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継姉、微笑の裏で

ユリウスが去った後の客間には、どこか張り詰めた余韻が残っていた。緊張から解き放たれた空気の中で、紅茶の香りだけが穏やかに漂っている。


「ふう……まったく、騒がしい方でしたね」


リセルがそっとカップを口元に運びながら、軽く肩をすくめる。表情は柔らかいものの、その目はどこか遠くを見ていた。先ほどのユリウスの軽口、そしてセラとレオンの反応。それぞれのやりとりが、まだ胸の中に残っている。


「お姉ちゃん、大丈夫……?」


セラフィーが小さな声で問いかけてきた。先ほどまでリセルの膝の上にちょこんと座っていた少女は、兄の怒りや空気の張り詰めに、少なからず不安を覚えたのだろう。リセルはそんなセラフィーの金色の髪を、そっと撫でて微笑んだ。


「ええ、大丈夫よ。ありがとう、フィー」


その言葉に、セラフィーもほっとしたように笑みを返す。リセルはその微笑みを見ながら、もう一度目を伏せた。



あのとき、セラがあんな風に怒るのを見たのは初めてだった。普段は少し臆病で、おとなしく、何かあっても自分から前に出るような子ではなかったはずだ。けれど今日、彼は立ち上がった。怒りを露わにし、はっきりと言ったのだ――「お姉ちゃんに変なこと言わないで」と。


リセルの胸の奥が、温かくなる。自分のために怒ってくれる誰かがいるという事実が、こんなにも心強いものなのだと、初めて知った気がした。


レオンもまた、静かにではあるがユリウスに釘を刺した。その声には、確かに怒りと戸惑いが込められていた。親しき友人が冗談交じりにとはいえ、リセルに対して軽はずみな言葉を投げかけたこと。それが彼にとって、許しがたいものだったのだろう。


「ほんと、びっくりしちゃったよ……あんなのと友達だったなんてさ」


ぽつりとレオンが呟く。視線はまだテーブルの上に残されたカップに向けられている。怒りというより、悔しさと戸惑いの混ざった声だった。


「もう連れてこないでくれますか?」


セラが小さくつぶやく。まだ少し興奮気味の顔をしていたが、目は真剣そのものだった。レオンもそれに頷く。


「……ああ。あいつがあんなやつだなんて思わなかった」


二人のやりとりを見つめながら、リセルはそっと息を吸った。心の中に広がっていくあたたかな感情。それは喜びとも感動とも違う、けれど確かに自分の胸を支えてくれるものだった。


「ありがとう、二人とも。本当に……ありがとう」


リセルは、二人に向かって穏やかに微笑んだ。その笑みには、ただの感謝だけではなく、どこか決意のようなものがにじんでいた。


守られることへの喜び。それと同時に、自分自身がどう在るべきかという問い。


この家の一員として、この家の“継姉”として、きっとまだ自分にできることがあるはず。二人の気持ちに応えるためにも、もっと強くなりたい。リセルはそんな思いを胸に、改めて背筋を伸ばした。


リセルの微笑みが部屋の空気を落ち着かせたのも束の間、ソファの隅に座っていたユリウスが、何かを思い出したようにふっと口角を上げた。


「いやはや……まさか、君たちがあそこまで本気になるとはね」


軽く言い放ったその一言に、またしてもピリリとした緊張が走る。冗談めかした口調、しかし瞳にはどこか探るような色が浮かんでいた。


「おまえたち、そういう感情があったのか。なるほど、これはこれは」


ユリウスの視線が、レオンとセラフィオスを交互に見やる。からかうような声音だったが、どこか興味深そうでもあった。その態度に、セラフィオスが再びぴくりと反応する。だが、リセルが先に口を開いた。


「ユリウス様。先ほどのような物言いは、どうか控えていただけませんか?」


声は穏やかだったが、芯の通った響きがあった。彼女の目は笑っていなかった。微笑みの奥にある感情を、ユリウスも悟ったのだろう。肩をすくめながら、「これは失礼」と小さく呟いた。


