天の才
ある日の話だ。
「頼もう」
横山道場に招かれざる客がやって来た。
四十代男性。短い頭髪には白髪が多く、年齢の割には深い皺が刻まれた顔は、風雨に耐えた巨石のような印象を抱かせる。
そしてかなり使い込まれた道着では隠しきれない肉体もまた同じで、はっきりとした刀傷すら刻まれているではないか。
この明らかに堅気ではない人間は、横山道場の門下生ではない。
そうなると用件は……。
「横山三蔵と立ち会いたい」
道場破りである。
今時珍しいと思うなかれ。
暴力で相手を従わせることが多々ある薄い世界では、武の面で昔ながらの風習が存続しており、道場破りも珍しいは珍しいが、偶に発生するものとして認知されている。
勿論、挑まれた道場の門下生が、最近はあまり道場破りの方が来なくて寂しかったです。などと言うはずもない。ましてやここは、あまり表沙汰に出来ない案件に関わる者達が多い横山道場だ。
もしここに余人がいれば、ぐにゃりと空気が歪むと道場が軋み、偶々いた五人程の門下生が何倍にも膨れ上がった錯覚に陥るだろう。
一方、男の方は更にその上を行く。
門下生が高度な訓練を施された軍用犬なら、男は傷だらけの獅子。絶えず修羅場に身を置き、武の頂点をが見え始める領域に至った達人である。
そして門下生達も彼我の戦力を把握しているのか、男と相対しながら仕掛けるような真似はしなかった
「ふーん道場破りってやつかー。ナマで見るのは初めてだなー」
軍用犬と獅子が睨み合っている道場の入り口で、呑気でありながらどこか下品なニュアンスが含められている様な声が発せられた。
「っ⁉」
男だけではなく門下生達も酷く驚き視線を変えてしまう。
この場にいる者達は気配を読むことにも長けており、間合いの傍に人間がいるなら気付く筈なのだ。それなのに察知が出来なかったということは、相手が数段も上手ということを意味している。
「なっ⁉」
振り返った道場破りは敗北を察した。
ああ、神よ。
なぜこのような生物を作り出したのですか?
これが人だとするなら我々はいったいなんなのですか?
人体の黄金比。最適解。
今以上に鍛えれば寧ろ運動能力を落とすギリギリ手前にいる、これ以上の肉体は存在しないと断言可能な至高。
馬鹿げたことに人生を戦うことに捧げた男は、肉体美に気圧されてしまったのだ。
「肝臓弱ってるから病院行った方がいいっすよ道場破りさん」
「な、なに?」
「多分、病気手前って感じ?」
「な、なぜ分かる?」
「弱い部分が分かるんすわ」
その至高こと太一は道場破りに親切な忠告を送る。
下級・上級問わずチャラ男に基本搭載されている技能の一つ。それはウィークポイントを見定める力だ。
何処を攻めれば打ち倒せるかが手に取るように分かるチャラ男は、この力を用いて様々な戦況に対処できる。
ましてや最上級チャラに至った太一は、どんな相手だろうが弱点を見抜けれた。
「……忠告、感謝する」
男は潔かった。
直接戦っていないが、それでも圧倒されたのなら自分の負けだと判断し横山道場を去った。
「いやあ怖かった。修練の鬼って感じでヤバいっすねあの人」
ニヤニヤ笑う太一だったが完全に本心からの言葉で、男から感じた戦闘力は横山道場の高弟たちに匹敵するものだった。
「……今日はどうした?」
「あ、そうだったそうだった。ちょっとインスピレーション受けて、試そうかなーと思ったんですよ」
「うん?」
男が完全にいなくなったことを確認した門弟が太一に確認を取る。
予定では太一が訪れる日ではなかったのだが、このチャラ男は笑いながら答えて敷地に入っていく。
「ちょーっとどっかを殴ってくれません? お願いします」
そして上の服を脱いだだけで門下生達を圧倒した。
見よ・見よ・見よ。
太陽が慄き、月が戦慄し、世界が震える肉体美。
大胸筋、腹直筋、腹斜筋、前鋸筋は言うに及ばず、腕から指先に至る全ての筋肉。鎖骨、胸骨、肋骨。上腕骨に橈骨・尺骨の完全な調和。
ただそこにいるだけで、人類史上最高の芸術に至りかねない究極完全体が、自分を殴れと宣う。
(これを殴れだって⁉)
ミケランジェロが作り出した像を殴れと言われた時、多くの人間は拒絶するだろう。それと同じことが門下生たちに起こったが、太一は早く早くと言わんばかりに手招きする。
「っ⁉」
仕方なく門下生の一人が拳で太一の腹を突き……恐怖した。
(人体⁉ 違う! 水⁉ ゴム⁉ )
それは筋骨隆々の大男を殴った感触では決してなかった。
門下生のイメージ通り、柔らかくも弾力があり、どれだけ殴っても壊れる筈がない物体だ。
「お前、それは人間をやめてるぞ」
「あっ。先生ー。どんな感じっすか?」
「だから人間をやめている。教えられる領分じゃない」
そこへ様子を窺っていた道場の主、横山がやって来て心底あきれ果てたという感情を太一に向ける。
「こ、これは?」
「本当に僅かな重心移動。こちらはいい。問題は筋肉の制御だ。拳が当たった個所を緩めて全身に衝撃を散らしたな? 言っていて意味が分からん。これ以上詳しい理屈を聞いてくれるな」
驚愕する門下生に、横山は自分なりの解釈をしたが頭を痛めているようで、今にも溜息を吐きそうな表情をしていた。
「いやあ、芯が通ってる真面目な剣道部の人と、体が凄い柔らかい新体操部の人からインスピレーションを受けましてね」
にやけ面で頭を掻く太一は人間の領域から足を踏み外しかけていた。
「硬いのと柔らかいのを両立したら結構凄いことになるんじゃねと考えたんですよ」
やはりどこか下品に感じる説明を理解出来る人間がいるのだろうか。
頑強、弾力、柔軟さを揃えるために、肉体の緊張と弛緩を完璧に制御しようと思う存在がどこにいる。
ここにいた。
才能という一点で全人類を押し潰せるのに、奇妙な憧れのために努力を惜しまない才能まで兼ね揃えている天才。
「いやあ、思ったより上手くいきました」
薄い世界において、チャラ男という存在はまさしく頂点だった。
チャラ男は弱点を見抜ける。どんな相手にも適応して肉体を変化させる。常識っすよね(*'ω'*)