慈悲
「この広く蒼い空を見上げて想う~。君も同じ蒼を見てるのかな~。」
空間全体に広がる多くの空中ディスプレイを見ながら夕弦は世界の情報を集めていた。先日衛星基地の格納庫と見紛うような倉庫で見つけて地上に放った自立型監視映像機器の調子はすこぶる良好であり各所に潜り込ませて役に立っている。
「おやおや、連絡が取れないと思ったらこんなところで遊んでいたんですね。」
夕弦がお試しとしてレイの補佐となり初めに行ったことは統率の立て直しと調律師の安否確認だ。
はっきり言ってレイの仕立てた調律師の環境は最悪の極みである。何を食べても栄養に変換され、老いもなく怪我や病気は数秒で治る半不老不死の体は便利だが苦痛が消えるわけではない。
味覚も嗅覚もあるのだから人の食事でないものなど食べようとは思えないし数秒で治ったとしても痛みはあるのだから怪我などしなくない。
内乱や戦争で荒廃している世界。治安が悪く衣食住もまともにない生活をする人間が半数以上だ。
神の領域と呼ばれる地帯に住まう人型のα元素変異体達が始祖を狙い箱庭に攻め入る防衛線と人同士の争いの処理。そんな劣悪な環境に投げ入れられた調律師達は各国の中枢に忍び込み諜報と情報操作、そして始祖の護衛をしている。
衛星での研修が終わると脱出ポッドに乗せられてR-0009へ落とされるのだ。今のR-0009に地上から宇宙へ飛び立つ技術はなく降りたら二度と衛星基地には戻れない片道切符であり、それは機械技術の備わった近未来の便利な環境から機械など存在しない原始的な生活をする時代にタイムスリップするようなのもだった。
耐えられずに命を絶つ者、忍び込んだ先の上層部の思想に同調して裏切る者が後を絶たない。泥水をすするような生活が続けば優遇という餌に喰いついてしまっても仕方がないだろう。
今の状況では始祖の力が満ち溢れる空間である箱庭を守るだけで手一杯であり世界情勢を握ることなど到底不可能だ。
その始祖達も異形の肉体が鎮座しているだけで神のように問いかけに応えることなく沈黙している。
レイの能力で鏡か水面さえあれば連絡を取り合うことが出来るが調律者同士は始祖と箱庭の護衛同士で無ければ顔を合わせる事すらない。
「もしもーし、リズさん聞こえますか?ウィルさんが裏切ってました。お手数おかけしますがいつも通りお願いします。」
夕弦は自立型監視映像機器に搭載されている無線にて現地の調律師へ連絡すると他のディスプレイに視線を移す。
レイは任務を口上で伝えて地上に落としたら時々連絡はとるものの基本放置であった。それでは実直な者であっても信頼関係が築けずに崩壊の一途辿るだけだろう。安否確認した調律師とコミュニケーションを取り、不穏分子の排除を行う。話し合いで解決すれば良いがそうでなければ心苦しいが拘束か処分という形になる。
世界にとって調律師は異物であり異質だ。影ながら補助したり導くことはあっても慣れ合うことは厳禁としている。
幸いにも人との温和な交流に飢えていた地上の調律師達は夕弦の話し合いに答えてくれた。やっと訪れたまともな司令塔に頼られている節もある。
不特定多数の人から信頼を寄せられ頼られる事に夕弦自身も達成感も感じた。
夕弦はもともと生真面目な仕事人間である。小さなことをコツコツと積み重ねて業績を上げて上り詰めたのだから地道な作業は慣れたものだ。
小さな羽音を立てて白い鳥が夕弦の肩に止まる。今となっては慣れたもので夕弦が驚くことも悲鳴を上げることもない。
≪夕弦、あまり無理しないでくださいね。≫
「大丈夫ですよ、レイ。」
お試し期間という形で調律師になることを了承した夕弦は休むことなく働いている。不老不死とはいえ最低限の睡眠も食事も必要なのだ。しかしながら横のミニテーブルに置かれているものはピッチャーに満たされた水と軽くつまめる甘味の菓子のみ。睡眠も椅子で数分目を閉じるくらいであった。