「でもさ、レオン。おまえもずいぶん過保護だな。昔からそうだったか?」


わざと軽口を叩きながらレオンの肩を肘でつつく仕草に、レオンの顔が曇る。


「……リセル嬢は、この家の大切な方です」


短く、しかしはっきりとした言葉だった。レオンはユリウスの視線を避けることなく、まっすぐに言い切った。


「だから、誰かに軽く扱われるのを見るのは、正直、腹が立つんだ」


その一言に、ユリウスは目を瞬かせた。しばらく無言のままレオンを見つめ――それから、ほんの少しだけ頬を緩めた。


「そうか。……ふうん。なるほどなぁ」


やや芝居がかったように立ち上がったユリウスは、軽く手をひらひらと振る。


「じゃあ今日はこのへんで帰るよ。雰囲気を悪くしたのなら謝る。リセル嬢には楽しんでいただけたなら、なにより」


その口調には軽さが残っていたが、さすがにさっきまでのような無神経な冗談はなかった。


「お引き止めもいたしませんが、どうぞお気をつけて」


リセルは最後まで礼を欠かすことなく、上品に頭を下げた。その姿勢に、ユリウスもまた少し表情を改め、軽く礼を返す。


ドアが閉まったのは、それから数秒後だった。


残された空間には、彼の軽口とは裏腹に、なんとも言えない余韻が漂っていた。


「なんなんだ、あいつ……」


セラがぽつりと呟く。どこか悔しげな声だった。


「お兄ちゃんと同じ。私も、ああいう人は好きじゃない……」


セラフィーの小さな声に、レオンも息を吐く。


「すまない。リセル嬢にも、君たちにも嫌な思いをさせた」


彼が目を伏せる姿に、リセルはそっと微笑んだ。


「レオン様のせいではありません。私には、しっかり気持ちが伝わっていますから」


その言葉が、少しだけレオンの肩を軽くした。


その日の茶会は、ユリウスが退出してからも不思議な空気を引きずっていた。取り繕ったように再開された談笑の輪も、どこか上滑りしている。焼き菓子の甘い香りと温かな紅茶の香りだけが、先ほどまでのざわつきを中和しようと漂っていた。


セラフィオスはずっと黙ったまま、紅茶のカップに視線を落としていた。手に持ったまま、飲もうとせず、口を結んでいる。リセルはそっとその様子を見つめながら、胸の奥に何か柔らかなものが広がっていくのを感じていた。


「セラ、もう気にしないで。あなたが怒ってくれたこと、私は嬉しかったわ」


リセルが優しく声をかけると、セラフィオスはふと顔を上げた。少しだけ目元が赤いように見えたのは、気のせいだろうか。


「だって……お姉ちゃんが困ってたのに、誰もちゃんと止めなかったから……」


ぽつりと、彼は呟いた。途切れ途切れの言葉には、まだ年相応の不器用さが滲んでいたが、その中にこめられた感情は紛れもなく本物だった。


「セラ……ありがとう」


リセルは、今度こそ立ち上がって、そっと彼の頭を撫でた。指の下で感じる柔らかな髪。彼の身体がわずかに震える。


「セラは、もう立派な男の子ね」


その言葉に、セラフィオスはちょっとだけ照れたように頷いた。


すると、今度は隣の席に座っていたレオンが静かに口を開いた。


「俺も……もう二度と、あんな奴は連れてこない」


真剣な表情で言い切る彼の目は、どこか悔しさをにじませていた。


「レオン様、それは……」


リセルが思わず言いかけると、レオンは少しだけうつむき、続けた。


「アイツが悪気なくやったのは分かってる。けど、それでも、誰かが不快になるなら、俺は止めないといけなかったんだ。……君に、嫌な思いをさせてしまったのは、俺の責任だ」


その真摯な言葉に、リセルは言葉を失った。数日前までは、ただ“祖父母に言われてきた客人”だった少年が、今ではこうして彼女の心に寄り添おうとしてくれている。その変化に、思わず胸が熱くなる。


