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継姉、見られている

朝の光がやわらかく差し込むサンルームでは、リセルが膝に本を広げて双子と一緒にページをめくっていた。セラフィオスが挿絵に興味津々で身を乗り出し、セラフィーはリセルの肩にそっと寄りかかっている。


「見て、お姉ちゃん。ここに描いてあるの、昨日のお庭の花に似てるよ!」


「本当ね、セラ。これは“フェアベルグ”という花で、春の終わりに咲くの。お庭のは、“フェアローズ”。似ているけれど少し違うのよ」


リセルが説明すると、双子は「へえ〜」と声をそろえて感心しながら、また絵に目を戻す。そんな微笑ましい時間が流れるなか、ドアの外から控えめなノック音が響いた。


「お嬢様、失礼いたします。エリザベート様より、ただいま来客がございますとのお知らせです」


扉の向こうで控えていた老執事が告げた瞬間、リセルはそっと本を閉じ、椅子から立ち上がった。


「お客様……?どなたが?」


「教育審査官のディアナ・エメリー女史という方が、公式にお見えです」


その名に心当たりはなかったが、「教育審査官」という肩書だけで、リセルの背筋は自然と正される。普段の来客とは少し違う――そう直感した。


「わかりました。すぐに参ります。セラ、フィー、ちょっとだけ、しっかりしててね?」


「うん」「がんばる!」


双子が揃って背筋を伸ばし、リセルを見上げる姿に小さく笑みを返しながら、リセルは部屋を後にした。


案内された応接間の扉を開けると、すでにエリザベートが優雅に座っていた。その向かいにいたのが、白い手袋と灰色のドレスに身を包んだ、中背の細身の女性――控えめながら鋭い眼差しを持つ、ディアナ・エメリー女史だった。


「失礼いたします。リセル・ヴァレンティアです。初めまして、ディアナ女史」


リセルが丁寧に挨拶すると、女史はやや口元を緩めて椅子から立ち上がり、リセルの礼儀正しさを観察するように軽く頷いた。


「お噂はかねがね。よくお目にかかれましたわ、“継姉”リセル嬢」


穏やかに言われたその言葉には、特に皮肉もなければ、下に見る色もない。ただの事実として語られたにもかかわらず、リセルは何か見透かされたような気がして、思わず背筋を伸ばした。


「エリザベート様から、あなたのことはたびたび伺っておりました。どんな方か、拝見できる日を楽しみにしていたのです」


「光栄ですわ……至らぬ点があれば、どうかご容赦を」


「謙虚でいらっしゃるのね。けれど、私はそれが見たいのではありません」


女史は静かに、しかし確かな視線でリセルを見据える。まるで何かを計るような、あるいは確かめるような眼差し。


そんな緊張の間を断ち切るように、エリザベートがやわらかく微笑んだ。


「ディアナ女史は、王都でも名の知れた教育審査官でしてね。昔からの友人なのですよ」


「まあ、友人というには少々歳月が流れすぎましたが……あなたとは、若いころによく舞踏会で腕を組みましたわね、エリザベート」


「ええ、あなたがまだ“女史”ではなく“エメリー嬢”だったころの話でしょう?懐かしいわ」


二人のやり取りに、リセルは思わず目を丸くする。想像よりもずっと親しい関係だったらしい。自分を試すためだけに呼ばれたのではないという事実に、少しだけ安堵する気持ちが芽生えた。


「だからこそ、あなたにリセルを紹介したかったの。客観的な目で、見ていただけると思って」


エリザベートの視線がリセルに向けられる。そこに宿るのは、深い信頼と、母としての愛情。


「……恐縮です」


思わずそう口にしながら、リセルは再び姿勢を正し、応接室の椅子へと腰を下ろす。


“試されている”。その感覚はやはり拭えなかったが――それでも、この場で恥じない自分でいようと、そう心に決めた。


リセルは、改めて姿勢を正し、穏やかに微笑んだまま客人を迎え入れる所作を続けていた。彼女の隣にはセラフィオスとセラフィーが並んで座っており、普段よりもややお行儀よく背筋を伸ばしている。


ディアナ・エメリー女史はその様子を静かに見つめていた。年の頃は五十代半ば、やや痩せ型の体つきに控えめな灰色のドレスを纏い、顔立ちは柔和ながらも眼差しに曇りなく、じっと相手を見透かすような力があった。その眼が、双子からリセル、そしてまた双子へとゆっくりと移っていく。


