継姉、はじめて“家族”と呼べる人に出会う
その日、公爵家の屋敷には、朝からいつもと違う緊張感が漂っていた。
「前公爵夫妻がお見えになります。皆、支度を急いで!」
使用人たちの声が飛び交い、廊下では掃除と飾り付けが同時進行で進められていた。リセルはその様子を見ながら、軽く息を吐いた。
(この屋敷に来るのは、初めて……というわけじゃないのよね)
使用人から聞いた話では、祖父母――つまり前公爵夫妻――は、毎年一度はこの屋敷に数日間滞在しているという。けれど、孫たちと深く関わることは少なく、リセルが彼らの姿を見たこともなかった。
(フローラ様曰く、“余計な干渉は控えているだけ”なんですって)
建前か本音かは知らない。けれど今回に限っては、わざわざリセルに「きちんと支度しておくように」と声がかかった。それはつまり――
(ようやく、私たちに“興味を持った”ってことかしら)
執務室で何度か「子どもたちの様子を見たい」という申し出があったとも聞いている。少なくとも今回の訪問は、ただの形式ではないらしい。
「……セラフィオス、セラフィー。今日はおじいさまとおばあさまがいらっしゃるから、ちゃんとご挨拶できるようにね」
声をかけると、双子は少し緊張しながらも、しっかりと頷いた。以前なら隠れてしまっていたのに、今ではリセルの目を見て返事をするようになっている。
(……大丈夫。あの子たちなら、きっと気に入ってもらえる)
リセルはふたりの頭を優しく撫でた。今日は、セラフィオスとセラフィーにとっても、そしてリセル自身にとっても、大きな一歩になる。そう思えた。
グレゴリウスとエリザベートが玄関に姿を現したその瞬間、空気がやわらかく変わった。
リセルは、少し緊張した面持ちのセラフィオスとセラフィーの背を軽く押しながら、ゆっくりと前に出た。
「祖父さま、祖母さま。ようこそお越しくださいました」
そう言って丁寧に一礼するリセルに、セラフィーが小さな声で続いた。
「……お、おじいちゃま、おばあちゃま……こんにちは……」
セラフィオスもほんの一拍遅れて、「こんにちは……」と小さく頭を下げた。
一瞬の静寂ののち、エリザベートの目元が一気に潤んだ。
「まあ……まあ……! ちゃんとご挨拶ができるようになって……!」
感極まったようにセラフィーをそっと抱きしめ、頬にやさしく触れる。
「前に会ったときは、まだ言葉もろくに出なかったのに……」
その言葉に、グレゴリウスも静かに頷いた。
「成長したな。ふたりとも、よくぞここまで」
セラフィオスは一瞬驚いたように祖父の顔を見上げ、すぐに照れくさそうに目をそらした。セラフィーは祖母の胸元で、くすぐったそうに笑った。
リセルはその光景を見て、内心にそっと安堵の灯をともした。
(この人たちなら……あの子たちを、ちゃんと見てくれる)
使用人から「祖父母は毎年一度は訪れていた」と聞いていたが、こうして目の前で愛情を注ぐ姿を見ると、それがただの形式ではなかったと感じられる。
談話室へ場所を移すと、用意されていた軽食とお茶が運ばれた。双子は緊張しながらも祖父母の近くに腰かけ、リセルはその傍らに控える。
その晩、ヴァレンティア公爵家の食卓には、珍しく穏やかな空気が漂っていた。
長く続く晩餐の席には、グレゴリウスとエリザベート、現公爵のクラウス、そしてフローラ、公爵家の家族が勢ぞろいしていた。リセルと、セラフィオス、セラフィーも、それぞれ定められた席に座っている。
「セラフィオスは、最近文字の練習をしているそうですね」
祖父グレゴリウスが声をかけると、少年は少し背筋を伸ばしながら答えた。
「はい……リセル姉さまが、教えてくれます」
その言葉に、祖父は思わず目を細めた。
「姉さま、か。いい呼び方だな」
「うん。ぼくの自慢のお姉ちゃんです」
にこりと笑うセラフィオスの言葉に、祖母エリザベートも頬を緩めた。
「この子、前に会ったときは――そう、まだろくに人の目を見て話せなかったのよ。今じゃすっかり、お利口になって……」
「うん!」
隣でセラフィーも笑顔を見せる。クラウスがその様子を横目にしながら、苦笑気味に頷いた。
「リセルの影響は大きいな。あの子たちが、あそこまで笑うようになるとは思わなかったよ」
その一言に、祖父母の視線が自然とリセルに向けられた。彼女は静かに礼を取る。
「私がしたことなんて、ほんの少しです。ただ、一緒にいる時間が長いだけで」
フローラが、その言葉にかすかに口角を吊り上げた。
「ええ。まるで乳母のようにお世話してくださってるものね。わたくしとしては、娘にはもう少し“お嬢様”らしい日常を送っていただきたいところだけれど」
その皮肉に、祖母エリザベートはにこやかなまま返す。
「お嬢様だからといって、手を動かさぬ方が品格があるとは限りませんよ。むしろ、家のことを自分で見て歩ける子は誇らしいものですわ」
グレゴリウスもゆっくりと頷いた。
「子どもをよく見る親が育てば、家も健やかに保たれるというものだ」
その言葉に、フローラは苦笑を浮かべてグラスに口をつけた。
クラウスは視線を落としながらも、娘の成長に目を細めていた。
「リセルは……この家に来て、変わった。良い方に、だ」
その言葉に、リセルの胸が少し熱くなった。
(この人たちは、ちゃんと見てくれてる……)
祖父母の穏やかなまなざしと、父の微かな肯定。それが、リセルの心に小さな灯をともした。
晩餐のあいだ、祖父母はセラフィーの好きな果物や、セラフィオスの話したがる絵本の話題に笑いながら耳を傾けていた。家庭の中に、久しぶりに――ほんの少しだけだが、ぬくもりが満ちていた。
