継姉、氷の公爵に触れるため祖父母と手を携える
その朝、ヴァレンティア公爵家の中庭には、いつもより柔らかな空気が漂っていた。
「ほら、セラフィオス。もっと高く放ってごらんなさいな!」
エリザベートの声に応えて、セラフィオスが木製の輪を小さく投げると、祖父グレゴリウスが笑いながらそれをキャッチする。セラフィーは手を叩いて喜び、その隣でリセルも静かに微笑んでいた。
使用人たちは少し離れた位置で控えており、庭の中央は祖父母と孫たちだけの、穏やかな時間が流れていた。
リセルは手に朝食の盆を抱えたまま、その光景を一歩引いて眺めていた。笑い声が続くなか、ふと足音が近づいてきた。
「リセル様、朝食のご用意が整っております」
「ありがとう、リーネさん。食堂へ運びましょう」
頷いたリセルは、一度だけ振り返り、双子と祖父母の姿を確認する。
(あの子たち……こんなに自然に笑えるようになったんだ)
心の底にじんわりと湧く喜びが、胸の奥にあたたかな灯をともす。
そのとき、祖父グレゴリウスがふと誰かを探すように辺りを見渡した。
「クラウスの姿が見えんな。朝は顔を出すと言っていたのだが」
リセルは少し口をつぐみ、小さく答えた。
「公爵様は、執務室にいらっしゃるかと。朝のお時間は、あまり家族とはお顔を合わせないのです」
「ふむ……それもまた、この家らしいのかもしれん」
意味深に呟いたグレゴリウスの言葉に、エリザベートがゆっくりと立ち上がった。そして、リセルの方へ振り返る。
「リセル。――この屋敷で、一番静かな部屋はどこかしら?」
唐突な質問に、リセルは一瞬だけ戸惑いながらも、すぐに答えた。
「おそらく、公爵様の書斎かと……。普段は扉も固く閉じられていて、使用人もほとんど出入りしません」
「やっぱり、ね」
エリザベートがそう言うと、グレゴリウスと軽く視線を交わした。二人は声にせずとも、何か確かな了解を得たようだった。
「ありがとう、リセル。……あなたは、あの子たちと一緒に、朝ごはんを召し上がっていらっしゃいな」
「はい。お気遣いありがとうございます、お祖母様」
そう言って一礼するリセルの背を、祖母は一瞬だけ優しく撫でた。
そのわずかな仕草には、言葉では語られない温かな決意が込められていた。
グレゴリウスとエリザベートは、静まり返った書斎の前に立っていた。
「入る前に、少しだけ待ちましょう」
そう言って扉の前に立ち止まったグレゴリウスに、エリザベートは頷いた。
重厚な木の扉。その奥からは、わずかに紙のめくれる音と、ペン先が紙を擦るかすかな音が聞こえてくる。
「……閉じこもって、自分を傷つけるような時間ばかりを過ごしているのね」
エリザベートの言葉には、憐れみとも悲しみともつかぬ感情がにじんでいた。
グレゴリウスはその手に、一通の封筒を持っていた。すでに宛名が書かれ、封がされている。
「言葉で向き合おうとしても、あいつは耳を塞ぐ。だが、これは読まずにいられまい」
「手紙にするなんて、あなたも随分とまわりくどい手段を選んだものね」
「……あの男は、ああいう性分なのだ。正面から向き合うと、余計に殻に籠もる」
グレゴリウスがゆっくりと書斎の扉に手をかけた。そして、ノックもせず、静かに扉を押し開ける。
クラウスは机に向かっており、ちらりと視線を上げた。
「……父上、母上。……何か御用でしょうか」
その声には、わずかながら警戒と疲労が滲んでいた。
「お前に渡したいものがある。少しだけ、手を止めてくれんか」
グレゴリウスの言葉に、クラウスは筆を置いた。そして、父の差し出した封筒を無言で受け取る。
視線を落とすと、そこには見慣れた筆跡で書かれた、短い宛名があった。
「……これは?」
「お前のために、母さんが書いたものだ。すぐに読まなくてもいい。だが、どこかで、目を通してくれればそれでいい」
クラウスの手に封筒が渡されたまま、エリザベートは彼の顔を見つめた。
「あなたに伝えたいことが、たくさんあったの。でも、あなたの前では、どれも言葉にならなくて……だから、こうして書いたのよ」
クラウスはそれをじっと見つめていた。
けれど――彼は何も言わなかった。
