継姉、訪問者に戸惑う
「今日は、お客様がいらっしゃるのよ」
朝食を終えたばかりのダイニングで、エリザベート祖母が紅茶を口にしながら穏やかにそう告げた。その口調はいつも通り優雅で、けれどどこか、ほんの少しだけ浮き立っているようにも見える。私は膝の上で手を揃えたまま、静かに問い返した。
「お客様、ですか?」
「ええ。レオンが親しいお友達を一人、この家に案内したいのだそうよ。うふふ、あなたに紹介したいんですって」
――レオンが、友達を。私に。
その言葉の意味を噛みしめると、ほんの少し胸がざわつく。私にとって“客人”という存在は、あまりいい記憶と結びつかないものだったから。
「……どのような方でしょうか」
「侯爵家のご子息らしいが、格式張った感じではなかったな」
祖父のグレゴリウス様がそう補足して、新聞を畳む。新聞の角が音を立てた拍子に、少し緊張していた私の背筋がぴんと伸びる。
「ま、堅苦しい挨拶はいらん。いつもの“おまえ”で応じてみろ。客を見る目を持っているのは、誰よりもおまえだからな」
「……ありがとうございます」
そう返した声に、少しだけ力がこもってしまった気がした。視線を落として、スカートの裾を軽く整える。
レオンは、年上だけれど不思議と“身内”として安心できる存在になってきていた。けれど、そのレオンが「紹介したい」と言ってくる相手となれば、それなりの“意図”があるのだろう。
貴族社会における訪問や紹介は、単なる挨拶の域を超えることがある。“この子はこういう人と関係があります”という、暗黙の意思表示。見栄や地位を誇示する道具にもなり得る。私はそのことを、昔の家で嫌というほど教わった。
たとえ、祖母たちが何の含みもないご挨拶だと思っていても――。
「リセル、お顔がこわばってるわよ?」
「……すみません。少しだけ、気を引き締めないとと思いまして」
私は静かに立ち上がり、身支度に向かう。白いブラウスに濃紺のスカート、控えめなレースと刺繍を施されたリボンを一つ。派手過ぎず、でも気を抜いて見えない装い。まるで舞台の幕が上がる前の女優のように、深呼吸を一つ。
“訪ねてくる”という行為は、つまり“評価しに来る”ということ。
私は今、ただの養女でも、ただの継姉でもない。ヴァレンティア公爵家の“お披露目”の窓として、誰かを迎えるのだ。
それがたとえ、子供同士の訪問だったとしても。
応接室の扉がノックされたとき、私は既に席に着いていた。少し張り詰めた空気の中、祖母がにこやかに「どうぞ」と声をかけると、まずは見慣れたレオンの顔が現れる。
「こんにちは、リセル嬢。今日は僕のわがままに付き合ってくれてありがとう」
変わらぬ丁寧さと、どこか気恥ずかしげな笑顔。私はそっと立ち上がり、軽くお辞儀を返した。
「こちらこそ、お友達を紹介していただけるなんて光栄です」
その後ろから続いて入ってきた少年は、レオンよりも一回り背が高く、整った金髪を緩く流していた。制服の着こなしはきっちりしているのに、どこか柔らかい空気を纏っている。
「うわ……! ここのお嬢様、まさかこんなに可愛いなんて聞いてないぞ、レオン?」
いきなりそんな言葉を放たれて、私は軽く目を見開く。続くのは、ほんの一歩踏み込んでくるような距離感。好奇心と無邪気さが入り混じったような瞳が、私を見つめていた。
「……はじめまして。ユリウス様ですね。スピネリオ侯爵家のご子息と伺っております」
「そう、ユリウス・スピネリオ。よろしく、リセル嬢。いや、こんな綺麗な子を“嬢”付けで呼ぶのも固すぎるな。リセルちゃん、でいいかな?」
――軽い。想像していた以上に。
私は穏やかに微笑みを返しつつも、内心では距離感の取り方を探っていた。貴族としての礼儀はある。が、それはあくまで“形式”であり、“敬意”とは別だ。
「リセルで構いません。ただ、あまり気安くすると、セラが拗ねてしまうかもしれませんわ」
そう言って、私の隣にぴたりとくっついているセラフィオスを軽く見下ろす。セラは黙ったまま、私の袖をぎゅっと掴んだままだった。その指先に、ほんの僅かな力がこもっている。
