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継姉、静かに立つ

客間を後にしたリセルは、静かな足取りで別室へと移動していた。マーレン夫人とエリザベートが談笑を続ける中、自身は下がっていてよいと促されたのだ。だが、完全に解放された気分にはなれなかった。部屋を出る瞬間、夫人と目が合った。言葉はなかったが、その瞳はまるで“観察を続けている”と告げるようだった。


使用人の案内に従い、庭に面した小広間へ通されたリセルは、緊張を解くように深呼吸をひとつ。セラフィオスとセラフィーの姿を求めて目を走らせると、部屋の隅に小さな影が並んで座っていた。リセルを見つけるなり、セラフィーがぱっと顔を明るくする。


「お姉ちゃん、おかえり!」


「ただいま、フィー」


その声に、セラフィオスも小さく頷いた。けれど、彼の顔にはわずかな曇りが残っていた。リセルはそっと膝を折り、ふたりと視線を合わせる。


「ごめんなさい、少しだけ大人の用事だったの。でも、もう大丈夫」


そう言って頭を撫でると、セラフィーがリセルの腕にぎゅっとしがみついてくる。


「なんだか、お姉ちゃん、ちょっと怖い顔してた……」


「え?」


「ううん……いつもみたいに、にこにこしてなかったの」


リセルは一瞬言葉に詰まり、それから小さく微笑んだ。


「そうだったかしら。ごめんね、ちょっと考えごとしていたのかも」


内心では、セラフィーの観察眼に舌を巻いていた。彼女は年齢以上に人の表情を読むのが上手だ。きっと、夫人との短い対話で張り詰めた感情を見抜かれてしまったのだろう。


セラフィオスが口を開いた。


「……あの人、怖くなかった?」


その問いに、リセルは優しく首を振った。


「怖くはなかったわ。少し、鋭い方だったけれど。でも……とても頭の良い方だったと思う」


「でも、なんか、すごく見てたよ」


リセルは小さく笑った。


「ええ、たしかにね。じっと観察されているような気がしたわ」


その瞬間、背後から足音が近づいてくるのを感じた。エリザベートだった。扉を開け、ふたりと語らうリセルの様子に目を細める。


「ごめんなさいね、リセル。少し引き留めてしまって」


「いえ、問題ありませんわ。おばあさまのお友達、素敵な方でした」


エリザベートは、どこか懐かしむような笑みを浮かべた。


「あの方とは、若いころからの付き合いでしてね。気の強いところは昔から変わらないけれど……本当はとても情の深い方なのよ」


リセルはうなずいた。あの厳しい視線の奥にも、どこか“見守るような”優しさを感じた気がしたからだ。


「リセル」


エリザベートの声が柔らかく響く。


「さっきのやりとり、よく乗り切ったわね。あなたらしかったわ」


「ありがとうございます」


褒められたことが嬉しいはずなのに、胸の奥には言いようのないざわめきが残っていた。


――私は、試されていた。


それは疑いようもない確信だった。夫人の一言一言が、まるで「どこまで本物なのか」を測ってくるかのようで、返す言葉一つにも慎重にならざるを得なかった。


「まだ、終わりじゃないような気がするのです」


リセルの口からこぼれたその言葉に、エリザベートは目を細めて頷いた。


「ええ、そうね。あの方は、きっと何か考えている。でも、大丈夫。あなたはあなたであればいいの」


その言葉に、リセルはわずかに緊張を解いた。


セラフィーが、ひざの上でくすぐったそうに体を揺らす。


「ねえお姉ちゃん、また一緒におやつ食べようよ」


「ええ、もちろん」


リセルは笑って頷いた。


そしてふと、窓の外を見る。午後の陽光が差し込むその先には、広がる庭と、そこに立つ使用人の影。夫人の馬車の準備が整い始めているのだろう。


――きっと、また来る。


その予感が胸に残るまま、リセルは再び“家族”と向き合う温かな時間へと戻っていった。


「ふふ、やっぱりあの頃と変わってないわね。紅茶の香りも、選ぶお茶菓子も……」

マーレン夫人がひとつ、くすりと笑った。口元に手を添えるその仕草には、エリザベートとの旧き日々への懐かしさが滲んでいる。


「変えられないのよ、どうしても。歳月が流れても、おもてなしの基本はやっぱり“あの時間”の中にあるものだと思うの」

エリザベートはそっと微笑んで応じ、ティーカップを取り上げた。その指先の優雅さには、年齢を重ねた今もなお衰えぬ気品が宿っていた。


リセルは、二人の会話を静かに見守っていた。言葉の端々からは、形式ばった表現ではない、深い絆が感じ取れる。単なる「交友」ではなく、互いの人生に寄り添ってきたような、そんな空気があった。


