継姉、娘ではなく駒として見られる日
午前の屋敷には、窓越しの陽光と共に、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
リセルは応接間へと呼び出されていた。普段はほとんど顔を合わせることのない義母フローラが、わざわざ一対一で話をしたいと言ってきたのだ。
(……嫌な予感しかしないわ)
そんな胸の内を隠しながらも、リセルは静かに扉を開け、母と呼ぶべき相手の前に立った。
「来たのね。座って」
フローラは優雅な手つきでティーポットを持ち上げ、ゆっくりと香り高い紅茶を注いでいた。いつも通りの微笑みと、どこか芝居がかった仕草。それがかえって緊張を誘う。
リセルは小さく礼をしてソファに腰を下ろした。相手の出方を待つように、言葉を選んで沈黙する。
フローラは、カップの縁を指でなぞるように触れながら口を開いた。
「……縁談の話が来たの。あなたに」
その言葉に、リセルは無意識に指先を強く握りしめた。
「……私に、ですか?」
「ええ。相手は伯爵家の三男。年は十七。成人しているわ。学問も武芸もそこそこ、家柄も問題なし。“悪くない話”だと思うの」
「……」
「あなたももう十一歳でしょう? すぐに嫁げとは言わないわ。正式な婚約をして、成人まで数年、準備期間を置いてから――ってことでね。相手方も了承済み」
リセルは眉を寄せながらも、静かに問い返す。
「……なぜ、今、この話を?」
フローラはあくまで穏やかに、微笑みながら続ける。
「あなた、今のままだと“中途半端”なのよ。公爵家の名はあるけど実の娘ではないし、爵位を継ぐ予定もない。“あのふたり”とばかりつるんで、まるで育ちの悪い子みたいに見られてるの、ご存じ?」
リセルは目を伏せ、口をつぐんだ。
「でも、伯爵家に嫁げば肩書きも立場も整う。“フローラ公爵夫人の娘”として、世間に恥じない形で片がつくでしょう?」
そして、吐き捨てるように言った。
「そうね、結婚の話がうまくいけば、“あの子”も一緒に引き取ってもらえるかも。……うまくいけば、ね」
その一言に、リセルの胸の内に黒い怒りがゆっくりと燃え上がっていくのを感じた。
(……本当に、この人は――)
リセルは、フローラの言葉をじっと聞いていた。
目の前で紅茶のカップを持ち上げる義母の指は優雅に見えるが、その中身は冷たい鋼のようだった。
「……あなた、最近すっかり“子守女中”ね」
フローラはカップを口元に運びながら、わざとらしい笑みを浮かべた。
「まるで下働きのように、あのふたりの後をついて回って。見苦しいわ」
「……それが、いけないことでしょうか」
リセルの声は静かだったが、その中に明確な棘があった。
「当たり前でしょう? 公爵家の娘が、下々の者のように振る舞ってどうするの。“育ちの悪い子”だと思われたら、婚期に響くわよ」
「婚期……?」
思わずリセルの声が震える。十一歳の少女に向かって「婚期」と口にするこの女は、いったい何を考えているのか。
「そう。だから、今回の縁談は“あなたのため”でもあるの」
紅茶をソーサーに置きながら、フローラは言った。
「公爵家の名があるとはいえ、あなたは“継子”。爵位を継ぐわけでもないし、将来の保証もない。……だけど伯爵家の奥方になれば、立場も安定するし、わたくしも世間様に顔が立つ」
(なるほど、全部“自分の体裁”のためってことね)
リセルは内心で呆れたが、それでも表情には出さなかった。
フローラは続ける。
「ねえ、リセル。貴族の世界では、“価値”があるうちに行き先を決めるものよ。中途半端な立ち位置で燻って、変な噂が立ったら困るでしょう?」
「……伯爵家に嫁いだとして、私はそこで“誰のため”に生きるのでしょうか?」
リセルの問いかけに、フローラは目を細めた。
「あなたは、家のために役立てばそれでいいの。女なんて、そんなものよ」
その瞬間、リセルの中でなにかが切れた。
だが、声を荒らげることはしなかった。ただ、まっすぐにフローラを見据えて――口元だけに、かすかな笑みを浮かべた。
「……お母様。では、伯爵家に嫁いだあとの私が、ふたりの弟妹を一緒に引き取っても文句はありませんね?」
フローラの手が止まった。
「は?」
「“あのふたり”と、いつまでもつるんでいたら困るのでしょう? でしたら、まとめて引き取って差し上げます。さぞかしスッキリなさるでしょう?」
フローラの頬がぴくりと動いた。
「冗談じゃないわ。あの子たちは“あなたの荷物”じゃないのよ。公爵家の名を汚されたくないから、あなたを“片付けたい”だけなのに、どうして“あれら”まで連れて行かれる筋合いがあるの?」
「……では、あのふたりをどうなさるおつもりですか?」
「さあ? その頃には学舎にでも押し込んで、あとは……好きになさいな」
その無責任な一言に、リセルの手の中のスプーンが音を立てた。
