継姉、今のあの子たちに過去の自分を見る
部屋の中は静まり返っていた。外では虫の声がかすかに聞こえるが、この部屋の中には、子供たちの穏やかな寝息だけが流れている。小さな寝顔が二つ、私の隣で寄り添うように眠っている。その柔らかな頬に指を伸ばしそうになって、私はそっと手を引っ込めた。
「……可愛い寝顔」
そう、誰に向けるでもなく、ただ小さく呟いた。セラフィオスとセラフィー――あの子たちが、こんなにも安心した顔で眠っているのを見るのは、どれくらいぶりだろう。いや、もしかすると初めてかもしれない。
彼らと初めて会った日のことを思い出す。伏し目がちで、感情を閉ざしたような目。自分の気持ちなんてどうでもいい、ただ黙っていれば誰にも迷惑をかけない――そんな諦めがにじんでいた。まるで、かつての私自身を見ているようだった。
「私も……あの頃は、あんな目をしてたのかもしれないわね」
記憶が戻ったのは、五歳の頃だった。母に連れられて、あの伯爵家から公爵家に戻ってきたのは四歳のとき。けれど、それまではずっと、あの家で過ごしていた。厳格で、冷たくて、やたらと格式ばかりにうるさい家。笑うことも、泣くことも、怒ることすら、私には許されていなかった。
「“伯爵家の娘”として恥ずかしくないように」
そう言って、祖父母や叔母たちは常に私の振る舞いに目を光らせていた。礼儀作法、舞踏、音楽、刺繍……すべては“娘としての商品価値を高めるため”の教育だった。そこに、私自身の希望や意思など入り込む余地はなかった。
七歳のときには、勝手に婚約話まで進んでいた。どこかの侯爵家の次男坊とかで、私はまだ事情もわからないまま、「この子はもう、そちらに嫁がせますから」なんて言葉が交わされていた。母が止めたけれど、その理由だって「もっと良い家が見つかるかもしれないから、もう少し待てばいい」というものだった。
誰も、私自身の幸せなんて考えていなかった。
「道具、だったんだ……私も」
小さく呟いた声が、夜の静けさに溶けていく。私は“伯爵家の娘”という名の道具で、いかに高く売れるか、それだけを考えられていた。可愛がられることも、愛されることもなく、ただ“価値”として測られていた。あの家には、そういう冷たい空気が当たり前のように満ちていた。
でも、今は違う。
私の隣には、小さな温もりがある。セラとフィーが、安心して眠っている。その小さな手が、私の手をぎゅっと握っている。どこか不安そうに、それでいて確かに「離さないで」と言っているようで――胸が熱くなる。
「もう……絶対に、誰にも奪わせない。あの頃の私みたいに、あの子たちを“物”として扱わせたりなんかしない」
誰かの言いなりになる人生は、もう終わりにした。私は私の意志で生きる。誰かに命じられるままに笑って、従って、愛想良く頭を下げるだけの人生なんて、もう二度とごめんだ。
「この手は、守るためにある。操られるためじゃない」
夜の静けさが、私の言葉を否定することなく包み込んでくれた。窓の外には月が浮かんでいる。あの頃、何度も泣いた夜の月と同じはずなのに、今夜は不思議と、少しだけ優しく見えた。
あの家には、確かに「家族」と呼ばれる人たちがいた。けれど、その誰もが私を“娘”や“姪”として見ていたとは、今でも思えない。
母――フローラは、外では立派な伯爵夫人を演じていた。着飾り、穏やかに微笑み、客人の前では「娘を愛している母親」の顔をしていた。でも、その笑顔の裏には、冷たい計算が潜んでいた。
「あなたのためよ、リセル。貴族の娘としてふさわしい未来を用意してあげているのよ」
そう言いながら、私に選択肢を与えたことは一度もなかった。舞踏の稽古で泣いても、手がかじかむような冷たい部屋で刺繍を続けさせられても、母はただ私を見下ろして、「頑張りなさい」と言うだけだった。
