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継姉、初めての絵本を描く

朝の光が、ゆっくりと窓辺に差し込む時間。

リセルは昨日と同じように、小さな冊子を胸に抱えてセラフィオスとセラフィーの部屋を訪れた。


扉をノックすると、部屋の中からかすかな気配がした。

返事はない。でも、それはもう驚くことではない。


「おはようございます、セラフィオス様、セラフィー様。今日も、絵本を持ってきたよ」


静かに扉を開けると、双子は昨日と同じように部屋の奥に佇んでいた。

セラフィオスは妹の前に立ち、リセルを警戒するように見つめている。


けれど、その視線にはどこか、迷いのような色があった。


……それにしても。


金糸を思わせるふわふわの髪、透きとおるような肌、あの年齢特有の柔らかな輪郭。


(やっぱり……この子たち、完全に天使……)


どんなに反応が薄くても、近くにいてくれるだけで癒されてしまう。

前世で数多くの園児を見てきたリセルだからこそ、そう確信してしまうのだった。


リセルはあえて話しかけず、部屋の中央に敷かれたラグの上へとゆっくり腰を下ろした。

昨日と同じように絵本を膝に広げ、静かな声でページをめくる。


「“きょう、ラビィは おともだちに こんにちはを いいました。”」


……しばらくして、そっと足音が近づいた。

リセルが顔を上げると、セラフィオスが彼女の斜め前に立ち止まっていた。


その目は絵本に向けられている。


(来てくれた……!)


心の中で喜びを噛み締めながら、リセルはページをめくり続けた。

セラフィーも、兄の背に隠れるようにしながら、その後ろから小さな顔を覗かせている。


「“こんにちはって いえるかな?”」


リセルの問いかけに、返事はなかった。

けれど、その静寂は――昨日とは、明らかに違っていた。


「……見た? さっきの坊ちゃま」


廊下の陰から、そっと様子を窺っていた侍女たちが、ひそひそと声を潜めて言葉を交わす。


「ええ。絵本に近づいて……自分からあんなふうに手を伸ばして……」


「信じられない……あの子たちが人前であんな顔をするなんて」


「セラフィオス様もセラフィー様も、まるで氷が溶けたみたいだったわ」


「……しかも、あの継姉様、ひとことも無理に笑わせようとしないのね。静かに、優しく、待ってるだけで……」


その場にいた侍女たちは皆、思い浮かべていた。


――今朝も、派手なドレスに身を包み、下女の名前すら覚えようとしない公爵夫人の姿を。


「それにしても……あの娘さん、まだ十一歳でしょう? お母様に似る様子なんて、これっぽっちもないわ」


「公爵夫人様が子どもに興味ないのは知ってたけど……娘さんのほうは、全然違う」


「一緒に来たって聞いたときは、どうせわがままな子なんだろうって……思ってたのに」


「見て。あの目……弟妹のために、一生懸命で……」


誰かが、そっと小さく息を吐いた。


「――もしあの方が、最初から公爵家の令嬢だったら、って……考えてしまうわよね」


リセルはそんな視線の存在に気づかぬまま、絵本の続きをめくっていた。


絵本の前に並ぶ小さな双子の背中は、もう昨日のような緊張感をまとってはいない。


それだけで、部屋の空気が変わる。


それだけで、使用人たちの目も――少し、優しくなる。


五日目の朝――。

公爵家に来てから、もうそんなに経つのだと気づき、リセルは少しだけ目を細めた。


思えば、初めて双子に会ったあの日から、状況は少しずつ変わっている。

言葉は交わしていなくても、距離は確実に縮まっていた。昨日完成させた絵本の効果も、きっとあったはずだ。


(……だから、今日はもう一歩だけ踏み込んでみよう)


午前の光が差し込む子ども部屋に入ると、双子はいつものように壁際で並んで座っていた。

警戒というより、まだ“どう接していいかわからない”という表情で、リセルの動きをじっと見つめている。


(でも、ちゃんと目を見てくれるようになった。それだけでも、すごい進歩だよね)


「ねえ、今日はね……遊びをしてみない?」


ふたりの表情が、かすかに動く。

リセルは無理に笑わず、いつもの穏やかな調子で続けた。


「昨日、絵本を見てくれたでしょ? 今日はその続きを、一緒に描いてみようかなって思ってるの。お絵描きでもいいし、ぬいぐるみを使ってごっこ遊びでもいいよ」


セラフィオスは、ちらりとセラフィーの顔を見た。

セラフィーは、目を大きく見開いたまま、ぬいぐるみに視線を落とす。


(あ……反応した)