「……お姉ちゃんに、変なこと言わないで」
ぽつりと、小さな声が落ちた。だけどその声音は、意外なほど真っすぐで強い。
「おやおや、弟君に怒られてしまったなあ、僕」
ユリウスはひょうきんに笑って肩をすくめたが、その瞬間、レオンが苦笑混じりに小声で釘を刺す。
「やりすぎると本気で泣かれるぞ、ユリウス。僕が保証する」
「ええー、それは困る。じゃあ、今日はちょっと紳士モードで行くとするか」
レオンとの軽いやりとりに場の空気が和らぎかけるが、私はまだ気を緩めてはいなかった。この手の軽口は、油断を誘うために使われることもある。“本性”は、もっと静かな場面で現れるものだ。
「どうぞ、おかけになってください。お飲み物は紅茶とレモネードを用意しておりますわ」
「それは素敵だ。じゃあ、リセルちゃんのおすすめで」
――あくまで、穏やかに。優雅に。
だが、視線の裏側にある“好奇心”や“探る気配”を、私は見逃さないようにしていた。
「ただいま戻りました」
エントランスにレオンの声が響き、そのあとに控えめな足音が続く。私は玄関ホールに一礼の姿勢で待ち構えていたが、ふと心臓の鼓動が一段と速くなるのを感じていた。
「リセル嬢、ご紹介します。こちら、私の友人のユリウス・スピネリオ殿下。スピネリオ伯爵家のご嫡男です」
「初めまして、ユリウス・スピネリオと申します。本日はお招きいただき、光栄に存じます」
綺麗に整った栗色の髪、均整の取れた細身の体つき。完璧な所作で一礼する姿は、まさに教本通りの“貴族の子息”そのものだった。
「ヴァレンティア家のリセルと申します。こちらこそ、お運びくださりありがとうございます」
私も微笑みを添えて礼を返す。その一瞬だけ、視線が交錯した。
その目――。
笑っていない。
言葉も態度も丁寧で、非の打ち所はない。だが、その眼差しだけが異質だった。相手を“人”として見るのではなく、“何か”として測っているような、そんな冷たい光を宿していた。
「リセル嬢のお噂はかねてより伺っております。レオンより、“とても興味深い方だ”と」
「まあ、それは……どのような意味かしら」
柔らかく返したつもりだったが、自分でも気づくほど、声の端に警戒がにじんでしまった。するとユリウスは唇の端をほんの僅かに持ち上げた。
「その目つきも含めて、なるほど――やはり興味深い方ですね」
瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「ユリウス殿、ご無礼のないように」
グレゴリウス祖父の低い声が、すかさず間に入る。その声音には笑みが含まれているが、明らかに釘を刺していた。対して、ユリウスはまるで意に介した様子もなく、涼しい顔で軽く頭を下げた。
「もちろんです。あくまで感想に過ぎませんので」
この少年――油断ならない。
“視察官のような目”――私はかつて、何度もそういう目にさらされてきた。飾られた言葉の裏に、計算や見定めの意図を感じ取ってしまうのは、きっと、伯爵家にいた頃の記憶がまだ抜けきっていないから。
祖父母は朗らかに応接を続けていたが、私は既に“鎧”を着る準備を整えていた。
「どうぞ、こちらへ」
祖母の案内で応接室へと通されたユリウスは、グレゴリウス祖父とエリザベート祖母の向かい側のソファにゆったりと腰を下ろした。私はその斜め前、やや距離をとった位置に座る。レオンは私の隣。なぜか少し落ち着かない様子だった。
「紅茶をお持ちいたしますわね。お口に合うと良いのですけれど」
「ありがとうございます、奥様」
エリザベート祖母の柔らかな物腰に、ユリウスはにこやかに答える。だが、その視線はやはりこちらへ――私の顔をじっと見ていた。
「リセル嬢は、日頃どのようなことを?」
「弟と妹の勉強や遊びに付き合うことが多いですね。家の用事を手伝うこともあります」
「ご立派ですね。私の妹は、そういった“姉らしいこと”がまるでできない子でして」
「それは……私が姉であることを意識して育ったからかもしれません。周囲がそう望みましたので」
意図的に“姉らしさ”という言葉に含みをもたせた。するとユリウスはふっと小さく笑った。