「少しでも“いい家”に嫁がせれば、自分の立場も盤石になる」
そんな声を、母が親族の前で漏らしたこともある。私はただの踏み台だった。母があの家で良い顔をし、居場所を確保するための、都合のいい飾りだった。
従兄弟たちも、決して味方ではなかった。年が近いはずなのに、彼らはいつも私をからかった。
「また刺繍? まるで人形みたいだね、リセル」
「喋ると減点されるの? お行儀が良すぎてつまらないな」
そう言って、私の前でわざとお菓子を落としたり、覚えたての踊りをからかったり。誰も止めてはくれなかった。むしろ、大人たちは「従兄弟同士で仲が良くて微笑ましいわね」なんて言って、微笑んでいた。
伯爵家の祖父母は、形式と体面を何よりも重んじる人たちだった。祖父は厳格で、私の挨拶の一言一句にまで目を光らせていたし、祖母は無表情のまま、私の背筋が曲がれば扇で肩を叩いた。
「女の子は美しく、上品に。それが何よりの価値よ」
今でもあの言葉が耳に残っている。口紅の塗り方、視線の使い方、扇を持つ角度……“価値”を保つために必要だと、まるで商品を棚に飾るように教え込まれた。
あの屋敷の中で、私は“育てられて”などいなかった。ただ“整えられて”いたに過ぎない。誰かにとって好ましく見えるように、歪められ、磨かれ、そして“出荷”のときを待たされていた。
「家族って、なんだったんだろう」
ぽつりと呟いた言葉に、隣のセラフィーが寝返りを打って、また私にぴたりとくっついてきた。無意識に、私の存在を求めるように。温かくて、小さな体。愛おしくて、たまらない。
「家族って、こういうことなんじゃないの? 本当は」
ふと、今の祖父母――グレゴリウスとエリザベートのことが思い浮かぶ。最初に出会ったときの、祖母のふんわりした笑顔。祖父の厳しそうな目の奥にあった、確かな優しさ。言葉は多くなくても、あの人たちは最初から、私を“人”として見てくれていた。
私が双子のことを話すと、真剣に聞いてくれた。手作りのお菓子を持っていったときには、祖母が泣きながら「あなたは、本当に素敵なお姉さんね」と抱きしめてくれた。
「家族って、選べないものだと思ってた。でも、こうして分かった気がする」
血のつながりよりも、心のつながりの方が、よほど大切なんだ。過去に私を道具扱いしていた“家族”よりも、今の方がずっと家族らしい。
「私は……この手を、守るために使う。もう二度と、誰かのために差し出したりなんてしない」
胸の奥に、静かに熱が宿る。あの家で過ごした日々は、今でも私の一部になっている。でも、それは私を縛る鎖じゃない。あの痛みがあったからこそ、私は今、誓える。
「絶対に、あの子たちを守る。私は……お姉ちゃんだから」
夜の静けさの中、私はそっと立ち上がり、窓辺に歩み寄った。冷たい夜気が肌に触れる。昔は、窓を開けることすら許されなかった。髪が乱れる、喉を傷める、無駄な感情を外に漏らすな――そう言って、すぐに鍵が掛けられた。
「風を感じるって、こんなに気持ちよかったんだ……」
今ならわかる。あの頃の私は、何も感じないようにしていたんだ。感じたら壊れてしまうから。母の言葉も、祖母の視線も、従兄弟たちの嘲笑も。全部をただ受け流して、黙って笑って、首を傾げて――人形のふりをしていた。
でも今は違う。双子の笑顔を見れば、心が跳ねる。祖父母の声を聞けば、背中が温かくなる。私についてくれてるリリアナさんの紅茶の香りだけで、一日が楽しみに変わる。
「だから私は、もう戻らない。あの家にも、あの頃の自分にも」