「このお二人が、噂の双子のお子さまたちですね」


ディアナ女史はにこやかに語りかけたが、その声は不思議と温度を感じさせない。それでもセラフィーは小さく頷き、セラフィオスも少し遅れて会釈した。


「ご機嫌よう。ようこそいらしてくださいました」


リセルは礼儀正しく挨拶を交わしながらも、内心では慎重に様子を伺っていた。この人物は“観察”のためにここにいる。エリザベートがそうした意図で招いたことも、リセルにはすでに伝わっていたからだ。


「こちらのご姉弟、なかなか落ち着きがあるのですね。……五歳と伺っておりますが?」


「はい、今年で五歳になります」


リセルは控えめに答えた。セラフィーはリセルの膝の上にちょこんと座っており、その小さな指先がリセルのドレスの裾をそっと握っている。セラフィオスも口を結んだままだが、目線は女史から逸らさず、どこか守るように姉の側に身を寄せている。


ディアナはそんな姿を一瞥し、紅茶に手を伸ばす。カップを持ち上げるまでの一連の所作が、いかにも洗練された貴族階級のそれで、リセルは無意識に喉を鳴らした。


「このような場に同席しても、きちんと座っていられるとは……日頃のしつけが行き届いておりますのね」


その声色は変わらず穏やかだが、どこかで試されている感覚は消えない。言葉に褒めの響きはあっても、それが本心かどうかは読み取れない。リセルは即答せず、微笑みだけを浮かべて女史の視線を受け止めた。


「いいえ、私など、しつけと呼べるようなことはしておりません。ただ――できるだけ、ふたりの隣にいるようにしています」


言いながら、リセルはセラフィーの髪を指先でそっと撫でた。女の子は安心したように少しだけ身を預けてくる。


ディアナの瞳が一瞬だけ細められた。リセルはそれに気づいたが、やはり表情を変えずにいた。


「“隣にいる”というのは、なかなか深い言葉ですね。単に物理的な意味ではなく、心の距離も含めてのことだと……そう解釈してよろしいでしょうか?」


思いがけず鋭い問いが返ってきた。リセルは一拍置いてから、頷いた。


「はい。まだ私には、あの子たちに教えられるような知識や立場はありません。ですからせめて、そばにいることで、ふたりの安心になれればと思っています」


ディアナは茶器を静かに戻すと、今度は背もたれに体を預けた。少しだけ顎を引き、再びリセルに視線を向ける。


「そのお気持ち、とても大切なことですわ。ただ、幼い子どもたちにとっての“教育”というのは、時として“言葉にならない影響”こそが根幹を成すもの。あなたがどう振る舞い、何を大切にしているか、それを見ているだけで多くを学んでしまうのですよ」


リセルの手の中で、セラフィーがくすぐったそうに小さく笑った。セラフィオスも、視線をディアナから一度だけリセルへと移し、そのまま目を伏せた。


「ですから……その“そばにいる”という選択は、想像以上に重みのあるものです。姉という役目は、時に“教師以上”に子どもたちを導くことになるのですから」


それは穏やかながらも、明確な指摘であり――評価でもあった。


リセルは少しだけ口元を引き結んだまま、目を閉じて小さく深呼吸した。言葉にならない何かが、胸の奥にじわじわと沁みてくる。


「……肝に銘じます」


やっと絞り出したその言葉は、声にすると驚くほど静かで、しかし確かに届いた。ディアナは軽く頷き、カップに残る紅茶をゆっくりと飲み干した。


部屋には、静寂という名の緊張が再び満ちていた。


ディアナ女史の問いかけに、リセルはわずかに瞬きをした。自分の言葉がどう受け止められたのか――一瞬だけ胸の奥がざわめいたが、すぐに静けさが戻る。彼女は、微かに口元を引き締め、視線をまっすぐに戻した。


「私は……教師ではありません。でも、セラフィオスとセラフィーにとっての“お姉ちゃん”であることは、私の一番の役目だと思っています」


女史は頷きもせず、否定もせず、ただその言葉を受け取るように目を細めた。彼女の表情は柔らかくも、内にある鋭さを完全に隠してはいない。


「たとえば、どんな時に“お姉ちゃん”としての立場を感じますか?」


その声は穏やかだったが、問いそのものは鋭かった。場を和ませるための言葉ではなく、真意を探るための刃。リセルは一瞬だけ戸惑ったが、やがて静かに口を開いた。


「どんな時も……ですが。特に、あの子たちが何かに迷っているとき、泣いてしまったとき。そんなときには、ただ黙って隣にいて、一緒に悩むようにしています。正しい答えがすぐに出せなくても、せめて、一緒に考えてあげられたら、と」