「……そんなふうに思ってくださって、ありがとう、レオン様」


そっと微笑むと、レオンはほんの少しだけ照れたように頷いた。


そのやりとりを見ていたセラフィーが、小さく口を尖らせる。


「……みんな、リセルお姉ちゃんのこと、大好きなんだね」


「うふふ。嬉しいけれど、ちょっと照れちゃうわね」


そう言って、リセルは頬に手を添えて笑った。すると、ようやく場の空気がふんわりと和らぎ、先ほどまでの緊張が嘘のように消えていった。


セラフィオスが小さな声で、「でも……やっぱり、あんな人にお姉ちゃんが何かされてたらって思うと、胸がぎゅーってなる」と呟いたとき、リセルはそっと彼の肩に手を置いた。


「その“ぎゅー”って気持ちが、誰かを守る力になるのよ。……ありがとうね」


その言葉に、セラフィオスは胸を張るようにうなずいた。


そしてレオンもまた、そのやりとりを目にして、どこか優しい表情を浮かべていた。


「……やっぱり、この家は不思議だな。心が、落ち着く」


ぽつりと零したその一言に、誰もがふと目を向けた。


「きっとそれは、みんなの“心”がここにあるから、でしょうね」


リセルのその言葉を聞いたとき、レオンの瞳に一瞬だけ、なにか確かな光が宿った。


ほどなくして、使用人が静かに部屋の戸を開け、エリザベートが戻ってきたことを告げた。部屋の空気がほのかに引き締まる。だが先ほどまでの緊迫とは異なり、そこにはほんのりとした温かみが漂っていた。


「まあまあ、随分と静かじゃありませんか」


優雅に入ってきたエリザベートは、場の空気を一瞬で把握したようだった。彼女の眼差しは、リセルと双子、そしてレオンの顔をゆっくりと見回し、最後に空席となっているユリウスの椅子に目を落とした。