月を見上げながら、私は小さく拳を握った。過去に縛られる必要なんて、どこにもない。私は、今を生きている。この手で、守りたいものがあるから。守られなかったあの日の私に、胸を張って言えるように。
「大丈夫。ちゃんと守ってあげられるよ、って」
その時、小さな声が布団の方から漏れた。「お姉ちゃん……?」セラフィオスだった。寝ぼけたように私を探す目が、月明かりに照らされてきらきらしていた。
「……ここにいるよ。ずっと、そばにいるよ」
私はゆっくりと歩み寄り、彼の頬に手を添えた。弟は安心したように目を閉じ、再び静かな寝息を立て始めた。
心の奥で、何かがほどけていくのを感じた。ああ、やっぱり私、幸せなんだ。こんな夜を過ごせることが、どれほどの奇跡か。
「絶対に、失わない。何があっても、もう誰にも渡さない」
強く、そう思った。
5歳のある日、突然“私”が帰ってきた。何の前触れもなく、ただある朝目覚めたとき、自分が「自分」だとはっきりとわかった。曇りガラスの向こうにあった記憶や感情が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
それまでは、まるで機械だった。指示された通りに礼をし、笑い、食事を摂り、勉強し、眠る。ただの反応装置のように周囲の期待に応えていただけで、何も感じていなかった。いや、感じていたはずなのに、認識しないようにしていたのだと思う。
でも、その朝は違った。祖母の冷ややかな目線が、胸を突き刺すように痛んだ。母の装った優しさが、寒々しい嘘に思えた。従兄弟の何気ない一言が、妙にひっかかった。世界は何も変わっていないのに、自分の感じ方だけがまるで別人になったようだった。
それが「痛み」だった。そして「違和感」だった。今まであまりに自然に、あの家の空気に染まっていた自分が、初めて息苦しさを覚えた瞬間だった。目の前の風景は何も変わっていないのに、世界はひどく歪んで見えた。
だけど、そう簡単に「逆らう」ことなんてできなかった。私はまだ5歳で、完全に庇護下にあり、与えられるものにしかすがれなかった。なにより、記憶が戻ったと言っても、それは断片的で、幼い自我の背中を押してくれるには不十分だった。
だから私は、あの日以降も、機械のように動いた。痛みを隠して、表情を作り、従兄弟たちの輪に加わる努力をして、母の口ぶりに合わせた返事をした。目の奥で「嫌だ」と思いながらも、「はい」と口にしていた。
礼儀作法はさらに厳しくなった。舞踏の稽古では、少しでも足が遅れれば叱責された。楽器の演奏は1音のミスでも冷たい目が向けられた。それでも私は、失敗しないように必死で努力した。努力すれば怒られない。それが唯一、身を守る手段だった。
周囲は満足そうだった。従順で、優秀で、品のある子。そう見られていたのだろう。でも私は知っていた。それは、彼らが望む「商品」としての私だった。本当の私を知る者など、誰一人いなかった。
けれど、まだそのことに気づくのは、もう少し先の話になる。
7歳になった頃、急に周囲の空気が変わったのを覚えている。
今思えば、伯爵家の中では「そろそろ価値が定まる年頃」だと見なされたのかもしれない。
礼儀作法、舞踏、絵画、音楽——私に課される“育成”の熱量が、それまでとは明らかに違っていた。
ある日、母が応接間で伯爵家の祖父母と話しているのを立ち聞きしてしまった。
「今のうちにどこかの次男坊にでも“押し付けて”しまえば、相応の名誉にはなるでしょう」
「ただ、もっといい家に嫁がせられる可能性もあるわ。まだ育ちきってないし……価値は上がるものよ」
「そうね、十三か十四になった頃に市場に出して、条件を精査すれば……」
“市場”って何? “出す”って、私のこと?
