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継姉、“護衛”に挟まれる

ユリウスが微笑を浮かべながらグラスを傾けたのは、談笑がひと段落した瞬間だった。エリザベートの差配により、お茶の時間は穏やかな空気に包まれていた。誰もが上品にふるまい、場の空気を壊す者はいなかった。——少なくとも、そのときまでは。


「リセル嬢。よろしければ、今夜、こっそり庭を抜け出してみませんか?」


朗らかに、まるで軽口のように告げられたその言葉に、銀のティースプーンが一瞬、リセルの手元で止まった。


静まり返る空気。


何気ないひとことに見せかけて、その意味はあまりに露骨だった。リセルは微笑を崩さなかった。だが、目だけは冷ややかにユリウスの顔を見返す。


「まあ、なんて軽やかな誘い方。でも、あいにく私は夜の散歩にはお供が必要でして——お断りしますわ」


その声はやわらかく、それでいて一切の隙を見せない。けれど、内心では警戒の炎が小さく灯っていた。


この場で恥をかかせる気はない。だが、この男、距離を見誤った。


視線を下げたとき、リセルはふと隣に座るセラフィオスの手がぎゅっと拳を握りしめているのに気づいた。


(セラ……)


幼いその横顔には、かすかに怒気がにじんでいた。眉をひそめ、口を真一文字に結んだ表情。それが、リセルの胸に微かな不安を呼び起こす。


なぜなら——あの子は、怒りをあらわにするような子ではなかったからだ。


同時に、リセルは気づいていた。あの言葉が、周囲の空気を鋭く切り裂いたことに。


少し離れた席では、レオンもまた微笑を消していた。その様子が視界の端に映ったとき、リセルは静かに思った。


(場をなだめるか、それとも……)


だが彼女はまだ動かない。ただ、品よく微笑んでいる。まるで「これ以上は口を慎みなさい」とでも言うように——


ユリウスの表情は、それでも崩れなかった。茶目っ気のある貴族の青年を装ったまま、ティーカップを持ち上げる。だが、その目は試すような色を帯びていた。


(この人、わざとね。どこまで踏み込めるか、試してる)


冷静な分析が、リセルの脳裏を過った。そのうえで、彼女は心の中でつぶやく。


(いいわ、乗らない。私は、もう誰かの顔色を伺うだけの道具じゃない)