(この人は、“本当に”……)
「“親”である資格があると、思ってらっしゃるんですか?」
フローラの表情が、初めてわずかに揺らいだ。
「……私が、ふたりの面倒を見ているのがそんなにいけないことなんですか?」
静かに、しかし確かな反発の色を込めてリセルが問いかけると、フローラは微笑みを崩さぬまま紅茶のカップを持ち上げた。
「いいえ、いけなくはないわ。ただ――“ほどほど”に、ね」
「ほどほど、ですか」
「そう。あなたが“あのふたり”を可愛がるのは構わないけれど、公爵家の名に恥じない振る舞いを忘れないで。周囲はあなたを“私の娘”として見ているのよ。いつまでも子爵家や下層の孤児のような子らとつるんでいると、品格を疑われてしまう」
その言葉に、リセルの眉がぴくりと動く。
「“あのふたり”は、この家の嫡男と娘ではありませんか」
「ええ、そうね。でも私の子ではないわ。あの人の……“前の女”との間にできた子たち。だからこそ、私にとっては“義務”でしかないの」
フローラの言葉は、刺々しさを柔らかな笑みに包み隠していた。だが、その本音はあまりに冷たく、リセルの胸の奥に鈍い痛みを残した。
「あなたももう十一歳。品位ある振る舞いが求められる年頃よ。“情”で動くのは結構だけれど、“立場”を弁えなさい。いつまでも公爵家の“飾り”でいられるわけじゃないのだから」
「……“飾り”ですか」
「違ったかしら? あなたは私の再婚の際、好都合な“持参金付きの娘”として迎え入れられた。それに、十分役目は果たしてきたわ。“フローラ公爵夫人の美しい令嬢”としてね。でも、そろそろ別の役割に進むべきでしょう?」
「それが、伯爵家の三男への縁談、ですか」
「ええ。立場も悪くないし、何より――これ以上この屋敷で“子守り”をしているより、あなた自身の価値を保てると思うの」
リセルは何も言わず、ただ静かに紅茶に口をつけた。
フローラの言葉が、体の奥底で何かを凍らせていくようだった。
(……この人にとって、私は“役に立つうちは大事にされる道具”でしかないのね)
リセルは静かにカップを置いた。紅茶の香りが、いつの間にか胸をつく苦味に変わっていた。
「お母様は……私を、どうしたいのですか?」
静かな声だった。しかしその言葉には、感情を押し殺した硬さがあった。
フローラは目を細め、椅子に身を預けながら答えた。
「どうもしたくなんてないわ。ただ、あなたが“無駄に目立つこと”をしなければそれでいいの。貴族の娘はね、注目を集めるものじゃないの。“家の品格”に沿って生きれば、それで十分なのよ」
「――では、その“家の品格”にとって、私は邪魔ですか?」
「違うとは言わないわ。あなた、最近ほんとうに自由すぎるの。勝手に厨房へ出入りしたり、子どもと一緒に泥だらけになったり。……貴族の子女がやることじゃない」
その言葉に、リセルは初めて声を上げて笑った。
「――そうですか。貴族の子女とは、他人の不幸にも、飢えにも、目を背けるのが“品格”だと」
「皮肉はおやめなさい」
「皮肉ではありませんよ。ただ、私にはその“品格”は身につきそうにありません」
リセルは立ち上がった。
「私をどこへ嫁がせようと、ご自由に。ただ――」
その瞳は、かつての母に似た色ではなかった。鋼のように冷たく、まっすぐだった。
「弟たちは、渡しません。あの子たちは、誰かの“ついで”に扱われていい命じゃない。私が、“ちゃんと”守ります」
フローラは微笑みを崩さなかった。だが、その指先がわずかに震えていた。
「……あなた、本当に変わったわね。まるで、別人みたい」
「ええ。私はもう、昔の“リセル”ではありませんから」
リセルは優雅に一礼し、応接間を後にした。背後でティーカップの触れ合う音が、わずかに高く響いた。
廊下を歩くリセルの背中に、突然、冷たい声が投げかけられた。
「……あなた、勘違いしないことね。私は“母親ごっこ”に付き合ってあげてただけよ」
足が止まる。
「あなたは、たまたま私の腹から出てきたというだけの存在。公爵家の利益になるから、利用価値があるから連れてきただけ。情なんて、最初からあるわけないじゃない」
リセルは振り向かなかった。ただその言葉を、静かに受け止める。
「だったら、今後は遠慮なく進ませてもらいます。あなたの都合ではなく、私の信じる道を」
「勝手にしなさい。……でも覚えておきなさい。子どもが親に歯向かえばどうなるか、身をもって思い知ることになるわよ」
その声音は、もはや微笑みも隠さない、剥き出しの敵意に満ちていた。
(――やっぱりこの人は、母親ではなかった)
リセルは深く息を吸い込み、言葉を噛みしめた。
(なら私は、ただの“娘”ではいられない。あのふたりの“姉”として、戦うしかない)
かすかな決意の炎が、胸の奥で燃え始めていた。