ただ、黙ってその封筒を、机の隅にそっと置いただけだった。
「……必要ないと、そう言いたげな顔をしているわね」
「違います。ただ……」
「わかってるわ。すぐには変われない。でも、私たちはここにいる。あなたの親として、ちゃんといるのよ」
エリザベートの声は、最後まで穏やかだった。
グレゴリウスは一歩下がりながら言う。
「親子というのは、血の繋がりだけじゃない。お前も、今なら分かるだろう?」
その言葉に、クラウスはわずかに眉をひそめた。
けれど、返す言葉はなかった。
夫妻は静かに頭を下げると、そのまま書斎を後にした。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
クラウスは、しばらく何も言わず、ただ封筒を見つめ続けていた。
書斎にひとり残されたクラウスは、しばらく封筒を見つめたまま動かなかった。
静まり返った空間に、時折時計の秒針の音だけが響く。
(……何を今さら)
そう思いながらも、視線は封筒から離れなかった。
母の筆跡。それは、幼い頃、熱を出して寝込んだときに枕元に置かれていた手紙と同じだった。何度も読み返したその文字を、今でも覚えている。
クラウスはふと、窓の外に目をやった。庭では、セラフィオスとセラフィーが祖父母のもとで笑っていた。あの無邪気な笑顔が、自分にはどうしてもまぶしく感じられる。
(あんな風に、誰かに心を許して、笑ったことなんて……)
思い返すのは、自分の幼少期だった。
名門ヴァレンティア家の跡取りとして育てられた日々。常に完璧を求められ、失敗は許されなかった。言葉よりも視線、ぬくもりよりも規律。そんな家庭だった。
父は厳格で、母は遠く、決して甘えられる雰囲気ではなかった。
(それでも――)
封筒を手に取り、ふと重みを感じた。紙の重さではない。そこに込められた、時間と想いの重さだ。
手紙を破るように開くこともできた。無視して机の引き出しにしまい込むこともできた。
けれど、クラウスはそっと封を切った。
広げられた手紙の冒頭には、こう綴られていた。
『クラウスへ――あなたが今、これを読んでくれているのなら、それだけで十分です』
その一文に、思わず目が止まる。
読み進めるほどに、母の言葉が心に入り込んでくる。
『あなたが笑わなくなって久しいわね。あの頃は、庭で転んで泣いても、すぐに立ち上がって――“大丈夫”って言いながら、笑ってくれたのに』
『あなたが家族に心を閉ざすようになったのは、私たちの責任。気づいていても、どうしてもあなたに近づけなかった』
『でも今、あなたの子どもたちが、同じように心を閉ざしかけていたのを――“ある女の子”が救ってくれている。リセルちゃんという子』
『あの子を通じて、あなたにももう一度、家族の形を思い出してほしいの』
クラウスは、息を詰めた。
手紙は淡々としていて、責めるような言葉はどこにもなかった。ただ、静かに、切実に、彼の心の奥底へと語りかけてくる。
最後の一文に、クラウスは目を細めた。
『あなたに、幸せになってほしい。ただ、それだけなの』
クラウスは、手紙をそっと伏せた。
そして、椅子の背にもたれながら、天井を見上げた。
(リセル……)
いつの間にか、自分の心の中にその名前が浮かんでいた。
彼女が来てから、セラフィオスとセラフィーが変わった。
言葉を覚え、笑顔を見せ、誰かに手を伸ばすようになった。
(彼女がいてくれて……よかったのかもしれない)
けれどそれを口に出すことは、まだできなかった。
ただ、クラウスはそっと目を閉じ、胸の奥に沈んでいた記憶と想いに、静かに向き合おうとしていた。
その日の夕刻、祖父グレゴリウスと祖母エリザベートは、応接室の窓際で静かに紅茶を口にしていた。
「……手紙は、届いたかしらね」
エリザベートが小さく呟くと、グレゴリウスは静かに頷いた。
「あの様子なら、もう読んでいるだろう。すぐに顔に出すやつではないが……胸には響いたはずだ」
「ええ。あの子がああして黙っている時ほど、心が揺れている証拠だもの」
やわらかく笑う祖母の表情には、少しだけ祈るような色が浮かんでいた。
そこへ、リセルが控えめに部屋の戸を叩いた。