心の奥で、ささやかながら確かな決意が芽吹いていた。


セラフィーがリセルの膝の上にちょこんと座ったまま、そっと顔を上げた。さっきまで楽しげにしていたその小さな表情に、不安の色がにじむ。

リセルが優しく髪を撫でようとしたその瞬間、隣の椅子で座っていたセラフィオスが、音を立てて立ち上がった。


「お姉ちゃんに、変なこと言わないで」


その声は、決して大きくはなかった。けれど、凛とした怒気がはっきりと込められていて、部屋の空気がぴたりと凍りついた。


焼き菓子の甘い香りが鼻をかすめていたはずなのに、今はもう、何も感じない。

その場にいた誰もが、セラフィオスの一言に言葉を失っていた。


「セラ……」

リセルは、動揺を悟られぬよう静かに名前を呼びかけた。立ち上がろうとしたが、膝の上のセラフィーが袖をぎゅっと掴んできたため、すぐには動けない。


ユリウスは一瞬まばたきをし、それからやや芝居がかった調子で言葉を返す。


「……冗談だったんだけどなぁ。こんなに本気で怒られるとは思わなかったよ」


彼の口元には笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。

からかい半分の態度に、セラフィオスの感情がさらにあふれた。


「“冗談”でも……お姉ちゃんが困るようなことは、言ってほしくなかった」


真っ直ぐな瞳が、まるで見透かすようにユリウスを見つめる。幼さの残る顔立ちに、幼さとは程遠い芯の強さが宿っていた。


リセルはその小さな手をそっと取る。ふるふると微かに震える指先に、彼の緊張と怒りがにじんでいた。


「ありがとう、セラ。でも……もう大丈夫よ」


微笑んでそう囁くと、セラフィオスはほんの少しだけ、肩から力を抜いた。


リセルは膝の上のセラフィーにも優しく目を向けた。セラフィーは兄の背を見つめながら、不安そうに唇を噛んでいる。


「男の子って……真っ直ぐですね。少しびっくりしましたけれど、でも……嬉しいですわ。優しさって、ちゃんと伝わってくるんですね」


リセルの柔らかな言葉に、セラフィオスは照れくさそうに俯いた。


けれど、リセルにはわかっていた。

彼が、ただ幼いだけの弟ではないこと。

彼の中に確かにある“誰かを守ろうとする心”が、自分のために向けられているということを。


それは、何よりも温かく、何よりも強い――そんな気持ちだった。


ユリウスが空気を和ませようとしたのか、肩をすくめて言葉を続けた。


「いやはや、まさかセラにまで怒られるとはね。リセル嬢、あなたの周りは護衛が手厚いな」


冗談のように聞こえるその言葉には、どこか居心地の悪さが滲んでいた。


すると、レオンがゆっくりと椅子を引いた音が響いた。


「ユリウス、そこまでにしてくれ」


静かな声。けれど、その言葉の奥に潜む感情は明らかだった。

ユリウスは苦笑しながら振り返る。


「レオンまでか。これはさすがに少し参るな。友人をからかったつもりだったんだけど、過保護にも程があるだろ?」


「からかう相手を間違えたんだよ」


レオンの瞳が冷たく光る。その口調に、ふだんの柔らかさはなかった。


「この家の女性に、軽々しく触れるな」


短く、しかしはっきりと告げたその言葉に、ユリウスはようやく事の重大さを悟ったのか、ほんの一瞬だけ言葉を失った。


リセルは、レオンのその態度に驚きを隠せなかった。

ついさっきまで穏やかだった彼が、今はまるで護衛の騎士のような眼差しで友人を見つめている。


「レオン……」


リセルが名を呼ぶと、彼は一つ頷いて口元にわずかな笑みを戻した。


「僕はね、こう見えても礼儀くらいは守るつもりなんだ。……ユリウスには、それがちょっとだけ足りなかっただけだよな?」


「……まったく、君たちには敵わないな」


ユリウスがようやく手を挙げて降参のポーズを取ると、場の空気は少しだけ緩んだ。

だが、そのやり取りの中で、レオンの本気の怒りを感じ取った者は少なくなかった。


リセルは膝の上のセラフィーの髪をそっと撫でながら、レオンとセラ、二人の反応を胸に刻んでいた。

守られているという実感と共に、その背後にある“想い”の重みを、ひしひしと感じていた。


場の空気がようやく落ち着きを見せはじめたその時、エリザベートがそっと紅茶のカップを置き、小さく咳払いをした。


「お二人とも、まあまあ……。お茶が冷めてしまいますわ」


穏やかな微笑とともに投げかけられたその言葉は、やんわりとした牽制でもあり、優しい緩衝でもあった。

彼女の言葉に、ユリウスもようやく気まずさを和らげるように頷く。


「申し訳ありません、奥様。つい軽口が過ぎました」


「うふふ、若い方たちが元気なのは結構なことですけれど……リセルは我が家の宝ですのよ。ですから、どうか、からかいはほどほどに」


その言葉に、ユリウスはようやく本気で頭を下げた。

レオンもそれを見て、ようやく肩の力を抜いたようにため息をついた。


「……それでも、セラの言うとおりだよ。リセル嬢は、誰かに軽んじられるような存在じゃない」


「レオン……」


リセルがそっと名を呼ぶと、レオンは照れ隠しのように顔を逸らした。


「ただの当たり前のことさ。あんなふうに怒ったの、僕も初めてだったから……びっくりしてるけど」


するとセラフィオスが、もぞもぞとリセルの隣ににじり寄りながら、小さく呟いた。


「僕も……なんか、怖かったけど……お姉ちゃんが笑ってくれて、よかった」


リセルはそんな弟の頭をそっと撫でた。

ふわふわした髪の感触が、ほんの少し前までの緊張を和らげてくれる。


「ありがとう、ふたりとも。本当に、優しいのね」


その柔らかな声に、エリザベートがふわりと笑った。


「ふふ……この家の子たちは皆、心のこもった絆で結ばれておりますの。だから、こうして自然と、誰かを守りたくなるのですわ」


その言葉には、優しさだけでなく、確かな誇りが宿っていた。

リセルはそっと目を伏せ、その言葉を胸の奥に刻んだ。


リセルは紅茶の香りに包まれながら、ふと膝の上のセラフィーを見下ろした。

ぴったりと体を預けてくる小さな温もりに、静かな安心感が広がっていく。


テーブル越しに座るセラとレオンの姿を見ながら、リセルは静かに思った。

――たった数日前までは、彼らとこうして自然に笑い合える日が来るなんて、想像もしなかった。


「私は……守られていたんだわ」


それは、子ども扱いされることとは違う。

ましてや、ただの“道具”として扱われていた頃のような、期待という名の枷でもない。

あの時のユリウスの軽口が、意図的な悪意でなかったことは理解している。

けれど、それを前にして本気で怒ってくれたセラとレオンの存在が、何よりも嬉しかった。


――私が誰かに守られる価値のある存在として、ここにいることを、二人は証明してくれた。


胸の奥が、じんわりと熱くなる。

思わず目を伏せると、膝の上のセラフィーがその気配に気づいたのか、くすぐったそうに顔をすり寄せてきた。


「……ありがとう、セラ。ありがとう、レオン」


声には出さなかったけれど、心の中でそっと感謝を重ねる。


この優しさに、甘えてばかりはいられない。

私は、守られるだけの存在で終わるつもりなんてない。


二人の想いが、私の背中を押してくれる。

――だから私は、前に進める。


「私はもう、誰にも翻弄されない。守られるだけの立場で終わってたまるものですか」


小さく、誰にも聞こえないように呟いたその言葉に、リセル自身の内側で確かな何かが芽生えた。


気づけば、部屋の中には再び穏やかな談笑が戻っていた。

ユリウスも少しばつの悪そうな顔でレオンと話しており、セラはお菓子の皿を引き寄せながら黙々と食べている。


いつもの空気。けれど、確かに、少しだけ前よりも――あたたかい。

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