次第に曇りが差していく。


(この子たちとの日常を、私は何よりも大切にしている。そこに別の子を迎えるということは――)


王子という立場を考えれば、きっと礼儀作法も、安全も、食事も、すべてにおいて万全を期さねばならない。だが、リセルにとってそれ以上に気がかりなのは、双子の気持ちだった。


(セラとフィーが、戸惑わないかしら。むしろ――傷つくようなことがあっては……)


王族であるという事実が、年端もいかぬ子供たちの間にどう影響を及ぼすのか。想像すればするほど、リセルの胸のうちに重い雲が垂れ込める。


「……やっぱり、軽々しく答えられることじゃないわね」


手紙を静かに畳み、リセルはそっと胸元に手を当てた。判断には、まだ少し時間が必要だった。


「この件について、ご意見を伺えますか?」


そう切り出したのは、夕食後の居間だった。まだ片付けが終わっていない食卓を前に、リセルは慎重に言葉を選びながら祖父グレゴリウスとエリザベートに向き合っていた。公爵クラウスも珍しく席を立たず、静かに耳を傾けている。


「……王子殿下の滞在依頼だと?」


最初に口を開いたのはグレゴリウスだった。声は低く落ち着いていたが、その目は鋭さを帯びていた。リセルは頷きながら、届いた手紙の内容と、ディアナ女史の申し出の経緯を簡潔に説明する。


「城での教育が難航しており、殿下が年の近い子どもたちと触れ合うことで、少しでも状況が変わるのではないか、とのことでした」


エリザベートは、静かに指を組み、思案深げに首を傾けた。


「確かに、この家はあの子たちの無邪気な笑顔と、あなたの穏やかな振る舞いで、家庭らしいぬくもりがあるわ。だからこそ、選ばれたのかもしれないわね」


「そうね。ただ……王子を預かるというのは、ただの“来客”とは違う。警備、教育、礼儀作法、すべてに配慮が要る」


クラウスが珍しく言葉を重ねた。その声音には懸念と、微かな責任感のようなものがにじんでいた。


「一介の令嬢が預かるには荷が重いと思われても不思議ではない。だが――」


彼はリセルをまっすぐに見つめた。その視線に込められていたのは、批判でも否定でもなく、慎重な期待だった。


「――お前なら、もしかするともしかするかもしれん…だが、判断はお前に任せる」


グレゴリウスは一度目を伏せ、椅子の肘掛けに手を置いて呟く。


「リセル。この件は国にとっても大きな意味を持つ可能性がある。それだけに、お前が迷うのは当然だ。だが――」


視線を上げたその瞳には、かすかな光が宿っていた。


「決めるのは、お前だよ」


リセルはその言葉を黙って受け止めた。両手のひらの中にある、目に見えぬ重み。それは誰かに委ねられた使命であると同時に、自ら選ぶべき未来でもあった。


「……ありがとうございます。もう少し、考えてみます」


席を立ちかけたその時、エリザベートがやわらかく声をかけた。


「あなたが悩むのは、それだけ真剣だから。私たちはいつでも、あなたの味方よ」


その優しい言葉に、リセルは静かに頷いた。心の中の霧はまだ晴れてはいなかったが、それでも、ひとつひとつ考えるべき道があると感じられた。


夜の帳が下りた寝室で、リセルはランプの灯りの下、手元の便箋をじっと見つめていた。すでにディアナ女史への返答は書き終えている。だが、それを本当に投函してよいのか、自分の中でまだ答えが出しきれていなかった。


「私が王子殿下を受け入れるなんて、本当にできるの……?」


ぽつりとつぶやいた声は、薄暗い部屋の空気に吸い込まれていく。机の上には、あの子たち――セラとフィーの描いた絵が置かれていた。色とりどりの線で飾られた“お姉ちゃん”の似顔絵。その下には、「だいすき」と大きく書かれている。


胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。


「この子たちの時間を、私の都合で変えていいの……?」


王子殿下のことを考えると、自然と思い浮かぶのは、誰かに遠慮して自分を押し殺すような少年の姿だった。まだ何も知らない。けれど、今までの“報告”のなかに見え隠れする孤独の匂いが、どうしても気になってしまう。