「あなた、本当に変わらないわ。昔からそうやって、“大切な人”には惜しみなく心を尽くすのよね。……そういえばあのとき、花壇の世話をしてた私が泥だらけになったの、覚えてる?あなたったら、真っ白なドレス姿のまま手伝ってくれて……」

「もちろん覚えているわ。あのとき、母に随分叱られたのよ。『そんな姿で土を触るなんて!』って。でも、あなたが困ってるのを見たら放っておけなかったの」


二人の会話は、思い出の小道を歩くように続いていく。そうしたやりとりの中にも、互いに対する敬意と愛情がにじんでいた。形式ばった貴婦人同士の応酬ではなく、若き日の思い出を分かち合う友人同士の、それも長い時間を共にしてきた者たちの語らいだった。


そんな空気の中で、ふいにマーレン夫人の視線が再びリセルへと向けられる。


「でも……時は流れても、あなたの側に“新しい顔”が加わったようね。リセル嬢、あなた」


名前を呼ばれたリセルは、椅子に座ったまま姿勢を正し、静かに頷いた。


「はい、マーレン夫人」


「あなたのご様子を見ていると……まるでこの家の空気に、すっかり溶け込んでいるように見えるわ。礼儀作法は申し分なし。でも、どこかで“心”の部分が滲んでくるのよね。言い方が悪いけれど、型に嵌められた娘には、絶対に出せない色を纏っている」


その言葉に、リセルのまぶたがかすかに揺れた。まるで、覆い隠していた何かを見透かされたような感覚。リセル自身、自分が今の立場に立つまで、どれほど気を張っていたか、どれほど“完璧な継姉”であろうと努めてきたかを思い返していた。


「……過分なお言葉ですわ」


リセルは静かに頭を下げた。だが、胸の内には不思議なざわめきが残る。評価されたはずなのに、何かを突きつけられたような感覚。賞賛の仮面を被った問いかけ――“あなたは誰のために、その役を演じているのか”と。


「あなたのような子が、“ただの継姉”で終わるはずがないと思ったの」


マーレン夫人の言葉は、まっすぐだった。語調は柔らかくとも、その眼差しは鋭く、リセルの仮面の奥へと迫ってくるようだった。


「そうお思いになりますか……?」


「ええ。だって、あなたの中には――誇りがあるもの。誰かに押し付けられたものではなく、自分で育ててきた誇りが」


リセルは答えなかった。代わりに、そっと視線を下げる。その瞬間、ふと自分の手元が目に映る。小さな双子の手を包み込んだ、あの感触が蘇る。


――守るべきものがある。私を“姉”と呼んでくれる子たちがいる。


そして、思い出す。クラウスに距離を置かれ、フローラの視線を背に感じながらも、自分が「ここにいたい」と願ったこと。あの夜、エリザベートに「本当の家族になれた気がする」と言われた瞬間の温かさ。


そのすべてが、いま胸の奥で絡み合い、リセルの中にゆっくりと確かな輪郭を描いていく。


「……私には、まだまだ未熟なところばかりですわ。ですが、それでも――この家にいてよかったと、心から思っております」


その返答に、マーレン夫人の口元がふっと緩んだ。


「そう。それが聞けて、嬉しいわ」


まるで試すような言葉ではあったが、その響きには確かな温かさが宿っていた。


マーレン夫人はリセルの返答に満足げな微笑を見せた後、手元のカップに軽く口をつけた。そして視線をそのままカップの向こう、エリザベートへと移す。


「やっぱりね、エリー。あなたが“この子を見てほしい”と言った理由が、ようやく腑に落ちたわ」


懐かしげに、そしてどこか誇らしげに呼ばれたその愛称に、エリザベートもまた穏やかな笑みで応じた。


「リセルのことは、どなたかに証明するようなものではありませんけれど……あなたなら、きっと分かってくださると、信じておりましたの」


テーブルの上を流れる空気が、やさしい陽射しのように緩やかに変わっていく。先ほどまで、どこか探るような視線を向けていたマーレン夫人の瞳からも、柔らかな光が感じられる。


「貴族社会の中で、子どもたちに課せられる役割は重すぎるわ。家の名を背負い、期待を受け、その上で自分らしさを保つなんて……大人でさえ、そううまくはいかない。けれどこの子は……たった十一歳で、ちゃんと“自分”というものを持っている」