たったそれだけのことなのに、リセルの胸は高鳴った。

それは、子どもたちが自分の言葉を“聞いてくれている”という、小さな証拠だった。


「……無理にじゃなくていいから。見てるだけでもいいの。お姉ちゃん、勝手に遊んでるだけだからね」


そう言って、リセルは床に小さな毛布を敷き、手元の袋からぬいぐるみを取り出した。

ぬいぐるみには、紙で作った小さな王冠とマントを着せて、絵本のキャラクター“お花の王様”に似せていく。


「じゃあ王様、ごあいさつしましょうか」


とたんに――くすっ、と小さな笑い声が聞こえた。

目を見張って顔を上げると、セラフィーが口元に手を当てて、ほんの少しだけ微笑んでいた。


(……笑った)


その表情を見た瞬間、リセルは強く思った。

絶対に、この子たちを――もう、二度とひとりにしない。


「ふふ、王様、今日はごきげんですね」


リセルはそう言いながら、ぬいぐるみの王様に向かって小さくお辞儀をした。

芝居がかった動きは子ども向けにしては少し大げさかもしれないけれど、反応があったのなら何だってやる価値がある。


ふと気づけば、ぬいぐるみの王様の前に――もう一つの小さな影が加わっていた。


セラフィオスだった。


無言のまま、ゆっくりと床に膝をつき、王様のマントの裾をじっと見つめている。

彼の指先がわずかに動き、布の端をそっと触れた。


(……きた)


リセルは、声をかけることを一瞬ためらった。

けれど、こういう時こそ、過剰に構ってはいけない。


「……王様、そのマント、とってもかっこいいって言ってるよ」


あくまで“ぬいぐるみを通じて”の会話。

セラフィオスはピクリと反応したが、やはり何も言わない。けれどその手は、王様のぬいぐるみの背中をそっとなでた。


(優しい……)


無言の気遣い。言葉がなくても、彼の行動がすべてを物語っていた。


「王様、今日はね、新しいお話の続きを考えてたの。森の中で迷子になった小鳥が、やさしいお兄ちゃんと出会うのよ」


その言葉に、セラフィオスがぬいぐるみを持ち上げて、自分の膝の上に置いた。

セラフィーは扉の近くでじっとその様子を見ていたが、兄の動きにつられるように、一歩だけ前に出た。


リセルは、その動きに小さく頷いた。


(少しずつでいい。今日は、セラフィオスくんが最初の一歩を踏み出してくれた。それだけで、もう十分)


「ありがとう、王様。そして……王様のお友だちも、来てくれたら嬉しいな」


そう言って、今度はもう一つのぬいぐるみ――柔らかい白兎の人形をそっとセラフィーのほうに向けた。


ほんのわずかに、セラフィーの手がピクリと動いた。


ふいに――音もなく、セラフィーが歩を進めた。


彼女の小さな足音が、絨毯の上でかすかに響く。

それだけのことなのに、リセルは胸の奥が熱くなるのを感じた。


(来た……自分の意志で)


セラフィーの瞳は、まっすぐにリセルを見ていた。

これまでずっと、兄の後ろに隠れていた少女が。

その小さな肩を震わせながらも、勇気を振り絞ってこちらへ歩いてくる。


リセルは、動かない。

驚きや喜びを声に出すことなく、そっと白兎のぬいぐるみを差し出した。


「……この子、セラフィーちゃんのお友だちになりたいって」


セラフィーはしばらく無言のまま、ぬいぐるみを見つめた。


けれど、次の瞬間――


「……おと…も、だち……?」


その声は小さく、かすれていた。

それでも、確かに言葉だった。


セラフィオスが目を見開いたまま、妹の顔を見つめる。

リセルは思わず手を胸に当てた。心臓が、熱を持って脈打っている。


「うん、そう。お友だち、だよ」


その言葉に応えるように、セラフィーの小さな手がそっとぬいぐるみに触れた。


ほんの一瞬だけ――彼女が、笑った。


リセルはもう限界だった。

胸にあふれる何かを堪えきれず、そっと目尻を押さえる。


(……ありがとう。あなたたちは、本当に……天使みたい)


優しい奇跡が、いまこの部屋で起きている。


言葉のない日々に、一輪の声が咲いた。

それは、静かに閉ざされた心の扉が、ようやく軋むように動き始めた音だった。

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