「なるほど。役割と責任は、貴族にとって大切なものですからね。ただ――」
彼は紅茶をひと口含み、言葉を切った。
「それが“自身の意志”と一致しているかどうかは、また別の話でしょう」
意志。
その単語の鋭さに、指先がわずかに震えた。思い出すのは、伯爵家で“人形”のように扱われていた頃。口答え一つせず、周囲の期待に応えるだけだった日々。ユリウスの言葉は、まるでそこに踏み込もうとする探針のようだった。
「そうかもしれません。けれど、今の私は、誰かの期待ではなく、自分の意志で選んでここにいます」
「それは素晴らしいことですね。自分の居場所を“意志”で築く――そういう人は、きっと他人の心も動かす」
まるで試すように、なぞるように。ユリウスの言葉は丁寧でありながら、どこか含みを持っていた。
私は笑顔のまま、答えた。
「そのためにも、日々精進しておりますわ。まだまだ未熟なところばかりですから」
「いえ、謙遜なさらずに。あなたは――とても興味深い存在だと、あらためて感じましたよ」
背筋が、ひやりと冷えた。
やはりこの少年、ただの客人ではない。
ユリウスはふと懐中時計を取り出して蓋を開き、にやりと笑った。
「さて、そろそろお暇しようかと思っていましたが……。これだけの麗人に会ってしまうと、名残惜しくてなりませんね。夕餉までご一緒しても?」
わざとらしくリセルに視線を送りながら口にしたその軽口に、レオンの眉がぴくりと動く。セラフィオスは黙ったまま、ソファの縁をきゅっと握りしめていた。リセルは一瞬だけまぶたを伏せると、すぐにいつもの微笑みに戻った。
「まあ、もったいないお言葉ですわ。ですが、お客様のお時間を私どもが独占するわけには」
「独占されるのも、悪くありませんがね」
「おやおや、ユリウス様。それはあまりにも軽率なお言葉ではございませんこと?」
上品で穏やかな声が割って入ったのは、エリザベートだった。柔らかな笑みのまま、けれど目だけがわずかに鋭く光っている。
「リセルは、我が家にとって大切な“宝”でございますの。軽々しく扱われては、困りますわ」
その言葉に、レオンが思わず噴き出しそうになるのを堪え、セラフィオスは口元を引き結んだ。ユリウスは肩をすくめて笑った。
「これは失礼。どうやら本当に護衛が厳重なようで。ならば、もう少し大人しくしておきましょうか」
「それがよろしいかと存じますわ」
リセルはにこやかに微笑んだまま答える。その声音の中には、どこか張り詰めた緊張感が潜んでいた。だが、それを察した者はまだ少ない。
「お祖母様、お茶をもう一度入れ直しますわ」
「まあ、ありがとう。お願いできますか?」
「はい。セラ、少しお手伝いしてくれる?」
「うん」
リセルはゆっくりと立ち上がり、セラフィオスの手を引いて部屋の外に出る。その背中を、レオンとエリザベート、そしてユリウスが見送った。
廊下に出ると、リセルは足を止め、静かにセラフィオスに語りかけた。
「さっきは……ありがとうね、セラ」
「お姉ちゃん……あいつ、嫌な奴だ」
「うん。私もちょっと困っちゃった。でも、あなたがそばにいてくれて安心したわ」
そう言ってリセルが優しく微笑むと、セラフィオスはわずかに頬を赤らめた。リセルの中には、ただの冗談にしては行き過ぎた態度を取るユリウスへの不信と、彼の言葉を真に受けて不機嫌になる二人の少年たちへの戸惑いが渦巻いていた。
(……このままだと、良くないわ。あの人、簡単には引き下がらないタイプ。きっと、もっと踏み込んでくる)
そう確信しながら、リセルは内心に静かなため息を落とした。レオンがどうしてこの友人を連れてきたのか、その真意はまだ不明だった。けれど、今のところ彼に悪気はないように思える。問題は、ユリウスの“思惑”のほうだ。
(でも……もう、私は誰かに好き勝手されるだけの存在じゃない)
リセルは手にしたティーカップをしっかりと持ち直す。たとえこの先、どんな言葉を投げかけられても、どんな態度を取られても、守るべきものがある限り、私は折れない。そんな想いが、心の奥でゆっくりと燃えはじめていた。