セラフィーが椅子の上で少し身じろぎし、リセルの袖をそっと引いた。少女はまだ緊張の面持ちを残していたが、リセルの言葉に安心したのか、その顔にほのかな笑みが戻り始めていた。


ディアナ女史のまなざしが、ちらりとセラフィーに注がれ、そしてすぐにリセルに戻る。


「……なるほど。では、あなたは“姉”として、知識を教えるというより、心を寄せる役目を大切にしているのですね」


「はい。私は学問も躾も、まだまだ未熟です。けれど、あの子たちが安心して“ただの子ども”でいられるように――それだけは、守っていきたいと思っております」


その答えに、女史はゆっくりと頷いた。初めて、明確な肯定のしぐさが返ってきたことに、リセルは心の中で小さな安堵を覚える。


次の瞬間、セラフィオスが椅子を引いて立ち上がり、女史に向かって小さく頭を下げた。


「ぼくたち、お姉ちゃんがいてくれて、すごく嬉しいです」


それは子どもなりの精一杯の感謝であり、姉への信頼の証だった。


女史はわずかに目を見開き、そして微笑んだ。


「あなたたちは幸せな子たちですね。とても……誇らしい」


その言葉に、リセルは咄嗟に返す言葉を見つけられなかった。ただ、セラフィオスの背中にそっと手を添え、気づかれぬように深く呼吸を整える。


――この人は、私たちを見ている。ただの審査ではなく、その“在り方”を。


静かにそう確信したリセルは、背筋を正し、次に何を問われても自分のままでいようと、心の中で小さく頷いた。


ディアナ女史は、窓から射し込む光の中でしばし視線を落とし、思索するように指先を組んだ。リセルはそれを見守りながら、すでに次の質問が来るのだろうと予感していたが、その沈黙の間には奇妙な静けさが漂っていた。


そしてようやく女史は、少し声を落として口を開いた。


「……教師の資質というものは、教える内容よりも、むしろどれだけ相手に心を寄せられるかに宿るものです。あなたのような方を見ていると、改めてそう思わされます」


その口調に飾り気はなく、賛辞とも評価ともつかない静かな事実のように響いた。だがリセルには、その一言が意味するところが、重く、しかし温かく胸に届いた。


「お褒めいただくには、まだ何もできておりませんが……」


そう答えかけて、リセルは一度言葉を切った。謙遜だけではなく、どこか自分の内に生まれた実感を確認するように、数拍の間を置いてから、改めて続ける。


「でも、私なりに、あの子たちと日々を積み重ねてきたつもりです。それがどんな形で見えるのかは、私には分からないけれど……それでも、あの子たちの中に、何か残っていればと願っています」


女史は小さく目を細め、リセルの言葉に頷いた。視線は既にテーブルの菓子ではなく、完全に彼女の内面へと注がれている。


「この家に来る前、あなたはどのように育てられてきたのかしら」


予想していなかった質問に、リセルの表情がわずかに硬くなった。だが、動揺は見せなかった。彼女は、静かに呼吸を整え、丁寧な口調を崩さずに言葉を選ぶ。


「私は、母と、ほんの少しだけ一緒に暮らしていました。ですが、その時間はあまり記憶に残っておりません」


それが真実だった。形としては母の記憶は残っていても、情としての繋がりはすでに遠く、今の自分を形作っているのは――この家で過ごした日々に他ならない。


「この家に来てから、私は多くのことを学びました。エリザベート様や、おばあさまや、そして……セラフィオスたちからも」


その名が出たとたん、セラフィーがリセルの隣で小さく頷いた。さっきまでの緊張が少しだけ解けたようで、女史のほうへ向き直って微笑もうとした。


女史はそれに気づき、柔らかなまなざしでセラフィーの様子を確認する。そして視線を戻すと、リセルに向かって、ふと意味深な調子で言葉を紡いだ。


「あなたのような方を、ある人物に紹介したいと思うことがあります」


リセルは反射的に女史の顔を見た。その声の色には、軽い思いつき以上の何かが確かに感じ取れた。しかし、女史はそれ以上を語ろうとはせず、言葉を自然に濁したまま微笑みに戻っていた。