一度、作業を始めると他を疎かにして没頭してしまう癖は夕弦の長所であり短所だ。産まれる時代か場所が違えば重度のオタクや職人、もしくは引き籠りのフリーランスへ転じて勤しんでいた事だろう。
≪夕弦、その、今日でお試し期間満期です。えっと。≫
夕弦は苦笑しながら画面から目を離して歯切れの悪いレイに向き直った。レイの助手約は長続きしない。地上へと逃げて物理的に離れて行く者が後を絶たない。酷ければ命を絶って離れて逝ってしまう。
夕弦もレイを見限って去ってしまう事が彼は不安なのだ。
「ねぇ、レイ。どうして転移者達を調律師と呼ぶんですか?」
≪世界が壊れるとき、とてもきれいな聖歌が聞こえたんです。澄んだ歌声の中で災禍が始まりました。そして不協和音と一緒に災いは終わったんです。綺麗な旋律が崩れて歌が乱れる様は世界の終りのようで忘れられなくて。≫
レイは壊れた世界を音の狂った楽器に揶揄して、正しい音高や音色を保つように一定の基準音をもとに音律を整える調律師に例えたのだ。
≪夕弦、世界がこんな風になってしまったのは客観的に見れば私が悪いのかもしれません。私が何をしたかは今は言えませんが、でも私は私がしたことを間違っていないと信じています。今も、昔も。≫
「私の前任者はどうなったんですか?」
≪残念ながらミラの海でミセリコルデを使いました。どうしてあのまま地球で死なせてくれなかったのかと恨み言を言われましたよ。≫
ミセリコルデは慈悲の剣と呼ばれる刃渡り15センチメートルほどの鍔のない短剣だ。ほぼ不死である調律師が命を絶てる唯一の短剣。
R-0009は見るに堪えない状況にある。目を閉じ、耳をふさぎたくなるような惨状のなかにあった。前任者は生きたいと思えなかったのだろう。
≪夕弦、この世界では昔からの風習で本名を明かしません。完全に処理された個人情報を守る為と、真名を知られると魂を縛るという古い言い伝えで親と伴侶しか明かさないのです。そして調律師は半不老不死です。なので調律師となるときに通称とミセリコルデを与えます。≫
終わりを自身で選べる慈悲と真名を名乗れなくなる通称。
地球では頑張った先で手に入れた幸福はすべて仮初であり、裏切られて挫折した。今の夕弦に自ら命を絶つ勇気も地上に降りて暗躍する能力もない。
それでも夕弦はまだ生きている。
「いいですよ。レイさん。貴方の助手、調律師やってみます。」
新しい世界で夕弦はもう一度だけ頑張ることにした。この世界に地球での夕弦を知る者はレイしかいない。
≪夕弦、貴方の通称はシドです。能力は『繋』。他人と五感を共有したり念話を可能にします。≫
「プライバシーを著しく侵害する能力ですね。」
覗きでも情報の不正入手でも可能となる使いようによっては犯罪のような能力だ。
≪貴方なら正しく使うでしょう。≫
試すような視線に夕弦改めシドは苦笑を浮かべた。五感の共有と念話を可能にする能力ならば司令塔としては有意義に使えるだろう。
「ではあなたの世界征服を始めましょうか。レイさん」
≪頼りにしてますよ、シド。≫
「さて、これから忙しくなりますね。」
西暦2022年の地球文明を数千年単位で凌駕する科学力は十分に生かせておらず、効率も悪く離職率は高い。福利厚生など皆無で激務発給の特級ブラック企業より劣悪な職場。
年単位か数十年単位で組織を組み替えて明確なルールを作り、調律師の安全と保障をそろえて新規一変し生活環境も整えることが第一目標だ。
幸いなことに老化が停止したシドには莫大な時間がある。
「神様の真似事なんて柄じゃないですが組織の副社長くらいなら夢見ても許されるでしょうかね。」
◆調律師…何を食べても栄養に変換され、不老不死の体を持つが痛覚などはある。
◆箱庭…世界を浄化する稀人の始祖の力が満ち溢れる空間。
◆ミセリコルデ…慈悲の剣と呼ばれる刃渡り15センチメートルほどの鍔のない短剣。ほぼ不死である調律師が命を絶てる。
◆シド…夕弦の通称。
◆繋…シドの能力。他者と視覚と聴覚を共有し念話を可能にする。
お試し期間が終了し本採用。