晩餐の後、屋敷のサロンでは温かいハーブティーの香りが静かに広がっていた。
祖母エリザベートがリセルを手招きして、自らの隣へと座らせた。豪奢な椅子の肘掛けに腕を乗せ、彼女は穏やかな微笑を浮かべる。
「リセル。お話、少しだけいいかしら?」
「はい。もちろんです、お祖母様」
リセルは丁寧に頷く。隣の席に腰かけると、祖母は優しくその手を包み込んだ。
「ねえ……あなた、この家で辛い思いをしていないかしら?」
その問いに、リセルはわずかに息を飲んだ。けれど、すぐに目を伏せて、小さく首を振った。
「私は……この家に居場所をいただいただけで、十分です」
「そう……でも、あなたは随分と“小さなもの”のために大きな働きをしていらっしゃる」
「セラフィオスとセラフィーのこと、ですか?」
「ええ。あの子たちの目が、あなたを見るたびに輝いていたわ。……わたし、忘れられてしまってるんじゃないかと少しだけ寂しかったけれど……」
冗談めかして笑う祖母に、リセルも少しだけ表情を緩めた。
「ふたりとも……少しずつ、自分の言葉で気持ちを伝えてくれるようになりました。あの笑顔を、もっと増やしてあげたいんです」
「それは、あなたにしかできないことかもしれないわね」
エリザベートはそう言って、そっと膝の上に置いていたある小冊子を差し出した。
それは、リセルが描き、装丁した絵本だった。
「この子たちが“お姉ちゃんがくれた本”って、大事そうに持ってきたのよ。少し目を通してみたけれど……これは、誰が読んでも胸が温かくなるものね」
「……ありがとうございます」
リセルの声は、少しだけ震えていた。
「ねえ、リセル。このお話……あなたが作ったの?」
「はい。セラフィーが、お花をうまく描けなかったから、“お花が笑ってくれるようなお話”を作ってみたんです」
その答えに、エリザベートは静かに目を細めた。
「本当に、あなたは素晴らしいお姉さんね。――これは、きっと他の子どもたちにも、届くと思う」
「え……?」
「ほら、世の中には本が買えない子もいるでしょう? でも、こうして心のこもった絵本があれば、どんな子の心も潤う。……ねえ、商品化も視野に入れて、もっとたくさんの人に届けてみたらどうかしら?」
リセルは思わず息を呑んだ。
(絵本を……商品に?)
その発想は、リセルの中に確かな火種を落とした。
(私が作ったものでも……誰かを笑顔にできるなら)
エリザベートは、リセルの反応を楽しむように微笑んだ。
「焦らなくてもいいのよ。ただ、あなたの手で、この家の空気を少しずつ変えていける。わたしたちは――あなたの味方だから」
その一言が、リセルの胸に深く届いた。
誰にも、言われたことがなかった。
誰かが、最初から味方だと、言ってくれたことなんて。
「……ありがとうございます。お祖母様」
そっと、リセルは祖母の手を両手で包んだ。
それは、ようやく見つけた、確かな安心のぬくもりだった。
翌朝、屋敷の中庭には柔らかな陽光が差し込み、小さな笑い声が響いていた。
「おじいさま、見てーっ、あれが“お空の木”!」
セラフィーが指さしたのは、庭の隅に立つ枝ぶりの広い大樹だった。横にいるセラフィオスも、祖父グレゴリウスの手を引っ張るようにして案内している。
「うん、あれね。冬でも葉っぱが落ちないんだよ!」
「ほう、よく観察しておるな。……これはカロアの樹じゃ。葉が厚く、寒さに強い。薬にもなるぞ」
「やく……?」
セラフィーが目を丸くすると、祖父は笑いながら小枝を折って見せた。
「煎じて飲むと咳に効くのだ。昔はわしもよくこれに助けられたものじゃ」
その口調は穏やかで、孫たちへの目線には惜しみない愛情が込められていた。
縁側に座っていたエリザベートも、微笑みながら絵本を手にしていた。
「セラフィー、これはリセルお姉ちゃんが描いたお花の本よ。昨日、おばあちゃんに貸してくれたの」
「えへへ、みるー!」
幼い双子が笑顔で祖父母に甘える姿は、まるで本当の親子のようだった。
リセルは少し離れた場所からその光景を見守っていた。心のどこかで、胸がじんわりと温かくなる。
(この人たちなら、きっと……)
信頼できる。
守ってくれる。
あの子たちにとって、少なくとも「家族」と呼べる存在になってくれる――
その確信が、リセルの中に静かに根を張り始めていた。
けれど――
そのやり取りを、屋敷の奥の窓から見下ろしている影があった。
クラウス・ヴァレンティアは、窓際で腕を組んだまま黙って立ち尽くしていた。隣には、紅茶を手にしたフローラの姿もある。
「……楽しそうね、あの人たち」
「ええ。まるで、この家に何の問題もないかのように」
フローラの唇は笑っていたが、目は冷たかった。
クラウスは無言で外の様子を見続けていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……あの子たちが、ようやく笑うようになったのは、あの娘のおかげだろうな」
「だから何かしら? あの子が“主役”になったつもりでいたら、滑稽だわ」
フローラの声には棘があった。
「お義母さまったら、あんな出来損ないを持ち上げて。まるで……あたくしの“子育て”が失敗だったとでも言いたげで、癪に障るわ」
その言葉に、クラウスは目を細めた。
「……子育て、か」
フローラが視線を向けると、クラウスはもうそこにはいなかった。
部屋の扉が静かに閉まる音だけが、重たく響いた。