「ですが、それはまた別の機会に。今日の訪問の本分とは関係ありませんから」


視線はわざとらしく窓の外に向けられたが、その真意を測ることはできない。けれどリセルは、なぜだか胸の奥がざわつくのを感じていた。女史の言葉は、ただの社交辞令ではなかった。その核心に触れることこそなかったが、確かに“何かが動き始めている”と直感できるような気配が、そこにあった。


女史が残した一言が部屋の空気に静かに溶けていくのを、リセルはぼんやりと感じていた。表情には出さずとも、心の中ではいくつもの思考が交錯している。紹介される「ある人物」とは誰なのか、それがどんな意味を持つのかは何も語られなかったが、それでも確かなことが一つある――自分は、見られていたのだ。


ただその場にいるのではなく、“評価”や“査定”という類の視線ではない、もっと深く、個人としての「リセル」を見ようとする視線があった。それを感じたからこそ、胸の奥がじんわりと熱を帯びていた。


「お姉ちゃん?」


そっと袖を引いたのはセラフィーだった。リセルが顔を向けると、小さな瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。


「お姉ちゃん、なんだか、むずかしい顔してる……」


その幼い指摘に、リセルはほんの少しだけ息を吐き出し、表情を緩めた。


「そうかしら。ちょっとだけ、考えごとをしていただけよ」


そう言って頭を撫でると、セラフィーは満足したように微笑み、リセルの膝に再び落ち着く。横ではセラフィオスも、何かを察したように黙ったまま紅茶のカップに口を運んでいた。


窓の外では、いつの間にか陽の角度が変わり、午後の光が部屋の奥まで届き始めていた。その光に照らされながら、リセルは改めて自分の内に問いかける。


――私は、あの方に、どう映ったのだろう。


それは答えの出ない問いだった。だが、確かに言えることがある。自分は誰かのために役立つ存在でありたいと願ったわけではない。ただ、あの子たちのそばにいたいと思った。その気持ちが、言葉や態度の端々から、ほんの少しでも伝わっていたのなら、それだけで十分だと、今は思える。


扉の方でわずかに気配が動いた。使用人が控えめなノックを一度だけ鳴らし、扉の外から声をかけてくる。


「ディアナ・エメリー女史がお帰りのご用意をなさいました」


エリザベートが静かに立ち上がり、リセルに一瞥を向ける。


「ご挨拶に参りましょうか」


「はい」


リセルも立ち上がり、スカートの裾を整える。双子も慌てて膝から降り、それぞれの動作で身なりを整え始めた。


廊下へと出ると、女史はちょうど手袋を直しているところだった。その指先の動きには、上品さと無駄のない手慣れた所作があった。彼女はリセルたちの気配に気づくと、手を止め、振り返る。


「お見送り、ありがとう。今日はとても有意義な時間を過ごせました」


その言葉に、リセルは丁寧に頭を下げる。


「こちらこそ、拙い応対で至らぬ点も多々あったかと思いますが、お越しいただきありがとうございました」


「ふふ、あなたは本当に……礼儀だけでなく、言葉の選び方も心がこもっているわね」


女史の口元に浮かんだのは、これまでで最も柔らかな笑みだった。


そして、再びリセルの顔をまっすぐに見て、小さく呟くように言った。


「――大丈夫。あなたなら、きっと大丈夫よ」


それは何の前置きも、説明もなく、ただぽつりと置かれた言葉だった。しかし、そこに込められた確かなものが、リセルには伝わった。


「……はい。ありがとうございます」


軽く礼をして見送ると、女史は静かな足取りで玄関へと向かい、屋敷を後にした。


その背中が完全に見えなくなった後、リセルは小さく息を吐いた。


「私は……見られていた」


その実感が、今も胸の奥に温かく灯っていた。それは決して監視ではなく、期待と信頼を込めたまなざしだったと、今なら確信できる。


その光を、裏切らぬように――。


リセルはそっと背筋を伸ばし、顔を上げた。今この瞬間から、自分がどう在るべきかが、少しだけ明確になった気がした。


姉として。家族として。そして、リセルという一人の人間として――。


胸の奥に宿った確かな灯火を頼りに、彼女はまた、一歩を踏み出そうとしていた。

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