戻ってない?日常
「睡蓮先輩……先輩?」
「……え? あ、どうしたのかしら?」
ゴールデンウィークはあっという間に終わり、日常に戻った筈の睡蓮は自分を呼ぶ後輩の声で我に返った。
「いえその、ご挨拶と思って」
「ボーっとしててごめんなさい」
「大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫」
慕っている睡蓮を見かけた後輩女子生徒が声をかけたのだが、そこらのアイドルが裸足で逃げ出す睡蓮が、どこか心ここにあらずと物思いに耽っている姿は非常に絵になる姿だった。
「ゴールデンウィークになにかあったんですか?」
「もう三年生だから、将来を考えてたの」
「睡蓮先輩ならどんな国際大会でもぶっちぎりですよ!」
「ありがとう」
後輩は睡蓮の様子が連休明けからおかしいことに気が付いていたが、返答は常識的なものであったため特に疑わず、水泳部の頂点を称えた。
睡蓮が慕われているのはなにも母性的で美しいだけではなく、部活姫の名に相応しい実力も併せ持っているからだ。
実際、水泳に関わりのある全国の女子学生達は、自分達が河野睡蓮世代だと認識しており、彼女の牙城を崩さなければ優勝がないと言われていた。
ただし、睡蓮と後輩の認識にはかなりの差がある。
後輩は睡蓮が卒業した後の競泳人生を考えていたが……。
(どうしよう……相沢君しか考えられない……)
その睡蓮は女としての感情がぐるぐると頭の中を巡っていた。
極端を言えば品種改良の成果である彼女は、しっかりと因習村の血が流れている。そして因習の血は煮えたぎって、最上級の男である太一を求めていた。
生物的にも愛だの恋だのといったものより、強さを基準にしていた方がずっと長いことに加えて、太一は強さだけではなく性格も善性寄りで好ましいものとなれば、ある意味で当然だろう。
「せーんぱい。お茶とかどうっすかね?」
タイミングを計っていたのか、後輩が去ってすぐにどこからともなく筋骨隆々のチャラ男、太一が現れて睡蓮を誘う。
その姿は誰がどう見ても、美人先輩を脅すチャラ男なのだが、客観的事実として睡蓮は弱みがあった。
惚れた弱みという名の。
「どうですかね先輩? なんか困ったことありませんか?」
太一は自分の城である小さな部屋に睡蓮を連れ込むと、珍しくチャラチャラした雰囲気を抑えて真剣に問う。
睡蓮は元々両親がおらず、僅かな繋がりが発覚した因習村も太一の手で叩き潰された上に、政府が介入してきて立ち入り禁止になってしまった。
そのため睡蓮は完全に身寄りがない存在と化しており、太一が心配するのも無理はない。
だがしかし、身寄りというものは作ろうと思えば作れるし、血縁も増やそうと思えば増やせる。
「うん。大丈夫。ありがとう相沢君」
既に同じようなやり取りを何度か行っていたため、睡蓮は気負わずに微笑む。
友人もいるし、後輩にも慕われている彼女は、水泳部との交流もある。それ故に学園内で孤立している訳ではなく、言ってしまえば両親の故郷が粉砕されたところであまり変わりがなかった。
「でもこれ以上ご迷惑をおかけするのも」
「いやあ、それにしても先輩マジ尊敬っすよ。あの状況で逃げてって言えるのマジ凄い。聖母かなってマジ思ったっす。それに俺ってば後輩なんで、軽い気持ちで話してくださいよ」
「もう……」
面倒の原因になっている自覚がある睡蓮は、これ以上頼ることは出来ないと言いかけた。しかし太一はすっとぼけた口調で睡蓮を褒め、かなり強引に話を終わらせる。
騎士が悪党から自分を守ってくれるというのは、そこそこ需要があるシチュエーションと言えるだろう。尤も睡蓮の前に現れたのはナイトではなく、ナイトプールで遊んでいるのが相応しい男だったのだが、睡蓮はチャラ男の心遣いが分かってしまう。
(嫌な……嫌な女……迷惑をかけたくないくせに相沢君に甘えて……)
自己肯定感が低い睡蓮は己に嫌悪を抱く。
事件後、常に太一のことを考えてしまう睡蓮は、理性でこれ以上の迷惑をかけられないと考えている。しかし、女としての感情は全くの逆で、寄りかかっても折れない男への情念が渦巻いていた。
「せーんぱい」
「あ、ごめんなさい」
「お世辞じゃないっすよ」
「え?」
自己嫌悪に沈んでいた睡蓮は、太一の呼びかけで我に返ったが、チャラ男は真剣な表情で彼女を見つめていた。
「あの状況に放り込まれて、助けてじゃなくて逃げてって言える人間、世界で数十人とかじゃないっすかね。本気も本気、マジのガチで先輩は凄いっすよ。先輩だからこそ、俺も少しだけお手伝いしたいと思ってるんです」
「……っ」
ただでさえフラフラしている睡蓮を、太一は崖から蹴飛ばした。とでも表現しようか。
(お、お妾さん……そ、それなら……)
真っ逆さまで落下中の睡蓮は、太一の邪魔にならず自分の望みも果たせる立場を視野に入れてしまい、頭の中がそれ一色になってしまう。
忌まわしい因習村の血が流れていることを自覚し、汚れている存在だと思い始めていた睡蓮に、真っ正面から尊敬と好意を伝えたチャラ男は、やはり女に対する特攻的存在なのかもしれない。
しかし、女の心を軽くするのは、チャラ男にとっての使命なのである。