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幕間:父子の対話と、変わらぬ壁

陽が傾き始めた頃、広々とした中庭を二人の男がゆっくりと歩いていた。

ひとりは、かつてヴァレンティア公爵家を率いた隠居の老公――グレゴリウス・ヴァレンティア。

威厳と落ち着きを湛えたその姿は年齢を重ねてもなお気品に満ちている。

そしてもうひとりは、その後を継ぎ現当主の座に就いた男――クラウス・ヴァレンティア。

長身痩躯に黒の礼服を纏い、整った顔立ちに影を落とすような寡黙さが漂う。

どこか冷ややかで近寄りがたい印象を与えるその姿は、父の若き日を彷彿とさせながらも、明らかに何かを抱え込んでいるようでもあった。


「……あの子たち、ずいぶんと表情が柔らかくなったな」

先に口を開いたのはグレゴリウスだった。

視線の先には、遊び疲れて休む双子の姿がある。かつては人目を避け、怯えたように過ごしていたあの子たちが、今は屈託なく笑っている。

「特にセラフィオスとセラフィー、前に様子を見に来た時とはまるで別人だ。……あれは、誰の手によるものだと思う?」


クラウスは短く息を吐き、答えを避けるように歩調だけを少し速めた。


「……父上たちが、構ってくれているおかげだ」


「そうか? わしら老夫婦の力など、せいぜい甘やかすことくらいしかできぬ。だが、リセルという娘は――あの年で、ようやっておるよ」


グレゴリウスの声音は柔らかいが、そこには意図的な含みがあった。

だがクラウスはその言葉にも正面から返すことはなく、視線を逸らしたままだ。


「……放っておいても、あの子は勝手に動く」


「そうかもしれんな。だが、そうやって“放っておいた”のは誰だ?」


皮肉とも静かな怒りとも取れる言葉が落ちたが、クラウスは口をつぐんだまま沈黙を選んだ。

ただ、わずかに眉間に皺が寄っていた。


夏の終わりを告げる風が、庭木の枝葉をさらさらと揺らしていた。

その音だけが、重く沈んだ父子の間に流れていた。


「……クラウスよ」


祖父グレゴリウスの穏やかな呼びかけに、公爵クラウスはほんのわずかに眉を動かした。


「お前が考えていることは、だいたい察しがついておるよ」


「……」


「リセルのこと、あの子の“立ち入りすぎる”態度が気になるのだろう」


「そう見えるなら、誤解ではないだろうな」


クラウスは静かにティーカップを置き、薄く息を吐いた。


「……あの子は、我が家において“余計なこと”ばかりをしている。双子の面倒を見て、自分の意見をはっきりと述べ、家の者とも打ち解けているように見えるが……あれは、フローラの娘だ。あの女が、家のために何かを考えて動くとは思えん」


「ふむ。そういう見方もあろうな」


グレゴリウスは肯定も否定もせず、ただ静かに受け止めた。


「だが――それがすべてか?」


「……どういう意味だ」


「お前があの子を“気にしている”のは、それだけではあるまい。……どこかで、あの子に似た姿を、知っているのではないか?」


クラウスの指がわずかに止まった。だが彼は、そのまま何も答えず、目を伏せた。


グレゴリウスは続ける。


「私は、お前が“子供たちを愛していない”とは思っておらん。ただ……どう接していいかわからないのだろう。前の妻が出ていったあの日から、時間が止まってしまったままになっている。……そうではないか?」


その言葉に、クラウスの表情が、ほんの少しだけ陰った。


「リセルは、フローラが産んだ子だ。……だが、私は“妻”としての彼女に、何の情も抱いたことはない。……そして、フローラ自身も公爵夫人と言う立ち居場にしか興味が無い、だから気がつけば、“フローラの娘”という色眼鏡だけで見ていたのかもしれん」