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
「まあ、ありがとう。わざわざ自分で運んでくださるなんて」
「使用人の方も手が離せないようでしたので」
丁寧に盆を置いて茶を注ぐリセルの姿を見ながら、祖父母は自然と目を細めた。
グレゴリウスがふと尋ねる。
「リセル。クラウスとは、最近どうだ?」
少しだけ動きが止まる。けれど、リセルはすぐに姿勢を正し、静かに答えた。
「……まだ、距離はあります。でも、あの子たちのことになると、必ず話を聞いてくださいます。少しずつですが、変わってきていると思います」
「それでいい。親子も家族も、最初から完璧でなくていい。歩み寄ろうとする意思が大切なのだ」
エリザベートも頷く。
「ええ。わたしたちも、あの子に寄り添う努力が足りなかったと、今になってようやく思えるようになったの」
「……お祖母様」
リセルの声が、わずかに震えていた。
「私、あの人のこと……少し怖かったんです。でも、あの人も“誰かに受け入れられたい”って気持ちを、きっと奥の方に隠してる。セラフィオスとセラフィーが、そうだったように……」
その言葉に、祖父母はしばらく沈黙した。
やがて、エリザベートがそっと微笑む。
「ねえ、リセル。もしあの子が自分の殻を破って歩み寄ろうとしてきたら……あなた、受け止めてあげられる?」
リセルは、少しだけ目を伏せた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「はい。……私は、家族になりたいです。あの子たちと。そして、あの人とも」
その言葉に、グレゴリウスは力強く頷いた。
「ならば、わしらもできる限り力になろう。――おまえは、もうこの家の誇りだ」
それは、初めてリセルが「この家に居ていい」と認められた瞬間だった。
リセルは、こみ上げる感情をそっと飲み込み、ふたりに深く頭を下げた。
夜も更け、屋敷の廊下には静かな灯が灯っていた。
リセルがセラフィーの寝かしつけを終え、自室へ戻ろうと廊下を歩いていたときだった。角を曲がった先で、クラウスとばったり出くわした。
「……父様」
「……リセルか。こんな時間に、どこへ」
「セラフィーの様子を見に行ってました。もうすぐ眠るところです」
その返答に、クラウスは小さく頷いた。そして少し間を置いてから、視線をリセルに向けた。
「……あの子たち、よく笑うようになったな」
「はい。……毎日、少しずつ変わってきました」
しばらく沈黙が流れる。リセルは心の中で、何かを計るように見つめていた。
クラウスが、ぽつりと呟いた。
「……俺は、父親として失格なのかもしれん」
「……そうは思いません」
リセルの声は、やわらかく、けれどしっかりと響いた。
「父様は、きっとずっと苦しかったんだと思います。でも、変わろうとしてくださっている。……それだけで、私たちは救われます」
クラウスは目を伏せた。
「俺は……どう接すればいいのかも、もう分からん。ただ……あの子たちが笑ってくれるのが、こんなにも……嬉しいとは、思わなかった」
その声に宿る感情に、リセルは静かに胸を締めつけられた。
「セラフィオスも、セラフィーも、父様が見てくれていると分かっただけで、きっと嬉しいです。――だから、少しずつでいいんです。ゆっくりで」
クラウスがふと顔を上げ、リセルの瞳を見つめた。
その瞳には、疑いも、恨みもなかった。ただ、まっすぐに信じようとする光だけがあった。
「……お前は、母親に似てないな」
「はい、そう言ってもらえると……少し、救われます」
クラウスはその言葉に少し目を見開き、娘の胸の奥に抱えていた孤独を――ほんのわずかだけ、理解した気がした。
「……そうか」
それだけの言葉なのに、そこには初めて娘としてリセルを見つめた男の、わずかなぬくもりが滲んでいた。
「お休みなさい、父様」
「……ああ。おまえも、無理をするな」
廊下を離れていくリセルの背を、クラウスはしばらくの間、黙って見送っていた。
自分の中にあった氷が、ほんのわずかに、音を立てて溶けていくのを感じながら――