「ユリウス様は、お帰りになったのですの?」


問いかけながら、エリザベートは席につく。紅茶のカップを持つ手は揺るがず、どこまでも優雅だった。


「ええ。少し早めにお帰りになりましたの」


リセルが穏やかに応じると、エリザベートは一つ頷き、少しだけ声のトーンを落とす。


「……そうですか。ならば、あまり気に病まずともよろしいのです。あの方には“少々軽すぎる節”があると、以前より聞いておりますから」


その一言に、レオンがやや肩をすくめた。


「……すみません、祖母様。僕が止めるべきだったのに」


「いいえ、レオン。あなたの反応は立派でしたわ」


エリザベートはやんわりと微笑むと、彼の肩に軽く手を添える。


「ここは“ヴァレンティアの家”。そしてこの屋敷で過ごす子たちは、みな我が家の“宝”ですのよ。たとえ血がつながっていようと、いまいとね」


その言葉に、リセルの胸が一気に熱くなるのを感じた。温かく、そして揺るがないその言葉は、まるでこの家の柱のようだった。


セラフィオスも、何かを感じ取ったように顔を上げた。じっとエリザベートを見つめ、その口元がほんの少しだけ緩む。


「“宝”って……本当に、そう思ってくれてるの?」


小さな声で尋ねるセラに、エリザベートはしっかりと頷く。


「もちろんですわ。私は、あなたたちの涙も笑顔も、どちらも尊いと思っています。それが“家族”というものですもの」


その真っ直ぐな言葉に、誰もが言葉を失った。沈黙が、温もりを含んで部屋に広がる。


やがて、リセルがそっと呟いた。


「私は……まだ、ここでの暮らしに慣れたわけではありませんけれど、それでも……」


言葉を探しながら、そっと視線を落とす。


「誰かに“宝”と言ってもらえるのは、初めてでした。……ありがとうございます、エリザベート様」


「こちらこそ、ありがとう。あなたがここにいてくれて」


エリザベートは優しくリセルの手を取り、その手を包み込むように重ねた。柔らかく温かなその感触に、リセルはじんわりと胸が満たされていくのを感じた。


その瞬間、セラフィーが椅子からちょこんと立ち上がり、リセルの膝へぴょんと飛び乗った。


「リセルお姉ちゃん、だいすき!」


その一言に、皆が笑い声を漏らした。重たくなりかけていた空気が、一気にほぐれていく。


リセルはセラフィーの小さな背中をそっと抱きしめながら、目を細めて笑った。


「私も、あなたたちが大好きよ」


その言葉が、今度こそ本当に部屋全体をあたためてくれた気がした。


エリザベートが紅茶を飲み干したのを合図に、使用人が茶器を片付けに入り、談笑の空気も徐々に穏やかな静けさへと戻っていった。だが、リセルの胸の内では、先ほどまでの出来事がまだ温もりを残していた。


あの時、セラが――そしてレオンが、自分のために声を上げてくれた。


今まで“守る側”であろうと努めてきた自分が、“守られる側”として向けられた眼差しの、なんとあたたかかったことか。


(あの子たちは……こんなにも真剣に、私のことを大切に思ってくれているんだ)


不意に、少しだけ背筋が伸びた気がした。誰かに守られたという事実は、ただの安らぎではなく、新たな覚悟へと繋がっていく。


そんなリセルの思考を察したように、エリザベートがそっと微笑んで言う。


「リセル。あなたはとても強い子ですわ。でもね、強い子ほど――誰かに寄りかかることを、つい忘れてしまうものですのよ」


その言葉に、リセルはふっと肩の力を抜いた。


「……はい。けれど、今日みたいなことがあると、少しだけ……私にも寄りかかれる場所があるのかなって、思えます」


「そう思ってもらえるなら、本当に嬉しいですわ」


エリザベートはそう返すと、席を立ち上がり、軽くスカートの裾を整える。


「そろそろお時間ね。あとは若い方たちだけで、ゆっくりとお過ごしなさいな」


リセルは立ち上がり、礼をして見送る。エリザベートが出て行ったあと、少しの静寂が訪れた。


その沈黙を破ったのは、レオンだった。


「……リセル嬢。さっきのこと、本当にすみませんでした。ユリウスのこと、あんなふうにさせてしまって」


レオンはやや気まずそうに視線を逸らしながらも、まっすぐに謝る。リセルは首を横に振り、優しく応じた。


「あなたのせいではありませんわ。それに……私のために怒ってくださったこと、とても嬉しかったです」


「……嬉しかった?」


「ええ。セラも、あなたも、私のことを“守るべき存在”として見てくれていた。その気持ちは、ちゃんと伝わってきましたもの」


リセルの微笑みに、レオンは顔を赤らめ、視線を落とした。


「なんであんなのと付き合ってるんだって……セラが言ってましたけど、僕もそう思いました」


小さな声でつぶやいたレオンに、セラフィオスがすかさず頷く。


「もう連れてこないで。お姉ちゃんに変なこと言う人、やだ」


リセルは思わず笑みをこぼしかけたが、その前に、部屋の奥からふわりとした声が届いた。


「でもね、セラ。貴族同士のお付き合いというのは、ときに感情だけでは動けない場面もございますの」


そう言って、エリザベートが部屋の扉の前で振り返っていた。


「誰と付き合い、誰と距離を取るか――それは“家”としての判断が求められることもありますのよ。だからこそ、あなたたちが心から信じられる人を見極める目を持つことが、大切になってまいりますわ」


セラフィオスは少し難しそうな顔で、けれど真剣にその言葉を受け止めているようだった。


「……うん。わかった。でも、もう“あんなこと”はしてほしくない」


エリザベートは優しく頷き、今度こそ去っていった。


リセルは、二人の小さな肩に、自分への想いが確かに宿っていると感じながら、静かに言う。


「ふふっ、ありがとう。二人とも」


そう言って、セラとレオンの頭をそれぞれ優しく撫でる。


――いつか私も、この子たちをちゃんと守れる人間にならなくちゃ。


そんな決意を胸に、リセルは静かに目を伏せた。



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