彼はゆっくりと立ち上がり、窓の外に目を向けた。


「……だからこそ、私には、あの子を“娘”と呼ぶ資格などないだろう」


グレゴリウスは立ち上がらず、静かにクラウスの背を見つめていた。


「お前がその思いに向き合う日が、いつか来ると信じておるよ」


クラウスは答えず、ただ、外の空を見つめ続けていた。


クラウスの横顔には、長年かけて刻まれた疲れと諦念のようなものが漂っていた。

窓の外には何の変哲もない中庭の景色が広がっているが、彼の瞳は、その向こうの何かを探しているようにも見えた。


「……私は、リセルに何かを返す資格などないのかもしれん」


ぽつりと漏らされたその言葉に、グレゴリウスはわずかに目を伏せた。


「資格など……誰が決める?」


「――」


「お前が“向き合わない”限り、何も始まらん。だが今のお前は、己の傷にすら背を向けている。それでは、リセルに限らず、何も守れんぞ」


クラウスの肩が、一瞬だけ微かに揺れた。


「……言われずとも、わかっている」


「ならば、なぜ踏み出さぬ」


「わからん。……どうしたらいいのか、わからんのだ」


その言葉は、無様で、情けなく、しかし確かに“父親”としての本音だった。


グレゴリウスは小さく、深く息を吐いた。


「――やはり、まだ駄目か」


どこか独り言のように呟いたその声には、失望と諦念、そしてわずかな哀しみが滲んでいた。


しかし、すぐにその声はふっと軽くなる。


「……だが、いいさ。焦ることではない。お前が立ち上がる日が来るまで、私が孫たちを見守るまでだ」


グレゴリウスはそう言って、そっと席を立った。


「エリザベートと二人でな。……あの子たちには、笑っていてもらいたいからな」


クラウスは振り返らなかった。けれど、その背中に向けてグレゴリウスは、ゆっくりと歩み去っていった。


その足音が遠ざかる中、クラウスの拳が、静かに膝の上で握られていた。


グレゴリウスが書斎の扉を静かに閉じると、エリザベートがすでに廊下で待っていた。柔らかなショールを羽織り、穏やかな微笑みをたたえているが、その瞳の奥には夫の胸の内を察したような光が宿っていた。


「……どうだったかしら、クラウスの様子は」


「やはり、まだ踏み出せんようだ」


そう答えたグレゴリウスの声音には、深い疲れと、それでも断ち切れない情の重さが滲んでいる。


エリザベートはうなずき、小さくため息を吐いた。


「そう……あの子も、不器用なところはあなたに似たのね」


「わしに似たなどと、褒められた気がせんのだがな」


肩をすくめるようにして答える夫に、エリザベートはくすりと微笑む。


「でも、あの子なりに迷っているのよ。迷って、傷ついて、進めずにいるだけ。……それがわかるからこそ、わたしたちは急かせないのよね」


「……ああ」


廊下の窓からは、庭で遊ぶ双子たちの姿が見えた。リセルの朗らかな声が、風に乗って届いてくる。


「クラウスが動けぬなら、それでもいい。わしは、リセルたちのことを“守ってやろう”などとは思わん。ただ――」


「“支えてあげたい”と思っているのでしょう?」


エリザベートの言葉に、グレゴリウスは目を細めた。


「……ああ。支えになれるのなら、それで十分だ」


「あなたがそう思えるようになっただけで、もう立派な一歩よ」


窓越しに見える、孫たちの笑顔。リセルが小さな手でセラフィーの帽子を直し、セラフィオスがその隣で何か得意げに語っている。


「どこまでも、あの子はあの子らしく――まっすぐに生きている。……それを思えば、わしも背筋を伸ばさねばならんと思えてくるよ」


エリザベートは夫の手に、そっと自分の手を重ねた。


「なら、二人で見守りましょう。リセルも、双子たちも。……いつか、クラウスが自分の足で歩き出せる日まで」


「……ああ。孫たちが“背中を預けられる大人”として、わしらが立っていよう」


二人はそのまま、廊下の先にある小さな応接間へと歩みを進めた。いつの間にか西の空には夕焼けが差し始めており、淡い橙の光がステンドグラスを照らしていた。


エリザベートが軽やかに椅子へ腰を下ろし、グレゴリウスも静かに向かいに座る。


「……思い返せば、私たちも若い頃は何もかもが手探りだったわね」


エリザベートの言葉に、グレゴリウスは小さく笑みを漏らした。


「貴族として何を守るべきか、どう振る舞うべきか……いや、振る舞って“みせるべき”か、ばかり考えておった気がする」


「けれど、今は違う。大切なのは“誰かの目”ではなく、“あの子たちの未来”」


その言葉に、グレゴリウスは深くうなずいた。


「わしらの役目は、道を敷いてやることではない。踏み出すその足元が崩れぬよう、後ろから支えることだ」


「ええ。そして、もしその足元が揺らいだときには……すぐに駆け寄って、そっと手を差し伸べてあげればいいのよ」


「ふむ……やはり、お主の方が賢いな」


「当然でしょう? 何年あなたの隣に座っていると思ってるの?」


互いに微笑み合いながら、静かにお茶が注がれる。窓の外では、リセルと双子が手を繋いで庭の小道を歩いていた。


「それにね――あの子は、きっと気づいているわ。自分が誰よりも“家族”のことを考えて動いていることを。けれど、それを口にしないのは、自分の役目だと思っているから」


エリザベートの瞳には、慈しみと誇りが宿っていた。


「……そうだな。あの娘は、確かに“ラヴェンダー家”の血筋ではない。だが――誰よりも、あの家の名にふさわしい心を持っている」


「ならば、私たちはその灯火が消えぬよう、そっと風除けになりましょう。……あの子が、自分の望む未来を手に入れるその日まで」


その言葉に、グレゴリウスはしっかりと頷いた。


「リセル。セラフィオス。セラフィー。……あの子たちは、やがて自分たちの道を選ぶ日が来るだろう。そのとき――背を押してやれる存在でありたいな」



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