その声には、感嘆というよりも、感動がにじんでいた。


リセルは一瞬、息を飲んだ。目の前の貴婦人が放つ言葉は、どれも飾り気がなく、心のひだを確かに撫でてくる。自分という存在が、役割や立場以上のものとして見られている――それは、リセルが長い間、どこかでずっと渇望していた認識だった。


「リセルは、我が家の“誇り”ですのよ」


その言葉は、あまりにも自然に、けれど揺るぎなく語られた。エリザベートは真正面からマーレン夫人を見据えながら、まるで世に向けてそう宣言するように、静かにそう告げた。


リセルは思わず顔を上げ、エリザベートの横顔を見つめた。いつものやわらかな微笑の奥に、誇りと決意が浮かんでいる。リセルがここにいること、その存在を、誰よりも深く信じてくれている人の瞳だった。


「私は……」


自然と口が開き、言葉が落ちていく。


「私は……この家で、生きていきたいと思っています」


それは誰かに言わされた言葉ではない。誰かの期待に応えるための台詞でもない。ただ、胸の内から込み上げてきた、ありのままの想いだった。


「命じられて、そうしているわけではありません。私自身が、そう望んでいるのです」


リセルの視線が、マーレン夫人とエリザベートの両者をまっすぐにとらえる。その瞳には、迷いがなかった。


マーレン夫人は、その姿に一拍置いてから深く頷いた。


「やっぱり……ね。あなたはもう、誰かの“役割”を演じるだけの子じゃない。そう――“自分の足”で立っている」


その言葉は、リセルの胸にすとんと落ちてきた。暖かさとともに、じんわりと力が広がっていくような感覚。


「エリー、あなたの見る目は相変わらずね。素敵な子だわ、本当に」


「ええ、でしょう?」


ふたりの間に、静かな笑いが生まれる。何かを試されたわけではない、けれど、試練を乗り越えたような清々しさが残っていた。


リセルは、再び胸に手を当てた。あの日、セラフィオスとセラフィーに「お姉ちゃん」と呼ばれてから、少しずつ変わり始めた“自分”の在り方。それを今日、こうして見つめ直す機会を得られたことが、何よりも大切に思えた。


「ありがとう、マーレン夫人。あなたが来てくださって、本当によかった」


その言葉は、誰から教えられた礼儀でもなく、自然に出た想いだった。


マーレン夫人は目を細め、ゆっくりとティーカップを置いた。


「あなたのような子に出会えたことが、今日の一番の収穫だったわ」


日差しがそっとカーテンの隙間から差し込み、銀のティーセットに柔らかな光を反射させていた。


少しの沈黙を挟んで、エリザベートがふと目を伏せた。マーレン夫人との視線が外れたその刹那、リセルはなにか胸の奥で、さざ波のようなざわめきを感じた。


「……もう、あの頃とは随分と変わったものね」


エリザベートがそう呟くと、マーレン夫人は目尻をゆるめた。


「ええ、あの頃の私たちじゃ、子どもにこんな話はできなかったわね。あのときも……あなたが黙って屋敷を飛び出した日のこと、今でも覚えているもの」


「懐かしいわ。馬車の中で延々と愚痴を言われながら、お茶会に遅刻したんですのよ。あなたが“どうせ皆つまらない人たちばかりでしょう?”って言って、私、口が塞がらなくて」


「言ったかしら、そんなこと」


「言いましたとも」


くすくすと笑いあうふたりの姿に、リセルは自然と頬を緩ませていた。こんな風に誰かと笑い合うエリザベートを見るのは、初めてだったかもしれない。あくまで控えめで、気品を崩さない夫人――そう思っていたけれど、マーレン夫人の前では、心から気を許しているのだとわかる。


「あなたとこうして並んで座っていると、昔に戻ったみたい。けれど……時間は確かに流れて、私たちは次の世代へ何かを繋いでいかねばなりませんわね」


「だからこそ、今こうして、あなたの“宝物”を見に来たのよ」


マーレン夫人が真っ直ぐにリセルを見つめる。そのまなざしには、試すような色はもうなかった。ただひたすらに――受け止めようとする強さだけが、そこにあった。


「宝物、ですか?」


リセルがぽつりと問い返すと、エリザベートは微笑んでうなずいた。


「ええ。私がこの家で、誰よりも誇りに思っている子。私の可愛い継娘。そして、我が家の“未来”――それが、あなたですのよ、リセル」


目の奥がじんと熱くなるのを、リセルは必死にこらえた。


“誇り”だなんて言葉、きっと何度だって聞いても、慣れることはない。けれど、それが口先だけでなく、本当に心からの言葉だと伝わってくるからこそ、こんなにも胸が締めつけられる。