そう思ってしまった時点で、私はもうただの子供ではいられなかった。
その部屋には母の姿もあった。でも、否定する声は聞こえなかった。
その夜、寝室の薄暗い天井を見つめながら、私は初めて“自分の存在が何か”を考えた。
もし、あの人たちの言う通りに私が「価値のある何か」なら、それは人じゃない。
商品か、あるいは道具か。
心臓の奥が、ずっと冷たい氷で刺されるように痛かった。
あのとき私は、はっきりと自覚したのだ——
このままじゃ、本当に私は“道具”で終わる。
でもそれでも、声を上げることはできなかった。
母の目が、祖母の言葉が、何よりあの空気が、
私に「それ以外の道はない」と言っていたから。
あの家にいたころ、私はよく「誇りを持ちなさい」と言われた。
貴族であること、爵位ある家の娘であること、それ自体に価値があるのだと。
でも、その“誇り”とやらが、誰のためのものかなんて考えたこともなかった。
形式ばかりを重んじ、礼儀作法と格式に縛られた家だった。
表情を崩すことは下品で、感情を見せることは幼稚。
そう教えられて育った私の心は、きっと長い間どこかに閉じ込められていた。
国全体も、同じだった。
爵位制度も、婚姻も、家制度も――すべては“体面”と“血筋”のために存在しているような気がした。
上に立つ者は、感情よりも義務を重んじるのが当然。
良い嫁ぎ先を得るには、育ちとしきたり、そして“使い道”が大事だと誰もが疑わなかった。
伯爵家の祖父と祖母も、まさにその典型だった。
優しい言葉をかけられた記憶は、ほとんどない。
笑っていた顔も、思い出せない。
私のことを“孫”として見ていたのではなく、“家の血統を繋ぐ部品”として扱っていたのだと、今ならよく分かる。
そして――今の公爵家の祖父母。
グレゴリウス様も、エリザベート様も、まるで正反対だった。
一緒にお茶を飲んでいても、孫の些細な言葉に頷いてくれる。
失敗してもすぐに叱るのではなく、「大丈夫」と声をかけてくれる。
最初は戸惑った。
どうしてあの人たちは、私にそんなに優しくしてくれるのかと。
でも気づいたの。
あの人たちは、私を“血縁”で判断していない。
“心”で見てくれている。
本当に必要なのは、格式や伝統じゃなかった。
私が求めていたのは、ただ、居場所だったんだ。
愛されることに慣れていなかった私に、それを教えてくれたのは、今の家の家族だった。
形式と格ばかりの家。
それは“貴族然とした正しさ”だったけれど、人の心を育てる場所ではなかった。
今の私は違う。
“正しさ”よりも、“あたたかさ”の中で、生きている。
思い出すのは、あの子たちの寝顔だった。
夕暮れの光に照らされたふたつの寝顔――セラとフィー。
安心したように静かに眠るその姿は、どんな宝石よりも、どんな装飾品よりも美しく見えた。
この子たちは、私の光だ。
私に“今”を与えてくれた存在。
ただ守りたかった。
ただ、笑っていてほしかった。
――それだけのはずだったのに、こんなにも私の心を強くしてくれるなんて。
カリナイト家にいた頃の私は、逆らうことができなかった。
反論すれば価値を下げる。
黙って従えば“従順な娘”として評価される。
自分の意思など不要だった。
だから私は、黙っていた。
心を閉ざして、生きることだけを選んだ。
でも――今は違う。
「お姉ちゃん!」と駆け寄ってきたセラの笑顔。
「おねえちゃま」と腕にすり寄ってくるフィーのぬくもり。
あの小さな手を、私は絶対に離したくない。
たとえまた傷つくことがあっても、
たとえ誰かに否定されたとしても、
私は――もう、道具には戻らない。
誰かの期待に応えるためだけに生きるなんて、
もう、まっぴらだ。
私が私であるために、私は選ぶ。
私の言葉で話し、私の足で歩く。
それがどんなに生きづらくても、それが本当の“生きる”ということなら。
あの子たちを守るためなら、私は何度でも立ち上がる。
たとえ涙を流す夜が続いても、私の背中にはもう、寄り添ってくれる温もりがある。
私は、ひとりじゃない。
だからこそ、誰かの言いなりになんて、ならない。
価値で測られる人生を、私自身が拒否する。
――私は、もう誰の道具にもならない。
心から、そう言い切れる今がある。
今ここにいる私は、もう“誰かの所有物”じゃない。
そう胸を張って言えるようになったのは、あの子たちがいたから。
私の未来は、私が選ぶ。
この手で、必ず。