その時、部屋の扉がそっと開いた。


「リセル?」


入ってきたのはエリザベートだった。肩に薄いショールをかけ、静かな足取りでランプの明かりのそばへと近づいてくる。


「お休みにならなかったのね。……やっぱり、悩んでおられるのかしら」


問いかけには答えず、リセルはそっと手紙の封を閉じた。視線だけで、まだ気持ちが決まりきっていないことを示す。


エリザベートは微笑を浮かべて椅子を引き、自ら隣に腰を下ろした。


「私はね、あの方が王子殿下のことを話した時、あなたの顔がふっと曇ったのを覚えているの。心を痛めているのが分かったわ」


優しく、けれどまっすぐなまなざし。


「……たとえ引き受けるにしても、無理をする必要はないの。でも、大切なのは“誰かのために”と思えるその気持ち。あなたは、もう持っているのでしょう?」


リセルは目を伏せたまま、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「私は……たぶん、まだ覚悟が足りないんです。けれど、王子殿下がここに来ることで、あの子たちにも何か……いい影響があるのなら、と思ってしまって」


「そうね。セラフィオスもセラフィーも、誰かに優しさを分けられる子に育っているもの。きっと、素敵な時間をつくってくれると思うわ」


エリザベートの声に、リセルの心は少しずつほぐれていった。まるで冬の終わりに、ゆっくりと雪が解けていくように。


「……一晩、考えてみます」


ようやく口にしたその一言に、エリザベートは満足げに頷いた。


「それでいいのよ。大切なのは、あなた自身がどうしたいか。それが、きっとすべての答えになるわ」


そうして、母のような眼差しを残して部屋をあとにするエリザベートの背を見送りながら、リセルはそっとランプの火を調整し、便箋の上に指を添えた。


まだ決断には早い。でも、心の底に芽生えた小さな決意のようなものが、ゆっくりと形を取りはじめていた。


朝の光がカーテンの隙間から差し込む頃、リセルは静かにベッドから身を起こした。まだ誰も起きていない時間だったが、まどろみのなかで巡らせた思考は、夜明けとともに輪郭を持ち始めていた。


鏡台の前で身支度を整える手元は、どこかいつもより丁寧だった。結論を出すにはまだ少し早いと感じながらも、心は決して揺れていない。昨夜、エリザベートに言った「考えます」という言葉に、確かな重みを持たせるためだった。


階下に降りると、まだ誰もいないサロンに朝日が射し込んでいた。机の上には、昨晩と同じまま置いてあった封筒がある。リセルはそれを見つめたあと、そっと別の紙を取り出した。


「受け入れる方向で、考えたいと思います」


小さく、でも揺るがない筆致で書きつける。その一行に、リセルの今の心がすべて込められていた。


背後で足音がして、ふと振り返るとエリザベートが入ってきた。淡い色のローブを纏い、彼女もまた少し早起きだったようだ。


「おはようございます、祖母さま」


「ええ、おはよう、リセル。……眠れたかしら?」


「少しだけ。でも……決めました」


リセルは封筒の上に手を置いて微笑んだ。


「王子殿下が、安心できる場所を求めておられるのなら。私がその“場所”になれたら……と思います」


エリザベートはしばし黙ったあと、ゆっくりとうなずいた。


「ええ、あなたなら、きっとその子の“居場所”になれるわ。あの双子たちと一緒にね」


それがどれほど意味のあることかを、リセルはまだすべて理解しているわけではない。それでも、自分の中に確かに生まれた感情に、正直でいたかった。


やがて、セラフィオスとセラフィーの足音が聞こえてきた。元気な声が廊下に弾ける。彼らにとっても、この日常がどれだけ大切かを、リセルは知っている。


だからこそ、守りたい。そして、そこにもう一人加わる未来も、恐れずに迎え入れたい。


「お姉ちゃん!」と駆け寄る声に、リセルはしっかりと振り返って応えた。


「おはよう、セラ、フィー。……今日は、少し特別な日になるかもしれないわよ」


その笑顔の奥にある小さな決意を、まだ誰も気づいていない。けれど、彼女自身だけは知っている。


これは、“継姉”としての新たな一歩――優しさだけでは届かない、誰かの未来を背負う覚悟の芽生えだった。

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