「……ありがとうございます」


ようやくの一言に、マーレン夫人がわずかに目を伏せ、そっと膝に手を置いた。


「もうひとつ、あなたに伝えておきたいことがあるの」


その声は穏やかでありながら、どこか厳粛な響きを帯びていた。


「この国の貴族社会では、“役目”に生きる女性がほとんど。でもね、リセル。あなたは、きっと“役目”を超える子。……“道具”では終わらないわ」


その言葉は、まるで遠くの鐘の音のように、リセルの胸に深く染みわたった。


“道具”――かつて、そう見られていた日々。フローラの娘として、“跡継ぎ”の母になればいいとしか思われなかった自分。それが、今、こうして誰かに“それでは終わらない”と言われた。


ふと視線を落とすと、リセルの小さな手が、スカートの上でぎゅっと握られていた。その指先が微かに震えている。


「私は……」


言いかけた言葉を、リセルは一度飲み込んだ。そしてゆっくりと顔を上げる。


「私はもう、“誰かの代わり”としてではなく、自分の意志で、この家にいたいと思っているんです」


「命じられたから、ではなく――そう、私が“そうありたい”と思ったから」


その声は、最初はほんの小さなもので、けれど言葉を紡ぐたびに、芯のある響きへと変わっていった。


マーレン夫人もエリザベートも、その言葉を遮ることなく、最後まで静かに聞き届けていた。


「……あなたは立派な子ね」


その一言は、長い会話の締めくくりとして、静かに、けれど何よりも重くリセルの心に届いた。


リセルはゆっくりと立ち上がり、部屋の片隅――窓際へと歩を進めた。午後の陽光が淡く差し込む中、木枠の窓越しに見える中庭は、まだ春の気配を残したまま静けさに包まれている。


その光景を前に、リセルはそっと息を吐いた。


マーレン夫人の言葉、エリザベートのまなざし、そして、自らの口からこぼれた“意志”。すべてが、胸の中で反響していた。けれど、不思議とその音は静かだった。騒がしくもなく、けれど決して軽くもない――自分の中に根づいた“輪郭”のようなものが、今この瞬間、ようやく形を成した気がする。


「私は……“役割”ではなく、“リセル”として、ここにいる」


誰に聞かせるでもない、小さな呟きだった。けれど、それは確かな決意であり、自分自身への宣言だった。


ふと、背後から優しい気配が近づいてくるのを感じた。振り返ると、そこにはエリザベートがいた。


「外の空気が気持ちよさそうですわね。……もうすぐ、新しい季節が来るわ」


「ええ。……なんだか、不思議なくらい、空が澄んで見えます」


思わずこぼれたリセルの言葉に、エリザベートは微笑んだ。まるで、自分の気持ちまで透かされているようで、少しだけ恥ずかしくなる。


「あなたがこの家に来てくれて、本当によかった」


その声に、リセルは一歩踏み出した。


まだ何も成し遂げてはいない。まだ、誰かを完全に救ったわけでも、認められたわけでもない。けれど、少なくとも今は、誰かの“期待”に縛られているわけではなかった。


「私、もっと強くなりたいです。……いつか、誰かの力になるために」


その“誰か”が誰を指しているのか、自分でもはっきりとは言えなかった。ただ、セラフィオスとセラフィーの顔が、真っ先に思い浮かんだ。


エリザベートは何も言わずにうなずき、そっとリセルの肩に手を置いた。


「それなら、私もまだまだ頑張らなくてはなりませんわね。あなたに恥じぬように」


「そんな……。私なんて、まだ」


「あなたが“まだ”と言うなら、それは“これから”があるという証拠です。……立派なことですわ」


リセルは、はにかみながらも、確かにうなずいた。


窓の外では、一羽の小鳥が枝から枝へと軽やかに飛び移っていた。その姿に目を細めながら、リセルは思う。


“私はもう、“誰かのために選ばれた存在”ではなく、自分の足で立っていける。”


そう思える今日を迎えられたのは、きっと――今日という“試練”を、エリザベートとマーレン夫人が用意してくれたからだ。


扉の向こうから、誰かが廊下を歩く足音が近づいてくる。


それは、また新しい“役割”を告げるかもしれない訪れ。


けれどリセルは、もう顔を曇らせたりはしなかった。


「私は、“継姉”じゃなくて、“リセル”として進んでいきます」


そう、小さく呟いて、ゆっくりと窓から目を離した。



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